1-3
南波製薬株式会社は、華火くんのお父さんの会社だ。彼と出会う以前から名前を知っていた会社だったし、その事実を知ったときは、彼があんな豪邸に住んでいることの答え会わせが出来たと、僕は納得した。
ところで、その南波製薬が栄えるに至ったきっかけである、貴重な財源とやらが、ここで問題になってくる。実際のところ、僕はそれまで、そこにはまるで興味を抱いていなかった。だが、華火くんがそれを僕に打ち明けたときは、青天の霹靂だった。
それは、ヒトガタの血から作る薬らしい。
人魚の肉で人間が不老不死になるとかいう御伽噺を、この現代でまともに取り合うものはそういないと思う。しかしながら、ヒトガタという夢みたいな存在が現れて以来、御伽の国と実社会の境界はどこか曖昧になってしまったのかもしれない。僕がある程度のリアリティをもって、鳥のヒトガタを天使と思ったのもそのせいだろうか。しかし僕はあれを、それでも現実感のない出来事と受け止めて、日常に帰ることに努めた。それでいてやっぱり、すでに彼らという存在がこの社会で大きくなっていくのを、感じてはいたのだ。
僕は華火くんが、自分は純粋なヒトではないと告白してくれた時、彼の存在に儚さのようなものを見た気がした。めまいがした。暑さのせいじゃない。
華火くんと親友になったのは、林間学校の日の夜がきっかけだった。僕らは、なんて名前のとこだったか、今では思い出せないけども、山奥にある宿泊施設に泊まっていた。
燃える炎のことを考えていた。キャンプファイヤーの、燃える炎の思い出を振り返っていた。
僕は眠れなかったのだ。電気の消えた暗い和室の中、布団の上で、格天井の木目に目を凝らしていた。部屋には僕の他に三人いた。みんな三時間程前のキャンプファイヤーではしゃぎ疲れたのか、静かに寝息を立てていた。その中の誰とも、僕は特別に親しくはなかった。一方で、全員と等しく友だちだと言えなくもなかった。半笑いの受け答えで、一時的に友だちらしきものになることは、それほど難しいことではなかった。
しかし、僕は眠れなかった。蒸し暑さのためだけではない。
心を許した関係の基準として、同じ部屋にいられても、安心して眠ることができるというのがある。そういう基準において、やはり僕はその場の誰にも、心を許してはいなかったということだ。
そもそも子どものころから、僕は他人がいる状況で眠ることが苦手だ。もっと言うと、眠るということ自体が、自分が制御不能の状態に陥る気がして不安だった。夢の中は欲望の世界だからだ。夢を自分で制御できる人間もいるらしいが、僕にとっては、そこでは欲望が自分に取って代わるような感覚がある。そのことがうす気味悪いわけだった。意識の連続が途切れるし、そこでの記憶を現実に持ち帰れないことが多いという点でも不快だった。眠りが死とどれほど違うのかということを考えると、ますます眠れなくなる。
僕は、バルコニーに出ることにした。
それは気まぐれな思いつきだった。巡回する教師たちに見つからないよう警戒しなくてはならなかったが、寝苦しさと不安に僕は耐えかねた。窓を開けてほんの一歩出るだけのことだが、ささやかな逃避行だった。
だが、逃避した先に、気持ちよさそうに風に吹かれている男の子がいたので、僕は目を奪われてしまった。
バルコニーに出てすぐ右を見ると、そこに彼がいた。彼は柵に肘を乗っけて、頬杖をついて、星空の輝きの下、青く黒い奈落のように見える山々の風景を眺めていた。
バルコニーは、部屋の区切りなく、二階の端っこから端っこまで突っ切って繋がっている。彼は部屋割りだと隣の部屋に泊まっていたはずだ。隣の部屋の窓が、どうやら開けっ放しになっている。開けたのは彼だろう。
