第37話

翌朝、瑠記は使用人に紛れて庭先に出ると軒下に腰を掛けて、鼻歌を歌いだした。

楽師や歌人のように芸事が出来るわけではない。

でも楽器も歌も好きだった。

子供の頃は、よく姉と歌を歌っては芸妓の真似事の舞をして家に来る父の客人を歓迎したことを思い出す。

瑠記は、王都の民謡歌を口にしていたが何処からか合わせるように胡弓の音が奏でられる。

素人の音ではなかった。

随分上手いな、と辺りを見渡すと、廊下の外れで胡弓を奏でていたのは風虎だった。


「おはよ、懐かしい歌だね」


「風虎こそ、素人ではないだろうに」


ああ、俺、本業楽師で王宮に採用されてんだよ、と笑ってみせる風虎は、色街育ちの色街仕込みの伴奏演者を憩家ではしていたので一通りの楽器は演奏出来る。

遠出になるから余興に、と胡弓と笛だけしか持っては来ていなかったが、十分な腕前だ。


「ねぇ、瑠記、歌って?」


「いや、私は歌人ではないから」


真っ赤になって否定する瑠記に、なんでだよー、綺麗な良い声じゃん、と風虎は口を尖らせた。

冗談じゃない、本職の芸妓の伴奏をしてきた男に綺麗だの、良い声だの、からかうな、と恥ずかしそうに瑠記は俯いた。


早朝の微睡みに、風虎は、聞いたことのない歌を口ずさみながら胡弓と奏で出す。

その何気ない即興の歌が、誰かを思う片恋の歌詞であることに気付くと、瑠記は一呼吸置いて目を閉じた。

自分はずっと結様が好きだった、見た目も中身も男前で面倒見が良くて時々仕事も手伝ってくれて、伝えるつもりなんかなかったし、あの人には婚約者がいて王族で自分とは釣り合わないのは重々承知の上の片恋なのだ、と言い聞かせてきた。

陛下とは違うこの感情のやり場に困り始めていた時、風虎は急に私と清良の配下の隠密として配属された。

結様そっくりで、でもお調子者で明るくて前向きで…私はいつから結様を見ても苦しくなくなったのか切なくて張り裂けそうな胸の痛みも忘れてしまった。

それが風虎のおかげであることに、今、瑠記は気付いた。


一曲歌い終わると、風虎は、深いため息を漏らす。


「瑠記…どうしたら気持ちって伝わるのかな…」


「お前、好きな女でもいるのか?」


神妙な面持ちの風虎に、瑠記が目を開ける。

真っ直ぐ視線を絡めると、ゆっくり真顔で頷く様子にその相手は自分ではないことだけは瑠記にも察しがついた。


「一目惚れしたんだー、でもとっくに兢兄貴の奥さんなんだけどね、唯ちゃんが好き…」


「…女の好みまで一緒とは双子は難儀だな」


渉にも言われたよー、だって可愛いんだもん、仕方ないじゃん、と拗ねる風虎は、兢とは違い瑠記にとっては、やはり何処か子供っぽい年下の少年だ。

正直、唯殿は姫様で育ちも生まれも由緒正しい南栄の王族で、見た目も相当な美人だと思う。

性格は、まぁ私が言うのもどうかと思うが、男勝りで気も強いが弓と剣の腕もなかなかだ。

流石は南栄の親衛隊にいただけあって、いざという時には身の守りにも護衛にすら出来る出来た女子だな、と苦笑する。

軍部育ちの結様が選ぶだけの価値ある人だ。

私や風虎の入り込む隙などあるはずもない。

唯一、邪魔出来る人間がいるとすれば、不義密通が罪にならない国王陛下くらいかな、と苦笑するが、あの方は唯殿が苦手そうだし、と吹き出した。

昨夜の春蘭の醜態を思い出すと、うちの陛下は女子より可愛らしい、とクスクス笑い出す。


それを、風虎は身を乗り出して見つめると、瑠記ってよく見たら笑うと可愛いね、と不思議そうに首を傾げた。


「だからー、私は男じゃないと言ってるだろう?まぁ、私は出世のために女子であることも捨てたけど…」


「カッコいいんだよね、普段の任務中の瑠記って!俺の憧れなんだ」


にか、と笑うと、また歌って!と風虎は言うだけ言って走り去っていく。

こっちの置き台詞の処理について行かない感情をどうにかして欲しい。

カッコいいだの可愛いだの憧れだの…。

処理出来ない言葉の羅列に、悔しそうに瑠記は歯噛みした。

この感情のやり場を彼女はまだ知らない。


こうして漸く治ったモヤモヤする切なさと胸の痛みに耐えねばならない混濁した感情に瑠記は再び振り回される羽目になるのである。

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