1-2
その豪邸を、以前から何度も見たことがあった。
海浜公園沿いの道をずっと行き、灯台がある岬を通り過ぎたところに、木々と白い塀に囲われてひっそりと、離れ小島のようにそれは建っている。この寂れた海辺の田舎町には不釣り合いな、エレガントかつ近代的な雰囲気を帯びた、無機質な黒い建物だ。大小さまざまな四角いブロックを組み合わせたみたいな形状は明らかに異質で、どこぞの富豪の別荘か何かだろうかと、当初僕は思っていた。だもんで、それが華火くんの住む家だと知ったときは、随分と驚かされたものだった。
華火くんは実際、どこか普通とは違う男の子だ。でも、彼が豪邸住みのお坊ちゃんだというのは、どうも僕のイメージとは違っていた。
彼は、そんな「離れ」から、徒歩で四十分くらいかけて高校に通っているらしい。海浜公園のバス停からバスに乗れば幾分早いのではないかと思ったが、バスを待つ時間も考えると、結果大差ないのだそうだ。
「それに、オレ、歩くの好きだから」
彼はそう言って笑っていた。実際、散歩の才能というのがあるとしたら、彼はその持ち主だったと思う。
土曜の昼前に、僕たちは海浜公園で待ち合わせをした。
海辺に佇む彼は、藍色の半袖シャツを着ていた。広い袖口が海風に揺れている。彼はなにやら、砂浜に落ちたゴミか何かをじっと見下ろしているようだった。
「何、見てるの?」
「お、よっす、千鳥」彼は僕に気づいて笑う。
「おはよう、華火くん。何、見てる?」
「クラゲだよ、クラゲ」
彼は足元を指差す。そこに、カツオノエボシの死骸が横たわっている。ぷっくりと膨らんだ半透明の体が、ガラス瓶のように光を集めて返している。
「あったかくなると、よく流れつくんだよな。浮き袋でぷかぷか浮かんで、流されるまま流されて、そんでこんな風に」
彼の言い様はどこか皮肉っぽくて、芝居がかったものに聞こえる。
「毒があるの?」僕は尋ねた。
「あぁ。うっかり触れて刺されたら、笑えない」
手袋をした手のひらを、わざとらしくひらひらと動かして笑った。笑えないと言いながら彼は笑っていた。
「ちなみに、おしっこは意味ないぜ」
「それ、知ってる。まぁ、民間療法って基本そうだし」
「なぁんだ、知ってたか」
彼は、僕に「行こうぜ」と目配せをして、砂浜を歩き出した。彼の、最近買ったらしい真っ白のスニーカーが残す足痕をなぞるようにして、僕は彼の後ろをついていく。
「……あのさあ」僕はおずおずと言う。
「どうした?」
「キミんちの前で集合でもさ、良かったんじゃないかな。僕、場所わかるのに」
彼は、振り向かずに答えた。
「ちょっと歩きながら、話す時間が欲しかったんだよ」
そして、しばし沈黙した。そして、少し真剣な声色で続けた。
「オレんちってさ──」
そこまで言ったかと思うと、再び黙った。それでも、決して、歩みを止めるわけではなかった。僕は歩きながら、海岸の光景を見回した。
七月の海浜公園は、多くの人で賑わっている。家族や、友人や、恋人と遊びに海にやってきた人たちが、白い日差しの下、各々で浮かれて騒いでいるのが見える。
波打ち際にいる、水着の女性と、一眼レフを持った男性のペアが目に留まった。女性の方が、次々にポーズを取って、それを男性がカメラで撮る。遠目に見てはハッキリと分からないが、女性の方は派手な色のウイッグをしているようだ。きっと何かのキャラクターのコスプレだろうと思った。
僕はなぜか、それをジッと見ていられない気分になったので、華火くんの背中を見ることにした。
僕も、華火くんという友人と一緒に海に来ている。それなのに、どうしてだか、この海浜公園の風景を眺めていると、自分が場違いのように思えてくる。こうした違和感は、僕の頭の中にどうしても居着いていて、子どものころから拭えずにいる。
「ああ、はは。なんか。色々話そうと思ってたんだけどな。あー……そうだな──」