「南波くん」
僕が言うと、彼は目を丸くしてこちらを見た。
「なんだ、千鳥か。先生かと思ってびびったよ」
「……呼び捨て?」
「ダメ? でも、みんな千鳥って呼ぶよな」
「いいけど」
「オレんことも華火でいいよ」
僕は、一歩出て、彼の隣に並んで柵を掴んだ。ぬるい風が絶え間なく吹いている。それに身を任せると、確かに心地よさがあった。
「いい風だな。ぬるくて気分いい。ちょっと寂しくて、優しい感じがするね」
彼は目を閉じて風を感じている。風が彼の髪を揺らす。その時の彼はまだ髪を染めていなくて黒髪だったが、襟足が長くて、何度も頭髪検査に引っかかっていたのを覚えていた。夜中に悪びれずにバルコニーに出て機嫌良さげだし、彼は、いわゆる不良なのかもしれないな、と、そう僕は思った。
「君は、風を浴びにきたの?」
「ああ。千鳥は?」
「僕? ……眠れなかっただけかな」
「そうか。蒸し暑いしさ、無理ないぜ」
彼は僕の方を見て、いたずらっぽい微笑みを向けた。なんの笑みなのか、まるで分からなかった。僕と彼は、しばらく……僕が長く感じていただけかもしれないけど、言葉もなく見つめ合った。
不意に、彼のほうが口を開いた。
「カモシカ……」
「カモシカ?」
「見たかったな。見れなかったんだ、昼」彼は不満げに呟いた。「千鳥は見た?」
僕は考えた。確か、それは山あいを走るバスの車内でのことだ。右側の座席に座っているクラスメイトたちがざわざわと騒ぎ出した。「カモシカだ!」と誰かが一際大きい声で言って、そこからは大騒ぎだった。僕の隣のやつなんか、席を立って、右側の窓の外を見に行っていた。みんな滅多に山の方には来ないから、野生の動物が珍しかったのだ。
「僕も、見なかった。反対側の……窓際に、座っていたから」
「そっかぁ。オレもそうなんだよね。見たかったなぁ」
「カモシカを? ……そんなに見たい?」
「ああ。ほら、『カモシカのような足』って言うだろ。美脚のたとえでさ。そこまで言うからにはどれくらい美脚なのか気になるじゃない」
彼は至って真剣なように見えた。今にしてみれば、彼が真剣な顔をして冗談を言うこともあるってことくらい分かっているが、当時の僕はそれを真面目に受け取った。
「図鑑で見ればいいんじゃないの」
「図鑑のカモシカは、本当のカモシカじゃない。実際に見ない限りはネッシーやチュパカブラと大差ないと思うんだ」
「UMAとかってやつと? どうして」
「要するにさ、実感があるかどうかというところが、大事ってこと」
「……なんだそれ。変なの」
僕は笑った。体に染み付いた、反射的な笑いだった。嘲笑ととられても仕方のない笑いだったが、僕が笑ったのを見て、彼も「あはは」と短く笑った。
彼の爽やかな振る舞いが僕には不思議だった。彼はクラスで、ハッキリと孤立している人間だったからだ。いつも手袋をしているという、奇妙な振る舞いも原因の一つだろう。でもこうして話すと、むしろ、彼が誰ともつるまずにいることに違和感を覚えた。彼の喋りは軽やかで、声色は明るく、歯切れの悪さはどこにもない。被害妄想的な警戒心も、ある種の卑屈さみたいなものも一切感じさせない。爽やかで気楽で、言っていることは変わっているものの、人から好かれる素質に満ちているように見えた。
彼は、自然と孤独になったというより、孤独を愛している側の人間のようにその時思えた。
僕が愛想笑いを怠ってしまったのは、そういう気配を感じてしまったからだろう。
「……千鳥は、林間学校、楽しかった?」
彼は僕にそう訊いた。僕はハッとして、急いで笑顔を作った。
「え? ああ、うん。楽しかったかな」
「そう? その割には、微妙な顔だけど」
