第6話 人生と逆転と 1/5
謎の狐に流されるままにあれよあれよと二日が経った。昨晩は固く決断したはずなのに、目が覚めると心が揺らぎ、そんな自分に気が滅入る。
葵の心中を見抜いてかは分からないが狐はメール画面を見せてきた。いつの間にやったのか、すでに診断書は受理されていて、退職手続きが進むことと今日から退職日まで有給になるといった旨が書かれていた。
『退職金もちゃんと払われるように手配しといたから安心するといい。万が一払われなくても、私がぶんどってくるから大丈夫』
狐はそんなことも言っていたが果たして信用して良いものか。いや、今までの所業を鑑みればありえないことでもあの狐はやってのけそうだが・・・。
「・・・まあもう決めちゃったことだしね」
少なくとも決めたのは自分自身だから、後悔しても仕方がない。死ぬような思いをするよりは絶対マシなはずだ。将来の不安はあるが、なにかあったら全部狐のせいにすればいい。
折角時間ができたんだし、今まで出来なかったことをしよう。思い立ってノートパソコンを開き、すぐに閉じた。
「なにやってんだ、あたし」
無意識にマウスカーソルはメールビューアに合わさっていた。嫌な癖だ。仕事に近しいものに触れるのはやめておこう。スマホでショート動画でも・・・見ようとしたら着信履歴を先に開きそうだ。そういえば碌に点けたこともないがテレビがある。何かやってないかとチャンネルを一通り回して電源を切った。
「う~ん」
どうにも興味がわかない。ニュースもバラエティもドキュメンタリーもまるで頭に入ってこなかった。どうやらこれもダメらしい。
「・・・暇だな」
思えば就職してから4年半、娯楽らしい娯楽をなにひとつしてこなかった。否、する体力も時間もなかった。自宅はシャワーを浴びて寝る場所でしかなく、必要最低限のものしか置いておらず、いざ時間ができるとすることが見つからない。
「あーもう、なんでも頼れって言ったくせに、なんで今居ないんだよ」
葵は虚空に向かって悪態をつく。狐は今朝から野暮用だと言って出かけている。昼前には帰るとのことだったが、時計は十時を回ったばかり。昼にはやや遠い。
「おい、狐! 独りにしたら死んじゃうぞ!」
ベッドに飛び込み、枕に顔を埋めながら小声で喚く。もちろん嘘だ。あれ以来、怖くてベランダの窓にすら近づけない。せっかく見晴らしのいい部屋なのに、なんてもったいないことをしているのだろう。これも狐のせい・・・ではない。自業自得だ。
「はぁ・・・」
葵は深くため息をついた。途方に暮れるのはいつものことだが、こんな形は想像だにしなかった。
仕方ない、寝るか、と布団をかぶって目を閉じる。すると瞼の裏に狐の顔が浮かんできて、葵は自分の顔をひっぱたいた。
「なんでだよ、おかしいだろ!」
さすがに自分の正気を疑った。どうしてアイツの顔を想像してしまったのか。確かにあの夜からヤツは付きっきりでずっとあの顔を目に入れながらの生活だったがそれにしたって、それにしたって・・・?
