第5話 夢よりも信じがたい 4/4
家に帰り着くとどっと疲れが押し寄せる。まだやることは残っているが、一旦すべて後回しにして葵はベッドに飛び込んだ。朝からバタバタし通しで気力は限界に近い。少しだけ頭を空っぽにする余裕が欲しかった。
「お疲れの様子だね。無理もないか」
仰向けになって虚ろな目で天井を眺めていると狐が話しかけてくる。誰のせいだと思ってる、と悪態をつきたいが、相手をしている元気もなかった。
「なんにせよ目的の物は入手できて良かった。これでちょっとは強気に動ける」
返事をしない葵の態度に構わず狐は質問を投げかける。恐らく診断書のことを言っているのだろう。一番棚上げしておきたいことだったのだが、この狐はそれを分かっていて話を振っているのだと葵は思った。
「・・・目的なんて勝手に決めないでよ」
狐に背を向けて葵は抗議した。狐の言葉は最初から診断書を得るつもりで葵を医者に連れて行ったことを意味している。それはつまり
「あんたはあたしに仕事を辞めさせたいの?」
こういうことだと葵は理解した。動機は分からないが今日の狐の行動を整理するとそうとしか思えない。
「ああ、さすがに分かるか。うん、そうだよ」
やや間があって狐は答えた。てっきりごまかすかと思っていたので葵は驚き、思わず狐の方を振り返る。
「否定しないんだ」
「分かってるなら取り繕っても仕方ないだろ?」
狐は葵の問いに両手を広げて答える。芝居がかった身振りに反して淡々とした口調で、余計に本心が見えない。
「なんで辞めさせたいの?」
何を考えているのか探ろうとしたところで無駄だと感じた葵は素直に尋ねることにした。またごまかされるかもしれないが、表情を窺うよりかはマシな手応えが得られる気がする。
「なんでって、そりゃあねぇ」
狐が今度は言葉を濁す。煙に巻くと言うよりは言葉にしにくいといった態度で、チラチラと窓に視線をやっている。ああ、そういうことか。
「仕事のせいだって言いたいんだ」
「仕事っていうか、会社だね」
葵が考えないようにしていたことを狐はあっさりと口にしてのけた。医師の問いから薄々感じてはいたが、改めて突きつけられると消化しきれずに葵は押し黙ってしまう。
「だってなあ、君のところはおかしなことがいくつもある。言ったろ? 病欠だっていうのに休ませるのに苦労したって。それに君は当たり前のようにプライベートのメールで上司に連絡をしようとした。仕事用があるのにおかしいじゃないか」
言葉を返さない葵に畳み掛けるように狐は続ける。
「つまりいつもそうしてるんだよな。プライベートの連絡先をパワハラ上司に握られてるってことだ。コンプラはどうなってるんだい? 推測だけど休日でも平気で着信があったりするんじゃないか? だとしたらはっきり言うよ、真っ黒だ」
好き放題言われているようで葵はなにか反論したかったが言葉が出てこない。何も知らないくせに、とは言えなかった。狐の言っていることは正論だ。週末だろうが退勤後だろうがお構いなしに電話が掛かってくるのも事実だった。
今朝のほんの僅かなやり取りだけでそこまで分かってしまうものなのかと葵はうなだれる。
「・・・とまあ、結構なことを言ったけど、大丈夫かな。気を悪くしたなら謝るよ」
ショックな様子の葵を見て狐は口調を和らげて言う。少々バツが悪そうだ。
「・・・いや、大丈夫。うん、平気。ごめん」
謝られると気まずくなり葵も思わず謝罪の言葉を口にした。自分の態度が言いづらいことを言わせたようで謝らずにはいられなかった。
「どうして君が謝るんだ。調子狂うなあ」
狐はポリポリと頭を掻きながら困った様子で言う。その様子を葵はじっと見つめていた。心の裡は読めないが度々感情を顕にする狐に無意識に視線が吸い寄せられる。
「やっぱり辞めるべきなのかな」
葵は上体を起こして狐の目をまっすぐ見ながら小声で尋ねる。答えはわかりきっているがまだ迷いが残る。
「私はそう思うよ。でも、君の人生だからね。結局は君自身が決めなきゃいけない。結論を急ぐようで心苦しいけどさ」
狐は視線を合わせたまま答えた。その言葉に葵は深呼吸をする。決めるのは怖いが、先延ばしにするのはもっと良くない気がした。
「うん、辞めることにする」
ゆっくりと、自分の言葉を噛みしめるように葵は言った。この決断はきっと間違っていないと思う。
「あーあ、言っちゃった」
葵が脱力するようにまた布団に倒れ込むと枕からぽすっと軽い音がした。
「撤回する?」
「しない」
冗談めいた狐の問いに葵は即答する。