彼はすでに、僕の愛想笑いを見抜いていた。僕の目をじっと見つめている。暗い中だけども、月明かりのおかげでお互いの顔はくっきりと見えた。僕は、突然に内心を見透かされ、じっとりと冷や汗をかいた。
「……どうかな。わからない」
ついて出たのはそんな言葉だった。僕は、自分が楽しかったのかどうか、本当に、心の底からわからないと思った。
「わからない? 楽しくなかったってこと?」
バスでの移動中にした友人とのゲームのこととか、飯盒炊爨でカレーを作ったことや、渓流で遊んだこと、キャンプファイヤーで輪になって踊ったことだとか、思い当たる楽しみらしき楽しみは、色々あったように思う。だけど、僕にはそれが本当に楽しいのかわからなかった。自分自身の気持ちさえ、曇りガラスの向こう側にある、ぼんやりとしたシルエットのようだったのだ。その、確かに僕の心の前面に存在した曇りガラスは、曖昧さという盾になって僕を守ってくれてもいたが、しかし僕を、あらゆる確信や実感から遠ざけてもいた。
「いや、わからないんだ」僕は目を逸らして、念を押すように言う。「色々あって、色々、笑ったような気がするけど、本当に笑ったのかどうか」
「愛想笑い?」
「というより」
というより、と言って僕は止まった。すぐさま、否定の言葉が出てくる自分に驚いていた。
「……時々……何をしていても、何もしていないような──」
僕は華火くんの顔を直視できなかった。自分でも、何を言いたいのかよく分からなかったし、自己開示の言葉に気恥ずかしさがあった。彼と一対一でちゃんと話すのはこれが初めてなのにも関わらず、いきなり自分の弱点をさらしているような気がして、どうしようもなく、胸が苦しくなる。
彼は一言、簡潔に返事をした。
「オレと同じだね」
真意はどうあれ、彼はそう言った。浅はかな、安い共感という風には、僕には聞こえなかった。
彼は、柵に乗っけていた腕を持ち上げて、大きく伸びをした。このバルコニーに吹くぬるい風を全身で受け止めるように。そして、ゆっくりと息を吐いて、また僕を見た。
「なぁ、カモシカ見に行こうぜ」
彼はそう言った。僕は、呆気にとられて、しばらく彼のいたずらな微笑を眺めていた。
「……は?」
「抜け出してもバレやしないよ。きっと楽しいぜ」
やはり、彼は根っからの不良らしかった。悪びれずこんなことを言うのだから、そうに違いなかった。
しかし、これもまた、自分でも不思議なことに、僕はこう返事した。
「いいね」自然と口角が上がっていたと思う。「行こうぜ」
「え? ああ、そう。ふふっ。あはははは」
彼も、僕がそう言うのが意外だったのか、口元に手をあてて、控えめに笑い声を上げた。大声を出さないよう、涙目になって必死にこらえながら、肩を揺らして笑っていた。
僕自身も、自分から出てきた言葉に驚いていた。彼に笑われた気恥ずかしさと、そんなことを言ってのけたことによる、のぼせるような高揚感とで、顔が熱かった。そして彼の笑顔を見ているうちに、自分でも可笑しくてしょうがなくなってきた。ニヤニヤと、それはぎこちなかったけども、愛想笑いではなく、本当に笑った。
その時、下から、懐中電灯の光が僕らを照らした。見回りの先生が「おい、何してる?」と僕らに声をかけた。
「すみません、もう寝ます」
ちゃんと聞こえていたかは分からないが、彼は身を乗り出して先生にそう声をかけた。光に照らされて、潤んだ瞳が輝いて見えた。そして彼は、下から見えないように、その場にしゃがみ込む。僕もそれを真似した。
「残念。カモシカはまた今度だ」彼が小声で言う。
「今度っていつ?」
「今度は今度だ。また学校で会える」
「学校の近くにカモシカいないよ」