「・・・変な顔のせいだ」
そう、付きっきりだったのだ。目に焼き付いてもギリギリおかしくない程度には距離が近かった。思い返すと急に恥ずかしくなり、葵は狐の顔のせいにすることにした。
―――――――
「ただいまー、ってうわっと!」
時計の針が正午を過ぎた頃に狐は帰宅した。玄関の戸を開けるなりすっ飛んできた枕が狐の顔にクリーンヒットし、ぼすんと重い音を立てる。
「遅い」
狐は一瞬床に落ちた枕に視線をやったあと、それが飛んできた方を見やると、葵が不機嫌そうな顔で腕を組み座り込んでいた。
「こっちは手が塞がってるのに、急にひどいじゃないか」
「うっさい」
狐は葵に抗議するもその様子は大して不服そうではない。一方の葵は眉間にシワを寄せて狐を睨んでいる。自分自身も何に機嫌を損ねているのかよく分からない。
「不機嫌な猫みたいだな」
狐は両手に抱えた荷物を床に置くと、スタスタと葵の近くに寄ってきて、自分を睨む顔をしみじみと眺めながら言った。
「そんな火に油を注ぐようなことを・・・」
よく平気で言える、と言おうとしたが狐の顔がどんどん迫ってきたので思わず口をつぐんだ。腰を直角に曲げて葵の目を至近距離から覗き込む狐を、少し見上げる形で葵は固まる。
「・・・何やってんの?」
そのまま無言でしばらく経ったあと、耐えられなくなった葵は見上げた姿勢のまま狐に問いかける。
「こうしたら笑えるかなって」
「なにそれ」
狐もまた同じ格好のまま真顔で答える。狐の変な言動に思わずふっ、と小さく笑いがこぼれた。
「あっ、ほら笑った」
「うっさいっての」
葵はくすくすと笑いながら狐の顔を両手で押し返した。するとまるで人形のように直角に曲がっていた狐の腰がぎこちない動きでまっすぐに戻る。それから狐は被り物のズレを直すかのように自分の頭を掴んで左右に揺すった。
「もう、なんなんだよ」
そのおかしな動作に完全に毒気が抜かれてしまった葵は笑いが止まらなくなる。
「怒ってるより笑ってる方が楽しいだろう?」
ケラケラと笑う葵を見ながら狐はおどけた口調で言う。
「そりゃそうだ。あーあ、また負けた」
そもそも原因がなんだったのかは自分でも判然としないが、確かに怒っていたはずなのにいつの間にか笑わされている。また狐の掌で転がされたと葵は思った。
「なにか勝負してたっけ?」
「こっちの話」
相変わらず余裕綽々の狐の態度にやはり自分の負けだと葵は改めて思う。一度くらいコイツにぎゃふんと言わせてやりたいものなのだが。
「そうかい。まあともかく、機嫌が直ったならお昼にしよう」
そう言うと狐は玄関先に置いた荷物を取りに行く。
「君の好みが分からなかったから、ちょっと買いすぎちゃったかもしれないけどね」
パン屋の大きな袋からたくさんのサンドイッチを座卓に並べつつ狐は言った。
「こんないっぱい、食べきれないよ」
「やっぱりそうかな?」
気づけば天板の欠けた小さな座卓は美味しそうなパンで埋め尽くされている。
「勿体ないからあんた全部残さず食べてよね」
「ええ~? マジかあ」
葵はその中から自分の好みの物を手元に手繰り寄せつつ、突き放すように言い放つ。狐の芝居がかったオーバーリアクションももはや見慣れたものだ。
「あんたが買ってきたんでしょ」
「まあね。そう言うなら遠慮なくいただくよ。今日は秘密兵器もあるし」
わざとらしく頭を抱えていた狐は急にスンッと落ち着くと、また玄関先になにかを取りに行った。
「秘密兵器?」
葵は自分のサンドイッチの封を切りながら訝しむように狐に訊く。すると戻ってきた狐の手にはヤカンと小さな四角い缶が握られていた。
「・・・それ買ってきたの?」
そういえば昨晩コーヒーを淹れるときにヤカンの方が好きだとか言っていた気がする。確かにこの家にはお湯を沸かす道具は電気ケトルしかないが。
「そうとも。よく聞いてくれたね。別にケトルが嫌いなわけじゃないんだけど、コーヒーと紅茶を淹れるにはやっぱりヤカンで沸かしたお湯の方が好みでさ。美味しい紅茶と一緒ならどんな大量のサンドイッチでも行けてしまうとも」
またぞろやけに大袈裟な言葉と動きだ。なるほど今の口ぶりからすると反対の手に握られている缶は紅茶なのだろう。葵は呆れた様子で狐を見やる。
「それで、ティーポットはどこかな? 急須でも良いんだけど」
まあ、言い出すかもしれないとは思った。なんとなく察していたがこの狐は羽振りが良いし多分金持ちだ。そして庶民感覚が恐らく足りない。
「ないよ、あるわけないじゃん」
「えっ」
ケトルしかないのにポットが要るわけないだろう。お茶が飲みたかったらティーバッグで淹れるものだ。葵は狐が手にした缶をチラッと見やった。ああいうのはデパートで売っているのを見たぐらいだが、さぞ良い茶葉なのだろうなと他人事のように思う。淹れる道具はないけどな。
「我ながら不覚、痛恨のミス・・・!」
自分の頭を押さえてよろける狐の様子は、いつもの大袈裟な動きにも見えるし、本当にショックを受けているようにも見える。
「あっ、これ美味しい」
そんな狐をよそに、手にしたサンドイッチを一口かじって葵は呟いた。
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