「そうか。じゃあ、一歩前進だな」
そう言うと狐は膝を叩いてすっと立ち上がり、部屋の外へと歩いていく。そして、いつの間に沸かしていたのかお湯の入った電気ケトルを手に戻って来た。
「本当はやかんで沸かした方が好きなんだけどねぇ」
それから独り言を言いつつコーヒーを淹れはじめると、部屋中にほろ苦さと甘みが混ざったいい香りが漂った。
「ねぇ」
「ん、なんだい?」
「あたしにもちょうだい」
朝は鼻についた香りがなぜだか今は興味をそそる。
「コーヒー好きじゃないって言ってなかった?」
「そういう気分なの」
狐は葵の要求にきょとんとした様子で問い返す。葵はもどかしくなって、身体を起こしながら少し強めに狐に催促した。
「ごめんごめん、意地悪だった。良いよ、ただちょっと待ってな」
狐は苦笑しながらまた立ち上がって玄関の方へ向かった。いちいち部屋を出るのは玄関先に荷物を置いてるからだろうか。戻ってきた狐は別のカップとドリップコーヒーのパックを手にしている。
「別に、新しく淹れなくても同じので良いのに」
「いやまあ、そういうわけにはいかない事情もあってね?」
慣れた手つきで2杯分のコーヒーを入れる狐の背に葵は言う。狐の返答は軽い調子で、ひとつのカップを分け合うことを遠慮しているという風ではないようだ。じゃあ、事情とは?
葵がそんなことを考えていると狐は振り返ってカップを葵に手渡した。
「はい、カフェインレスだ。今の君の身体はデリケートだからね。刺激は避けておこう。ちなみに今朝のもカフェインレスだったんだけど、こっちは普通のなんだ。君が飲まないと思ったからね」
「ん、ありがとう」
なるほど確かに、と狐の言葉に葵は思った。そういえば薬局で飲み合わせについて注意を受けたときに、狐が説明書きをじっくり読んでいくつか質問をしていたことを思い出す。そのときのメモも後で目を通さなきゃな、と思いながら葵はくすっと小さく笑った。
「どうかしたの?」
「別に、なんでもない」
今日は一から十まで狐に面倒を見られている、昨日まで他人だったはずなのにまるで保護者のようだと思うとそのおかしさがたまらない。狐が不思議そうに葵の顔を見るのでごまかすように葵はカップを傾けた。
「・・・へぇ」
一口飲むと思わず感嘆の声が漏れる。目覚ましに毎朝飲んでいた缶コーヒーは味が感じられなくて好きじゃなかった。しかし今口にしたこれはいつものとは違って味も香りもする。苦いのはあまり得意な方ではないが、不快感はない。
「気に入った?」
「わかんない、でも嫌いじゃない」
「そうか、それはなにより」
ややあって狐も自分のカップを口に運ぶ。つられて葵も二口目を先程よりもゆっくりと味わう。確かに美味しいと感じた。
「うん、美味しい。いいコーヒーだから?」
「まあ、豆は良いものだけど。でも多分、それだけじゃないだろうね」
「?」
「嗜好品だからさ、気持ちの方が味には影響すると思うよ?」
「・・・なるほど」
両手で抱えたカップの水面を覗き込みながら葵は納得するように頷いた。思えばコーヒーを落ち着いて飲むのは初めてかもしれない。毎朝の缶コーヒーが味がしなかったのも追い立てられていたからか。確かに今は心地が良い。
『ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅ・・・』
すると急にお腹が激しく鳴った。自分から出たとは思えないほど盛大な音に葵は目を丸くする。そういえば今朝から何も食べていない。さっきまで食欲はなかったのだが緊張がほぐれたからなのか一気にお腹が空いてくる。
だがそれよりもあまりの音に恥ずかしさが先に立つ。顔を覆いたいが、カップで両手が塞がっていてそれもできず、葵は困った顔で狐を見ることしかできない。
「・・・ふっ。はっはっはっはっは!」
慌てふためく葵の様子に堪えきれなくなったように狐は笑った。余計に恥ずかしくなって葵は顔を真っ赤にし涙目で狐を睨みつける。
「笑いすぎ!」
「ふふふ、くっ、ごめんよ、そう睨まないでくれ。一食もしてないんだからお腹ぐらい減るよな。少し早いが夕食にしようか」
狐は笑いながら席を立って帰りがけに買ってきた惣菜を準備しはじめる。その様子を恥ずかしさで震えながら葵は見つめていた。
夕食を終え薬を飲みシャワーを浴びて、一息つくと一番おかしなことを見落としていることに気がつく。さも当たり前のようにこの狐頭と一緒に外出したが、誰も狐の顔に反応をしていなかった。一体どういうことだ?