「カモシカかどうかはこの際重要じゃない。ネッシーだっていいよ。ネッシー捜そう」
ネッシーはもっといそうにない。と僕は突っ込もうと思ったけど、結局やめた。僕たちは、互いに「おやすみ」とだけ言い合って、それぞれの窓から、それぞれの部屋に戻った。
それが、僕と彼が親友になるきっかけの会話だった。
「──つまり、君のお父さんは、君のお母さんの血を使って、その薬を作ったわけ?」
火魚ちゃんとの邂逅のあと、僕は華火くんと町の牛丼屋に来ていた。窓際のテーブル席で向かい合って僕らは座っている。
彼があんな豪邸住みと思えない理由に、チェーン店の牛丼並盛を実に美味そうに食う、というのがあったりする。彼とは、よく学校帰りや、休日に牛丼屋に寄って一緒に食事をしたものだった。
彼は牛丼の玉ねぎを箸でつまみながら言った。
「そう。最初はそうだ。今はもちろん、母さんの血だけで賄っているというわけじゃない。世界中のヒトガタの血が、薬の材料だ」
「どんなヒトガタでもいいの? それとも、やっぱり人魚に類するものじゃないとダメなのかな」
「そうなら、いよいよ御伽話だな。その辺は、オレ、詳しくない。でも、なんでも良いというわけでもないのはそうらしい。血液型とか、なんかそういうの、あるんじゃないか?」
「なるほど」
彼は喋りながら、牛丼の肉と玉ねぎを、丼の中で仕分ける作業をしていた。カレーライスのように、米の上に肉のエリアと玉ねぎのエリアとを作るわけだ。それはいわば、牛丼の解体と呼べる作業だった。行儀がよいのかどうかはさておき、彼の手癖として、見慣れた所作だった。
「それって、どんな薬なの?」
「人魚の肉で不老不死みたいな、大げさなもんじゃないよ。難病の特効薬って感じ」
「なるほどなるほど」
僕は牛丼つゆだくの肉と米とを、箸でつかみ上げて、口に放り込んだ。つゆだくこそが、牛丼の本当の姿だと思う。お茶漬けなどもそうなのだが、僕はびしょびしょの白米が好きだ。
咀嚼しながら僕は聞いた話を頭の中で整理した。
つまりは、こういうことだ。華火くんのお父さんは、ヒトガタの女性と結婚した。そして、妻の血液から作った「特効薬」を足がかりに、南波製薬の社長として、室内プールにホームジムつきの、海辺のデザイナーズハウスに暮らすまでになったのだ。ヒトとヒトガタの、種族を超えた共生と言うのだろうか。
華火くんと火魚ちゃんは、そんな両親の間から生まれた、ヒトとヒトガタのハーフ、というわけだった。
「そんなに驚かないんだな」
彼は僕の態度に拍子抜けなようだった。僕は咀嚼していたものを飲み込み、「まぁね」と言った。
「深刻に受け取ってほしいなら、牛丼屋に来るべきじゃないよ」
「確かにそうだ」彼は笑った。「なんせ牛丼屋だしな」
「最初は驚いたけどね。歩いているうちに、色々と受け入れて準備できた」
「そっか」
「……ああ、そうだ、一番訊きたいことを忘れていた」
そう、最初から気にしていたことだ。あのプールのドアを開ける前に感じた疑問について、僕は未だに確かな解答を得ていない。僕としては、諸々のことの成り行きよりも確認しておく必要がある。
「僕を火魚ちゃんに会わせたいっていうのは、どういう話だったの?」
「ああ、そうだな。たしかに」
彼は箸を置いた。牛丼の解体は、僕が頭の中で色々と整理している間に、すっかり済んでしまっていた。彼の牛丼は、綺麗に解体されていた。肉と玉ねぎとの間に見えない壁があるように、二つの領域は完全に分断されている。
彼は滔々と喋り始めた。
「見ての通り、オレと火魚は兄妹だけど似ていない。全然似ていない。オレは極端に父親に似て、火魚は極端に母親に似たわけだ。なぜここまで極端か、理由は分からない。なにせヒトガタというの自体が、そもそもよく分からない存在だからな。
