第4話 夢よりも信じがたい 3/4

「うーん・・・」

中に入って受付をすませると問診票を渡された。初診だから必要とのことだ。質問は簡単な内容なのだが、どうにも答えに迷ってしまう。


「そんなに唸ってどうした?」


問診票を前に悩む葵の様子を見て狐が問いかけてくる。取り繕っても仕方がないから葵は素直に答えることにした。


「どう答えたら良いか分からなくて」

「まあ、そうだろうね。そういう様子だ」


狐は葵が手にした問診票を覗き込み、ざっと目を通して続ける。


「この質問は難しい?」

「難しいわけじゃない、と思う」


頭では分かっていることだが、心は深刻に捉えてしまっている。何に迷っているのかは明白だった。


「間違ったこと書いたら、どうしようって」

「ああ、なるほどね」


狐は葵の言葉を聞いて深く頷いた。いつものわざとらしい大袈裟なリアクションとは違い、自然に出た仕草のように見える。


「そりゃ悩むよな。病院に来たは良いけど、自分の症状はいまいちよく分からない。それで事前の問診って言われても、自分が思ってることが正しい自信なんてない。もしかして本当は健康で、症状は全部勘違いで、ここに来たこと自体が間違ってるんじゃないかって思ってしまう」

「・・・」


狐に内心を言い当てられて葵は俯く。昨日まで普通に仕事をしていたのだから、どうしても実感がわかない。あたしはここに居ていいんだろうか、そんな考えばかりが脳裏をよぎる。


「そうだなあ、じゃあ周りを少し見渡してご覧よ」

「周り・・・?」


てっきり正論で諭されるものだと思っていたので狐の提案に葵は少し驚く。言われるがまま問診票とにらめっこしていた顔を上げて待合室を見回してみた。外観から想像したよりは立派な待合室だが、座席は患者と思われる人たちで埋まっている。


「混んでるね」


正直こんなに混んでいるものだとは思わなかった。駐車場も埋まっていたし、自分のように遠くから来ている人も中には居るだろう。立地が良いわけでもないのにこの混みようはなにか理由があるのだろうか。


「そう、混んでるんだよ。それでどう思う?」

「どうって・・・」


あまりに大雑把な質問に葵は戸惑い、もう一度周囲を見渡す。よくみると老若男女様々な人が居るようだが、はたから見ると皆落ち着いていて、何か心に病を抱えているようには見えない。


「普通、かな」


病院の外の看板には確かに『心療内科』『精神科』の文字が並んでいたはずだ。だから葵は少し身構えていた。しかし実際の様子はどこの病院とも変わらない、普通な様子で患者は自分が呼ばれるのを待っているようだった。


「ごめん、普通っていうのは良くなかったかも」


言葉に出してすぐに葵は失礼だったかと思い直して言葉を濁す。見掛けはなんともなさそうでも、心の裡を他人が勝手に推し量っていいものか。自分には想像もつかない何かがあるんじゃないだろうか。


「いや、普通で良いんだよ」


考え込む葵をよそに狐はあっけらかんと答える。


「今は見掛けの話をしてるんだ。だから普通に見えるなら普通でいい。君も、ね」

「えっ? あぁ・・・」


狐が添えた一言に葵は一瞬戸惑ったがすぐに意味を理解した。見掛けは普通でも内面は分からない、それは自分もそうだった。


「そもそも正解が分からないからここに来たんだ。思ったように書けばいいさ。ああでも、嘘だけはダメだぜ?」

「うん、分かった」


葵は一度深呼吸をしてペンを持ち直す。嘘じゃなければいいなら、そう思うとさっきまで悩んでいたのが嘘のようにすらすらと回答は進む。


「・・・できた。出してくるね」


葵は書き上がった問診票を受付に提出し、また席に戻る。静まり返った待合室では時計の音が妙に耳に響く。

 ただ待つだけなのも落ち着かず、葵はなんとなく隣に座る狐の様子を眺めた。ピンと伸びた背筋にシワひとつないスーツ姿は出来る営業マンのようだが、首から上についているのは間違いなく狐の頭で、そのチグハグ加減が奇妙さを際立てる。

 改めて考えても分からないヤツだ。来歴も不明、行動原理も不明、何をどうやって葵の仕事を休みにしたのかも不明。そもそも狐頭なのが意味不明。一体どういう存在なのだろうか。


「おや、なんだい? 私の顔が気になるかな」


視線に気づいた狐が口を開き、葵はプイと顔を逸らす。


「別に」


気にならないわけがないだろう、と内心では思いながら裏腹な言葉を葵は返した。普通の人間ならこの狐に不気味さだとか恐怖だとかを感じるところだろうが、葵はそれよりも狐の秘密が気になって仕方なかった。

 今朝から、いや昨晩からずっと良いようにされているのも気にかかる。狐の言い分の方が正しいのだから転がされるのも仕方がないと思いはするが、丸め込まれ続けるのは気分がよくない。

 狐の目線が戻ったことを確認すると葵はその顔をジト目で睨みつけた。しかしいくら睨み続けても気づいていないのか気づいてて敢えてそうしているのか、狐は涼しい顔をして視線を動かさない。

 つまらなくなって葵は視線を外した。この狐には何もかも見透かされているような気分だ。間違いなく、何か秘密がある。こいつは自分の知らない何かを知っている。それが気になる。