華火くんはへらへらしながら、そう言って頭を掻いた。思ったように言葉が出てこず、気まずさに困っているように見えた。
彼はきっと、本当は、事前に何もかも、説明してしまいたかったのだろう。彼の家庭の事情とか、これから向かう家にいる、あの子のことだとかを。
「──今日さ、多分、オレん家族に会うと思うんだ」
「……うん、そりゃね」
「ああ。妹がいてさ。二つ下の。……今日、そいつに会わせたくて誘った」
「僕を?」
「変な話だろ。オレも思うよ」
「まぁ、そうだね」
僕と華火くんは、階段を上って海浜公園を後にする。華火くんは階段の中ほどで立ち止まって、スニーカーの中の砂を落とした。彼が、片足ずつスニーカーを脱いで、ひっくり返すのを僕は待った。
彼の予告は、僕を困惑させていた。しかし、それ以上に、彼が何か、計画のようなものを企てようとしていることが、喜ばしくもあったのだ。彼は、卑俗なものに満ちた日常から、僕を美しい物語の舞台へと、いつも連れ出してくれる気がしていた。あの林間学校の夜から、ずっとそうだ。
彼の妹か。どんな子なのだろう。と、僕は素直に思っていた。
彼の家に上がり、スリッパに履き替えた僕は、そのまま、バドミントンできるくらいに馬鹿に広いリビングに通され、手足伸ばして寝られるくらいに大きいソファに座るように勧められた。
ガラスのローテーブルを囲うように、九十インチはありそうなテレビに向かって座れるよう、配置されたソファ。十数人は座れそうだ。全くもって、友だちの家という実感は沸かなかった。広すぎて、キッチンとダイニングテーブルははるか遠くに見える。食事はあっちで取るのだろうが、この家の人間はテレビを見ながら食事をしないのだろうか?
リビングは白を基調としていて日当たりが良いので、何もかもが清潔に輝いている。壁一面の巨大な窓の外には、パラソル付きのテーブルと椅子や、花の植えられた花壇のあるテラス、その奥に芝生が植えられた広々とした庭が見えた。吹き抜けの天井は高く、シーリングファンが音もなく静かに回転している。窓の反対側の壁に沿って、二階へと上がる階段があるのだが、ほとんど骨組みと板だけでできたデザイン重視のスケルトンな階段で、見ているだけで不安になった。全く持って、重力を感じない。
華火くんは、少し待っているようにと僕に言って、玄関の方へ戻っていった。僕は、テレビの横の鉢に植わった巨大なモンステラを眺めていることにした。観葉植物の名前には、特撮映画に出てくる怪獣めいたものが、やたらと多いような気がする。
窓で屈折した光が、白い床に虹を描いている。
ほどなくして、彼がやや駆け足で戻ってきた。
「妹、やっぱ地下にいた。ちょっと、挨拶してやってくれ。その後さ、部屋でゲームしようぜ」
──そもそも、ヒトガタというものについて、僕達人類は明瞭な定義を持ってはいない。彼らは一体いつどこからきたのか、誰も知りはしない。手に余る、早すぎた出会いだったとも、僕は思う──。
──華火くんの家には地下室があり、そこがホームジムになっていた。玄関ロビーにある階段を降りた先が地下室だ。黒を基調とした室内に、ルームランナーだとか、ベンチプレスだとか、吊るされたサンドバッグだとかが、所狭しと並んでいた。
「オレは使わないんだけどな。親父の道楽さ」
父親について彼が話すのはこの日が二度目だった。彼は以前、父親の人柄や仕事のことを教えてくれた。茶目っ気たっぷりの色男だと、冗談めかして語っていたっけか、と僕は回想する。
ところで……このホームジムで最も気になったものといえば、黒い壁の中で異質な、全面ガラスのドアのことだ。
そのドアの色は、海を思わせるシアンだった。
いや、ガラス張りで透明なので、実際には、向こう側にあるのであろう空間がシアン一色なのだ。磨りガラスになっているので、奥はよく見えない。わかるのは、向こうからの光が、不規則にゆらめいているらしいことだった。一面の青と、波のゆらめきだ。