とにかく、オレはほとんどヒトとして生まれてきた。色々検査も受けたけど、生物学的にヒトなんだ。ヒトガタの血を引いてはいるけどね。タグもつける必要がなかった。純粋なヒトではないけど……普通に、人間として生きてこられた。
でもって、火魚は完全にヒトガタだ。タグをつける必要があった。もちろん法律上人間として、人権も保証されている。でも、生き物として、あまりにも違うだろう」
「そうだね。確かにそうだ」
「だから火魚は、生きづらいんだと思う。そのせいか、ずっと引きこもっている。……オレは、火魚が辛くならないためになんでもしてあげたい。
ある日、お前の話を火魚にしたんだ。それ自体は、興味あるんだかないんだか、相変わらずよく分からない反応だったんだけどさ。興味本位で、家に呼んだら会うか、って訊いた。
そしたら、『うん』、って。そう言った。そんだけ。ほんとそれだけ。思えばあいつ、家の外の人と、全然喋る機会ないな……って、オレはその時思った」
「……そうか」
彼の言葉を、相槌を打ちながら聞く中で感じたのは、彼が火魚ちゃんに向けている、純粋な兄妹愛だった。
僕は一人っ子なので、彼の抱く愛情について、本当の意味では理解できないのだろう。広く家族愛ととっても、僕と両親との関係は、少なくとも僕の主観では良好とは言えないので、やはりそれは僕の中には根本的にないものに違いない。僕が彼を好きなのは、彼が僕にないものを持っているからだ……そうよく思う。
「それで、つまり、今日実際に会ってみたという流れだけど、あれ、どうだったのかな?」
僕が尋ねると、彼は苦笑いを浮かべた。
「はは……ちょっと、気難しいヤツだからなぁ」
「そうみたいだね」
「千鳥さえ良ければ、また会いにきてやってくれないかな」
「いいよ。火魚ちゃんが、良ければだけど」
「そうだな。また訊いてみよう」
僕と華火くんは、急いで牛丼をかきこんで、店を後にした。
まだ七月とは言え、夏の日差しは厳しいものだった。空は青くて、青すぎて、どこか作り物くさくて、ホリゾントか何かのように思えた。
「眩しいなぁ。鮮やかだし」華火くんは言った。
「そうだねぇ」
「曖昧なこととかさ、許されない気がするよ」
彼のそういう抽象的な言葉は、僕に考えることをさせてくれる。僕はかつて、会話は見えない台本に従って自動的に行われるものだと思っていた。でも、彼との会話はそうではないのだ。
そうかもしれない、と僕は思った。この強い日差しには、光と影との分断を色濃くしてしまうような、暴力的なところがある。
「そうだね」と僕は言った。
僕らは再び、南波邸へと戻ってきた。電子錠が開き、玄関に入るとき、僕はこの家の中が既知の領域になっていたことに、ある種の感動を覚えた。
この家の家事全般は、基本的には家政婦さんがやっているらしい。この時間は、ちょうど買い物に出て席を外しているのだそうだ。あのプールの手入れまでやっているのかと思うと、想像しただけでなかなかの激務だ。何かと守秘義務も多いだろうし、任せるなら相応に信頼の置ける人物でなくてはならないだろう。
それと、母親は、今は別のところに住んでいるらしい。
僕と華火くんは、再びあのリビングにやってきた。今度は勧められる前に、またあのでかいソファに腰掛けた。
「あれ」
窓の外を見た華火くんが何かに気づいた。僕も、窓の外を見る。
庭に、火魚ちゃんの姿があった。僕はてっきり、彼女はまだプールにいるものだと思っていたので、少しばかり驚いた。