「なんだい、人の顔をジロジロ見て。確かに変な顔だがそろそろ慣れただろう?」
葵が訝しむように狐を見ていると反応があった。認めたくないが確かに慣れてしまっている。だからそれが変であることに気付けなかったのだが。
狐の言葉に返事もせずに葵はうんうん唸りながら考え込み、そしてひとつの仮説にたどりつく。
「ねえ、もしかしてさ、あたしにだけ狐に見えてるの?」
出会う人は全員狐頭の人間に驚くどころか目を逸らしすらせず、普通の人間に普通に対応しているようにしか思えなかった。となれば、『普通の人間に見えている』と考える他ない。
「おお、訊かれないからとっくに気づいてるのかと思ってた。その通りだよ」
葵の問に狐はあっけらかんと答えた。なんでそうなるのか、元々この狐は謎だらけだが更に謎が増えて葵は頭を抱える。
「・・・やっぱり幻覚? 病院に戻った方がいい?」
昨晩からずっと幻覚を見ているとしたら、のほほんとしている場合ではないだろう。診療時刻はとっくに過ぎているし、精神科に急患があるかは分からないが、もう一度診察を受けなければならない気がする。
「いいや? 狐に見えてる方が正しいんだよ。君にだけ、私の本当の姿が見えてるのさ」
「はあ???」
しかし狐の返答は予想だにしないものだった。幻覚だと言われた方が百倍は納得できる。葵は思わず口をあんぐり開けて固まってしまった。
「ただまあ、そのことは誰にも言わないほうが良いだろうね。それこそ本当に幻覚を見てると思われかねないし、そうなったら面倒だ」
葵の様子などお構いなしに狐は言葉を続ける。何を言っているのかよく分からないが、狐の言うことが真実ならば確かに下手に他人に言うべきことではないだろう。
「なんでそんなことに?」
しかしそれはつまりこのおかしな現実を自分だけで受け止めなければならないことを意味するわけで、またわけの分からないことが増えてめまいがしそうになる。右手で頭を押さえつつなんとか絞り出したのは疑問の言葉だった。
「そりゃ狐だからね。化かされてるんだよ、みんな」
「あはは・・・。なるほどそれなら納得」
本当に納得などしているわけもないが、もはや笑うしかない。事実そうなっているのだからジタバタしてもどうしようもないのだ。耐えられずに葵はベッドに倒れ込んだ。
「ねぇ、あのさあ」
「うん、なんだい? もう寝るから出ていけってことかな?」
葵が枕に突っ伏したまま狐に声を掛けるとヘラヘラした様子で狐は返事をする。
「ううん、逆。もう寝るのはそうだけど、どっか行かないで」
「はい?」
葵の言葉が意外だったのか狐は珍しく素っ頓狂な声を上げる。
「まあ行くなと言われたら従うけど、そりゃまたどうして?」
「意味不明だから」
狐の質問に葵は簡素な言葉で答える。一言でいうならばそれしかない。
「うーん?」
狐は葵の言いたいことがはかりかねるのか困惑した様子で唸っている。葵はうまくまとまらない考えをなんとか整理して言葉を続けた。
「変なことばっかじゃん、主にあんたのことだけど。こんなわけ分かんないなままじゃ落ち着けない」
葵の話を狐は静かに聞いている。葵は狐に背を向けているので狐のことは見えていないが、正座をして一生懸命聴こうとする姿が目に浮かぶようだ。
「だからさ、ほったらかして居なくならないで。あたしが納得できるまで傍に居て。じゃないと寝られないから」
意味不明なまま居なくなられたら困る。せめてこの混乱をどうにかするまでは責任を取れ、と言いたかったのだが、まとまらないまま捲し立てたので意図しない言葉が出てしまった。余計に狐の顔をみられなくなり、葵は背を向けたまま布団を頭からかぶった。
「・・・分かった。君が平気になるまで、傍に居るよ」
ややあって狐から返答があった。なんだか本当に言いたかったことが見透かされたような口ぶりに、葵は布団の中で身を縮めて丸くなる。
「今日は色々あって疲れたろう? 私はここに居るから、安心してお休み」
ベッドの傍に狐が腰を掛ける小さな振動が伝わる。葵は布団から顔を出し狐の顔をちらっと見やった。
「うん、おやすみ」
そうして目を閉じると、不思議と心が落ち着き、疲れ切っていた葵はすぐに寝息を立てはじめた。
「傍に居ろ、か。気難しい注文だ」
静かに眠る葵の傍で狐は誰にともなく呟いた。
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