ひと、さくはな

1.南波邸のこと 

1-1

 南波なんば華火はなびくんは僕の親友で、海辺の風がよく似合う男の子だった。

 彼は冷静で、それでいて軽やかだった。学者のようでも、詩人のようでもあった。彼の目と心とは、普通の高校生が見逃す、世界の小さな揺らぎに敏感だった。道ばたの草花や、小さな虫や、ふいに吹く風について、僕は決して深く考えはしなかったし、それらは僕の五感をただ通過していくだけの背景だったけども、彼にとっては違った。彼は、自然や動物のことが大好きだった。遥か遠くの雲を裂く稲妻すら、きっと彼には言葉だった。

「日頃、話し相手がいないんで、考えることを増やして、頭の中を賑やかにしたくなるのさ。今はこうして、お前が色々と聞いてくれて、だいぶ楽しいけどね」

 彼はそう言っていた。

中学の林間学校で親しくなって以来、いつの間にやら、僕と彼は何をするにも、一緒に連れ添うようになっていた。彼のような人が、どうして僕のことを気に入ったのか。その辺り、思い当たることはあれど、未だにハッキリとしたことは聞けていない。だが、とにかく彼との時間は、僕にとって心地のいいものだった。

 それに僕は、親友になるずっと前から、彼のことを遠巻きに眺めていた気がする。彼の纏う不思議な雰囲気に、最初から惹かれていたのかもしれない。

細く長い首筋も、出っ張った喉仏も、カッターシャツの袖と、いつもつけている布手袋との間に覗いた腕も、陽の光を通して琥珀のように光る明るい茶髪も、僕の目にはっきりと焼き付いている。

 彼は僕に心を開いてくれていた。ついに、決して人には見せない秘密の領域までも、僕に打ち明けてくれた。振る舞いに反して決して軽やかでない、心の重力の底の方にあるものにさえ、僕は触れてしまった。

 十五の夏だ。七月、海岸沿いに建つ彼の家に、僕は初めて上がった。

 そこで僕は、半人半魚の女の子と出会った。



† † †



 を実際に見た最初の記憶といえば、あれはまだ華火くんと出会う前の、中学校からの下校途中の出来事だったはずだ。

 パチンコ屋の看板の上に、大きな鳥の翼を見た。だが、よくよく目を凝らして見ると、それは鳥なんかではなくて、幻想の物語に出てくるような、神秘的な造形をしている。そうだ、あれは天使だ。天使が休憩している。最初、そう思ったのを覚えている。

 腰のあたりから大きな翼を生やした人間のシルエットが、黄昏の空を背負って、看板の上にしゃがみ込んでいる。服は着ていなくて、全体的に真っ白だったと思う。でも、男か女かは、判断がつかなかった。じっと見上げていると、夕陽の眩しさが僕の目を突き刺して、視界が霞んできた。

 目をこすって、僕はもう一度見上げ直した。その時になって、僕はようやくわかった。

「ヒトガタ」僕は小さく呟いた。

 鳥でもなければ、天使でもなく、それはヒトガタだった。ちょうど、総合学習の授業で習ったばかりの頃合いだった。タグをつけているようには見えないから、きっと戸籍のないノラのやつだ。どこからか迷い込んだのだろうか? と僕は思った。

 鳥のヒトガタが、僕をちらっと見下ろした気がした。多分、そう見えただけだ。ヒトガタは、腰の翼を力強く羽ばたかせて、その場から飛び去っていった。

ヒトガタ──その、極めてヒトのようでいて、決してヒトでない動物──が、夕闇のオレンジの中に消えていく。

 そのヒトガタのことは、交番に知らせに行くべきだっただろう。だが、僕はそうしなかった。それが何故か、ハッキリとはわからない。ただ、僕がその時点から、に何か思い入れを抱いていたわけではないのは確かだ。単に億劫だっただけかもしれない。あの外見では目立つだろうし、僕がそうしなくても、すぐに誰かが通報するだろう、と。

 それに、その時は、なんとなく自分に関係ない、現実感のない出来事のように思えていたのも事実だ。実際彼らは稀な存在に違いなかったし、テレビで見るヒトガタに関する人権団体のデモの様子も、そういった活動の進展も、どこか他人事だった。動画サイトで見る、陰謀論じみたヒトガタ評もある種のエンタメだった。

 結局、僕はついに、誰にもそのことを話しはしなかった。ただ真っ直ぐに家に帰って、いつも通りの日常を再始動するだけのことだった。


「ははは。そんなことがね。やっぱ変わってるよ、千鳥は」

 ──高校一年生の初夏、僕はあのことを、ふと思い出した。華火くんとの下校の道すがら、またあのパチンコ屋の下を通りかかったからだ。僕らの通う高校はこの道の反対側にあって、普段の下校であればこの場所は通らない。だが、僕らはその日、気まぐれな遠回りをしていた。彼といると、そういう遠回りはよくあることだった。

 僕の思い出話を、華火くんは笑って聞いてくれる。

「ノラのヒトガタを町で見たなんて話さ。人に話したくならなかったのか?」

「それは──」

 ほんの少し戸惑って、口を噤んだ。罪悪感がないではない。結局、あのヒトガタはどうなったのか……と僕はその時考えた。通報しなかったことで、僕の計り知れない問題がどこかで起こっていたかもしれない。実際、ヒトガタはヒトに比べて本能的で直情的である、というような噂話はよく聞くし、彼らが発端の暴力沙汰のニュースも見たことがあった。

 でも、華火くんにそういう責任を追及する意図がないことは、僕にも分かった。

「──やっぱり多分、億劫だったんだよ。人に話して、色々突っ込まれるのがさ」

「はは、そうか」

 彼は、からかうような笑みを僕に向けた。お前らしいね、とでも言いたげだった。

 彼は不意に、パチンコ屋の看板を見上げた。

「どう思った? ヒトガタって」

「どうっていうのは?」

「怖かったか?」

 彼の問いはシンプルだった。そう思う人は、実際多くいるだろう。僕はどうだっただろうか、と思い返した。

 僕の答えは少々回りくどくなった。

「……いや、だからさ、天使だと思ったんだ」

「……なるほど?」

「つまり、キレイだって思ったんじゃないかな。夕陽のせいかも知れないし、そもそもあまり、しっかり、覚えていないんだけど……」

 僕が曖昧に語尾を濁して答えると、華火くんは、しばらく俯いた。自分の手のひらを見つめて。

 彼は、いつも白い薄手の布手袋をしている。

 彼は決して、それを外そうとはしなかった。水泳の授業を彼は休んでいたし、修学旅行でも、彼は大浴場を使わず、個室に備え付けのシャワールームを使っていた。

 以前わけを尋ねた時は、皮膚が弱いので、無意識に体を掻いて傷つけないためだと言っていた。だけども、夏場だろうと外さないと頑ななのは、流石に奇妙に思える。極度の潔癖症にも見えたが、彼から、そういうのに特有の神経質さを感じたことはない。

 彼は、顔を上げるとニッコリと笑った。

「いいね。遠回りもしてみるもんだ。こうして面白い話も聞けるし!」

 今にして思えば、華火くんが僕を家に招こうと決めたのは、このやりとりがきっかけだったのだろう。

 数日たって、金曜の夜、スマホのメッセージアプリに、彼から連絡が届いた。僕らは普段あまり、文面でのやり取りをしないので、少しだけ驚いた。内容は、彼らしく至ってシンプルだった。

「土曜日、家に来ない? 億劫でなければだけど」

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