火魚ちゃんは、大きめの、白いバルーンスリーブのブラウスを着て、黒いスカートを履いている。あの服はきっと、彼女のためのオーダーメイドの品だろう。ブラウスとスカートの背中側にスリットがあって、そこから綺麗に、あの背鰭と尻尾だけ外に出している。
靴は履いていない。素足で、芝生の上にじっと立って、空を見上げている。
僕はその時ようやく、プールで会った火魚ちゃんが裸だったことを認識した。体の作りが人間と違いすぎて、あまり意識していなかったのだ。
とはいえ……そのことについて、深く考えるのはやめにした。彼女はそこに関して羞恥心を抱いている様子はなかったし、僕も気にしていなかったのだから、それでいい。
「声かけてくるよ」
そう言って、華火くんは庭に続くガラス戸を開けて、火魚ちゃんがいる庭へ向かった。
この時になって気づいたことと言えば、もう一つある。庭を囲う塀が一箇所途切れていて、そこに小さな門扉があり、奥に通路が伸びている。塀の向こうは木々が茂っているし、通路は曲がっていて先が見えないが、あの先にあるものといったら、一つしかない。海だ。プライベートビーチってやつだろうか? プールだけでも十分驚きだったが、やはり大富豪は格が違う。灯台のある岬と岩礁に隠された秘密の砂浜が、きっとそこにあるのだろう。
火魚ちゃんは本物の海でも泳ぐのだろうか。それとも、あの四角い人工の海でしか、泳がないのだろうか。
庭で、華火くんが火魚ちゃんに声をかける。並ぶと、やはり火魚ちゃんは華火くんよりも随分と背が高かった。
二人の会話は、当然ここからは聞こえない。だけど、僕は二人の無音の会話を、リビングからずっと見ていた。彼女の尻尾は、話している間中ずっと、忙しなくゆらゆら揺れていた。
しばらくして、華火くんが踵を返し、こちらへと戻ってきた。ガラス戸を開けるなり、彼は言った。
「水かけて、悪かったってさ」
「え?」
「今日はちょっと虫の居所が悪かったみたい」
彼は呆れたような笑いを見せた。僕も思わず笑った。
「日光浴ができるなら、脱引きこもりも近いな」
「はは、言えてるな」
また僕が家に来ること自体は、どうやら問題ないらしかった。その後、僕らは当初の予定通り華火くんの部屋でゲームをして午後を過ごすことにした。
あの頼りないスケルトンの階段を華火くんが上っていく。僕もそれに続こうと、ソファから立ち上がる。
ふと窓の外を見ると、庭に立っている火魚ちゃんがちょうどこちらを見ていて、目と目があった。火魚ちゃんは小さく、控えめにお辞儀をした。その所作は、まぎれもなく人間らしさに満ちた所作だった。
妹がいるというのは、どういう気分なんだろうか? それも、自分とまるで違う……ヒトですらない外見の妹だ。
僕は一人っ子だ。両親は僕だけを作って、僕だけを育てたのだ。
ぼんやりと、いやな記憶が頭をよぎった。悪夢の入口を見たような気がした。
華火くんの部屋は、やはり僕の部屋なんかよりずっと広かったし、クローゼットも大きかったし、テレビも、据え置きのゲーム機もあった。本棚の本はジャンルに偏りがなく、古典の純文学から新書、流行りの少年漫画、画集や写真集に加えて、生き物の図鑑なんかもあって、実に彼らしい。変に華美なところはなくシンプルで、ラグもカーテンもベッドカバーも、無地の紺色だった。
部屋の隅にクリーム色のアコースティック・ギターが立てかけられていた。
「弾くの?」
「弾かないよ。向いてなかったんだ。インテリアかな」
ギターといえば、僕にも父親のお古を触った思い出がある。だが、結局それは僕の趣味にも特技にもなりはしなかった。
僕と華火くんは、夕方まで「ゴラク大全」というゲームをして過ごした。
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