第3話 夢よりも信じがたい 2/4
昨夜もぐっすり寝たわりには不思議なもので、ベッドに潜り込んで目を閉じるとあっという間に睡魔に襲われ、次に気づいたときには4時間が経過していた。週末だってこんなには寝ないのだが今日は一体どうしたことだろうか。
あくびをしながら上体を起こすと視界の片隅に人影が見える。嫌々ながら首を回すとやはり狐顔の男が部屋の真ん中に鎮座していた。
「随分と大きなあくびだね。不審者がすぐそこに居るのに隙だらけすぎやしないかい?」
「分かっちゃいたけどねー・・・」
葵は当たり前のように喋る狐男を見て渋い顔をする。何度寝て起きたところでこの変な狐は居なくならない。それこそ同じ夢を繰り返し見てるんだとしたら本当に気が触れている。さすがにもう現実を疑いはしないが、おかしなものはおかしいので願わくば正常な世界に戻ってほしかった。
「わあ、嫌そうな顔。思ったよりも表情豊かだね、結構なことだ」
何が結構なのか知らないが、こいつの顔を見ていると調子が狂う。目を閉じればまだ眠れそうだし、葵は狐に背を向けて三度ベッドに倒れ込んだ。
「おっと、まだ眠い? まあ無理もないけど、そろそろ時間だから三度寝は帰ってからにしてくれない?」
「時間って、なんの?」
この不審者は忌々しいことに今度は寝ることを許してくれないらしい。葵は辟易とした様子で狐に背を向けたまま返事をした。
「病院だよ。予約の時間には余裕をもって準備しないとね」
「そのくらい勝手に行ってくればいいでしょ」
「何を他人事だと思ってるんだ。君の診察だよ、当たり前だろ?」
「はあ???」
葵は狐の言葉の意味が分からず、思わず振り返って狐の顔を見た。何も具合の悪いところなどない、昨晩小さな痣を作ったがこの程度なら放っておいてもいい。病院に掛からなきゃならない理由などないはずだ。心底分からないという様子の葵を見て狐は片目を覆って首を振る。
「やれやれ、こいつは重症だな。やっぱり医者の予約をしておいて正解だった」
「いやなんでよ。あたしは病院に用なんかないよ」
狐の言葉に葵は少しムッとして反論する。どこが重症だというのか。
「君、昨晩のことは忘れたとでも言うつもりかい?」
「あっ・・・」
急に狐の声色が冷たくなった。そこで葵ははっとした。ようやく自分が無意識に目を逸らしていたことに気付き背筋に悪寒が走る。
自殺未遂をした、その行為の重さを初めて実感し、目線が窓の外を向く。
「―――――!!!」
すると昨夜の光景がフラッシュバックし葵は窓から思い切り目を背けた。脈は早くなり、全身から冷や汗が吹き出す。
「はあっ・・・はあっ・・・」
心臓はうるさいほど強く鳴り、うまく呼吸ができない。肩で息をしながらなんとか鼓動を抑えようと両手で強く自分の胸を掴む。
「気づいてくれて何よりだ」
狐は葵の傍にそっと腰をおろすと蹲って息を切らす葵の背を優しく撫でた。
「大丈夫、誰も君を責めてなんかいない。君はなにも悪くない。ただ、治療は必要なんだ」
狐の声色がもとに戻る。諭すでもなく、優しくでもなく、ただ事実を述べるだけの感情の読めないいつもの口調だが、その言葉を聞いてるうちに少しずつ葵の鼓動は収まっていった。
「さて、改めて訊くよ。医師の診察を受けてもらえるかな?」
まだ息は整わず、声が出ない。葵は黙って狐の顔を見るとゆっくり深く頷く。
「よし、それじゃあ出かける準備をしようか」
狐は自身の膝を軽く叩くとすっと立ち上がる。見上げる姿は長身な背丈以上に大きく見える。
「ああ、でも―」
そして何かを思い出したようにくるりと反転して言った。
「落ち着くまで少し休もうか。行き先が病院とは言え、顔色が悪いまま外に出るのは嫌だろう?」
葵は目を伏せて、もう一度頷いた。
病院は思っていたよりだいぶ遠くて、道中は狐が呼んだタクシーに揺られながら、葵はずっと黙って外を眺めていた。狐は運転手となにかを喋っているが、内容が耳に入ってこない。自分でも不思議なほどまったく上の空で、ただ流されるように目的地へと運ばれていく。狐がタクシーを止めると、呆けたまま車を降りて、運転手に一礼をした。
「さて、ここからちょっと歩くよ。公道ではあまりぼーっとしてると危ないぜ?」
葵の様子を見て狐が声をかけると、少しだけ現実に帰ってきたような気がする。
「うん、そうだね。気をつける」
気を抜くとまた呆けてしまいそうなので、意識を少し引き締めて辺りを見る。そこそこ人通りは多いようだが繁華街というほどではない。遠くに連れ出されたから駅前の大病院みたいなところを想像していたので少し意外だ。
「ねえ、どうして病院の前につけてもらわなかったの?」
葵は疑問を投げかける。
「そうだねえ、理由はふたつあるんだが」
狐は葵の歩幅に合わせて斜め後ろを歩きながら答える。
「ひとつめは私のおせっかいだと思ってくれ。病院まで行ってもらっちゃうと、なんか嫌かもなって」
ああ、そういうことかと葵は納得した。確かに道中の自分の様子とこれから行くところを照らし合わせたら、察せられてしまいそうでちょっと嫌だ。
「まあ他人のことをそれほど勘ぐる人間は多くないし杞憂だとは思うんだけどね。本当は気にしすぎるのもよくない」
れは多分そうなんだろう。葵も客先で名刺をもらった相手を全員覚えてるわけじゃない。その後に関わりがなかったら忘れるし、考えてる余裕もない。同じことで、タクシー運転手もお得意様でもない客のことをいちいち探ったり覚えたりしない。とは言えこのときの葵には狐のおせっかいが嬉しかった。
「ありがとね」
「うん、どういたしまして」
狐の方を向くこともなくポツリと葵は呟き、狐はそれに返事をする。自分が今どんな顔をしているか葵は少し気になった。
「それで、ふたつめの理由は?」
今のやり取りが少し恥ずかしくなった葵は気を紛らわすように狐に問いかける。
「ああ、それならもう着くから分かるんじゃないかな。ほら、そこだ」
狐が指差す先には想像していたよりだいぶ小さな病院があった。
「この広さのところにタクシーで乗り付けるのはちょっと抵抗があってね」
「ここなんだ・・・」
小さな駐車場はすでに車で埋まっていて、確かにここにタクシーを直付けするのはあまりマナーがよろしくないかもしれないと思った。
「意外そうだね。もっと大きな病院だと思ってただろ」
葵の反応にさもありなん、という風に狐は言う。
「だって、結構遠かったから」
このくらいの規模ならそんなに遠出することもないんじゃないかと葵は内心思った。或いはそういった病院はやっぱり数が少ないのだろうか。
「うん、そう思うのも無理はないよね。実は近くの病院も検討してはいたんだよ。その方が通院しやすいし。ただまあ、やっぱり信頼できるところに掛かったほうが良いと考えてね」
「信頼できるところ?」
狐の言葉はどこか引っかかる。何故だろうか。
「まあ、詳しい話は中でしよう。初診はすることが多いからね。君にも余裕があった方がいいだろ」
狐は葵の疑問に答えず、中に入るように促す。葵は言われるがままに病院の門戸をくぐった。
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