そこに、華火くんの妹がいるのだろう、と、僕は直感的にわかった。
さらに言うと、そのドアの向こうは、海へと繋がっているような気がした。それは不思議な感覚だった。
「妹には話してあるから」
僕は、この時になってようやく緊張し始めた。彼がドアの取っ手を触り、向こう側へ入ろうとするとき、心臓が早鐘を打った。
彼はどういうつもりなのだろうか? 僕を、どうして妹に会わせようとするのだろうか? それに一体、何の意味があるのだろう? 僕はようやく、彼の仕草を不審に思った。このドアが開くということが、僕に何をもたらすのだろう? そういう不安を与えるほどに、そのドアには何か言いしれぬ、異界へと続く門のような、奇妙な雰囲気があった。
なぜなら、そこは明らかに、外界から秘匿された部屋に見えた。
華火くんが手に力を込める。
ドアが開き──部屋の全貌が見える。
「……ここは」
当たり前だが、海なんてそこにはなかった。だけども、確かに、それが表現されていた。
そこは、室内プールだった。部屋の中央に、十分に泳ぎ回れる広さのプールがあり、水が波立っている。床も壁も、天井にも、シアンのタイルが張られていた。天井に一箇所だけ、小さな窓があって、そこから自然光が取り入れられている。備え付けられた照明の光と合わさって、それらはうねり立つ水に反射されて、このどこまでも青い空間に光の波を描く。あの窓は、もしかしてあの庭のどこかと通じているのだろうか?
とにかくそこは、造られた海のようだった。
僕は、華火くんの背中ごしに見えたその部屋の景観に、少しばかり気圧されてしまった。ジロジロと見回すばかりで、ただ押し黙っていた。
彼の妹の姿は、パッと見ただけでは見つからなかった。だが、波立つ水から、誰かがつい今まで泳いでいたことがわかる。この部屋に、隠れられる場所は一つしかない。水中だ。
「ヒナ、きたよ」
華火くんが、聞いたことのない優しい声色で言った。すると、プールの中で大きな何かが動いて、いっそう水が波立った。
そして、彼女はゆっくりと、透明な水のベールをまとって、水面へと浮上する。
オレンジ色の、したたかな炎のような瞳が僕を見た。僕は、深みへ引きずり込まれる心地だった。あの日、鳥のヒトガタに見られたと感じた錯覚とは違って、確実に、彼女は華火くんの後ろにいる僕を見ていた。そう分かる、確かな眼差し。僕はすぐに身動きが取れなくなった。背筋に冷たい汗をかいた。
華火くんが横にはけ、僕に前に出るよう促した。僕はおそるおそる、一歩を踏み出して、プールの中の彼女を見下ろした。
華火くんが背後で言った。
「ヒナって言うんだ。火の魚と書いて、火魚」
華火くんは、そう言って彼女を紹介したが、僕は、なんと言っていいのか分からずに、だんまりを決め込んだ。火魚ちゃんは、そんな僕を警戒とも好奇心とも取れる表情のまま、じっと見上げている。
これが僕と
火魚ちゃんの外見のことを短い言葉で形容するのは、とても難しい。彼女は、半人半魚の、「魚のヒトガタ」であったが、童話に出てくる人魚とはまるで違った。
髪の毛や顔つきや、五本の指のある手足は、確かにヒトに近しい。だが、まずもって、鰓や鰭や尾といった、ヒトには存在しない器官が目に付くし、そもそも体型も、ヒトのそれとは大きく異なっていた。
首が人間のそれよりもずっと太く、長く伸びていて、その側面に五対の鋭い鰓孔がある。肩も不自然なまでになで肩で、頭部から胴体まで、余計な起伏がなく滑らかな、泳ぐための流線を描いている。
腕を見れば、前腕に不自然な扁形の出っ張りがある。それは、水を掻くための鰭のようだ。手も、野生的な印象の硬そうな爪が尖っている上に、指の間には水かきがある。