「・・・そういえば」

「ん、なんだい?」


あれ、とふとさっきのやりとりの違和感に気づいて葵は狐に問いかけた。


「なんかその、心の病気? とかそういう人とかのこと知ってる風だけど、詳しいの?」

「・・・まあ、ちょっとね」


明らかに言葉を濁したのが分かった。


「ちょっとって、どういう・・・」

日向葵ひゅうがあおいさん、診察室へどうぞ」

「あっ、はい・・・」


狐を問い詰めようとしたところで呼び出しが掛かった。


「ほら、呼ばれたから話はあとでね」


なんて間が悪いのだろう、と葵は歯がゆい思いをする。今を逃すとずっと聞きそびれるような気がする。だが、喫緊の問題に対処しなければならないのも事実だ。

 モヤモヤする頭を落ち着かせ、また息を大きく吸い込んでゆっくり吐き出す。未だ覚悟ができたわけではない。診察室の前に立つとまるで判決を待つ被告人のようだと葵は感じた。この扉をくぐるのが怖い。


「・・・失礼します」


それでも勇気を振り絞って4回ノックをし、診察室のドアを恐る恐る開けた。


――――――――


「お大事に」


診察を終え、診療費を払うと葵は受付に一礼をして狐とともに病院を出た。何に怖がっていたのか分からないほど診察は穏やかで、医師は葵の言葉を丁寧に聴いてくれた。終わってみれば風邪で内科に行くよりも負担の少ないやりとりだったように思う。


「・・・」


葵は黙ったまま渡された4つの書類を眺める。

 ひとつ、領収書。これから何枚これが積み重なるのだろうか。まだ遠い3月の憂鬱な作業を思うと頭が痛い。失くさないように保管場所を考えなければ。

 ひとつ、処方箋。病名がはっきりしたわけではないが、薬を出されたということは病気ではあるということだ。分かってはいたものの、実際に診断されてようやく実感がわいてくる。

 医師曰く、薬は何が有効かわからないから服薬治療は様子を見ながら、とのこと。3日後にまた来るように言われてしまった。いよいよもってちゃんと向き合わなければならないらしい。


「・・・はぁ」


そして最後にふたつ、両手にもった2種類の封筒をまじまじと見ながら葵は溜め息をもらした。


「大きな溜め息だね。気落ちした?」


葵の様子を見て軽い口調で狐が尋ねる。すかさず葵は狐をギロリと睨みつけた。


「自分で言うつもりだったのに」

「ごめんごめん、そう睨まないでくれ。悪かったとは分かってるさ。先生にも勝手に言うのは良くないって叱られたし」


葵は慎重に言葉を選びながら診察を受けていた。大袈裟にも矮小にもならないように、なるべく冷静に自分の身に起きたことを伝えようとした。言葉に詰まると狐は時折助け舟を出してくれていたが、葵が意図的に避けていると思ったのか急に昨晩の話を医師にしてしまったのだった。


「はぁ・・・。嘘だよ、多分あたしには言えなかった。あんたが話してくれて助かったと思う」

「そう。どういたしまして」


言わなきゃいけないと思っていても言えないこともあるものだ。特に昨晩のことは根掘り葉掘り訊かれたらどうしようと葵は思っていた。

 自殺未遂は伝えなきゃいけない、だが何が起きたのかは説明が難しい。変な狐が出てきて止められたなんておかしなことを他人にはさすがに言いづらかった。この狐は葵の心中を知ってか知らずか、『自殺しようとしたので私が止めました』と簡潔にしれっと言ってのけたのだが。

 急にテンポを崩されて葵は混乱し、そのあとは何を喋ったかよく分からなくなってしまった。ただひとつだけ医師の言葉を覚えている。


「仕事を辞めたいですか?」


口調は強くなかったと思う。ただどの言葉よりも葵は強い衝撃を受けた。考えてもみなかったことでそのとき初めて退職するという選択肢の存在に気づいた。

 改めて問われると言葉に詰まる。仕事に対して良い感情はない。働いていて良かったと思ったこともない。冷静に考えても続ける理由はないのだろう。だが、辞めて良いのか迷ってしまった。


「わかりません」


すぐに答えは出せなくて続けたいとも辞めたいとも言えず、中途半端な返事をしたと葵は思う。相手を困らせるのではないかとすぐに後悔したが、医師はまったく気を悪くする素振りもなかった。


「今すぐ決めなくても大丈夫ですよ。ただお休みは取りましょう。それからゆっくり考えてください」


そうして診察後に受付で渡されたのが2つの書状だった。2種類もある意味は制度に詳しくなくてもなんとなく分かる。どちらを会社に持っていくのか自分で決めろということだろう。


「やっぱり事情が事情だけに強かったよね。君、知ってる? 初診で診断書をもらえることは普通ないんだぜ?」


両手の封筒に葵が視線を戻すと狐が口を開く。その情報は初耳だ。昨晩の話をしたから出てきた、ということか。


「実に悩ましいことだとは思うが、とりあえずまず帰ろうか。寒くなってきたしね」


診察は思ったよりも時間がかかっていたのか、辺りはすっかり夕焼け模様だ。十月初頭のまだ夏の名残を感じる気候ではあるが、日が落ちてくると少しだけ肌寒い。帰り着く頃には日も暮れていそうだ。


「うん、そうだね」


葵は狐の言葉に小さく頷いた。

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