鰭といえば、背中にも背鰭らしきものがある。さらに背筋に沿って、臀からは太い尾が生えている。これにいたっては、魚類の尾部そのものだ。形状としては、サメのそれに似つかわしい。
前垂れのようなものが下腹を覆っている。あれは腹鰭のようだ。
肌もサメやエイのそれのように、滑らかでありつつもきめ細やかなざらざらで覆われていて、体の背面と前面で色が分かれている。背面は灰色に近い褐色で、前面は白色だ。背面の灰褐色は、尾に近づくにつれ白と混じって、複雑な斑模様になっているのが分かる。
そして、右の手首には、黄色い腕輪上の「タグ」がつけられていた。
あらゆる情報が、彼女がヒトではないことを、僕に理解させた。そして、彼女が華火くんの妹であるということが示す一つの可能性を、僕に予感させた。
「……こんにちは、ええと、千鳥です。華火くんの、友だちで」
僕は愛想笑いをして、彼女にそう言った。
彼女は、顔の下半分を水に沈めたまま、やはり黙って、訝しむような上目遣いで僕を見ていた。くるくると巻いた長い髪や顔立ちは、よく見れば確かに華火くんと似ていて、ますます、僕の中の予感を確かなものにしていった。
「おい、照れてるのかよ」
華火くんは、プールサイドにしゃがみ込んで、にこやかに、そう言った。火魚ちゃんは、どこかバツが悪そうに顔をしかめて、華火くんを睨んだ。相変わらず、彼女は一言も喋りはしない。それでもそこに「兄妹」という関係があることを、見せられた気がした。
やがて、火魚ちゃんはザブンと音を立てて再び潜水した。僕は、思わず一歩前に出て、それを目で追った。真っ青なプールの水の中を、火魚ちゃんは静かに泳ぎ出していた。
真上から見るのではわからなかった彼女の身体の大きさが、その時分かった。おそらく、彼女は兄である華火くんよりずっと大きくて、もし陸に上がれば、僕は見下されることになるだろう。泳ぐ彼女の姿は、巨大な人食いザメそのもので、僕は身がすくむ思いがした。
だけども、僕はそれから目を逸らせなかった。
彼女はプールの、向こう側の際まで言って、くるりと折り返した。そして、また僕の前に戻って来る。僕は、思わず後ずさりをする。
次の瞬間だった。水面に彼女の尾の先が浮かんだかと思うと、冷たい水しぶきが僕の顔に浴びせられた。一瞬、何がなんだか分からなくなった。少し間を置いて聞こえたのは、華火くんの笑い声だった。
「あはははは! 直撃。びしょびしょじゃん」
ずぶ濡れになった僕を見て、腹を抱えて笑っている。僕は、顔を拭って、プールの中の火魚ちゃんの方を改めて見た。
火魚ちゃんはまた、顔を少しだけ出して僕の方を睨んでいる。
「僕、何かした?」
僕はそう訊いたが、火魚ちゃんはやはり黙して、答えてはくれなかった。
訊かなければならないことが、とにかく山のようにあったと思う。火魚ちゃんがどうして僕に水しぶきを浴びせたかとか、そういったことではなくて、もっと大きな疑問を解消するために、しなくてはいけない質問が幾つもあった。
僕と華火くんは、なんとも微妙な空気をまとって、地下プールを後にした。微妙な空気というのは僕の思い込みだったかもしれない。彼は濡れた僕のことを笑って、むしろ楽しそうにしていたはずだ。
ただ、部屋でゲームをするという予定は、一旦ご破産になってしまった。それも、僕の服がずぶ濡れになったからだ。
彼は、服がすぐ乾くよう、少し外を散歩しようと提案してきた。
きっと、彼も話したかったのだろうと思う。
「火魚ちゃんは、君の実の妹なのか?」
僕は単刀直入に訊いた。太陽の黄金の輝きが、歩く僕らの、どす黒い影を伸ばしていた。僕はやっぱり彼の後ろで、彼の歩く道のりをなぞるように歩いていた。
「ああ、そうだよ」
彼はすんなりと答えて、笑った。
「オレも、人間じゃないんだ。純粋な意味ではさ、ヒトじゃないってわけ」
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