あなたの愛した女たち
優翔は思わず笑いそうになった。莉子が死んだ時点で陽葵は十歳のはずだ。そんな小さな女の子に高校二年生の莉子が殺せるだろうか。だが、目の前に立っている陽葵の顔は思い詰めていると言えるほどに真剣だ。
「なぜ今になって真相を話す」
「知らないままで死にたくないでしょ? お母さんが亡くなった時に優しくしてくれた伯母、ほのかな恋心を抱いた莉子、そして妻の京香と子供たち。彼女らはなぜ死ななければならなかったのか」
「すべて君がやった事だと言うのか」
「そうよ。直接、手は下してないけどね」
「共犯者がいるのか」
「共犯者じゃない。下僕。紅瞳流不死には魅了という特殊能力がある。下僕は同時に一人しか持つ事ができないけど、命じればなんでもする。たとえ自分の妻や娘であろうとも、あっけなく殺してしまう。甥の妻子なんて、ゲーム片手に鼻歌交じりで轢き殺す」
音を立てて血の気が引いていくのを優翔は感じた。大介のあとをついて無邪気に走りまわっていた陽葵の小さな背中が、とても遠くに見えた気がした。
「……なぜ、殺した」
「あなたが愛したから」
陽葵は壮絶な笑顔を浮かべた。怨念がゆらゆらと立ち上っているのを感じる。優翔は言うべき言葉を思いつかなかった。
「優翔お兄ちゃん、あなたが愛したものは、私がすべて壊す。女だけじゃない。子供、友人、町、そして音楽。ご自慢の顔もね。すべてよ」
「意味不明だな。神の力を手にした事で、それを行使して僕の人生を弄びたくなったのか」
「そんなくだらない事はしない」陽葵は窓の方を見た。空は夜へと向かって光を失いつつある。「私はあなたの大切な人を何人も殺した。でも、それ以外の選択はすべて自分で行ったでしょ? 大きなヒントもあげた。勝高お兄ちゃんと大介お兄ちゃんも同じ。私はただ、選択肢を示して眺めていただけ。でも、その遊びはもうおしまい。なぜなら、私にはもう、女神の力はないから」
「さっきアトリプスの姿で出現したじゃないか」
「そして突然、陽葵になった。
「持って回った言い方はやめてくれ」
「要するに、紅瞳流不死の力を失ったの。下僕に命じて御神体の祠を洞窟ごと爆破した」
「せっかく力を得たのにか。なぜ捨てた?」
「もう必要ないからよ。お兄ちゃんたちは自分自身による選択に振り回されて地獄に落ちた。それでいい。それでいいの、あははははは!」
陽葵はリミッターが壊れたかのごとく激しく高らかに笑った。優翔は無言のまま、しばしそれを見つめた。
「……陽葵ちゃん。トラウムシュタットでのあの夜は、君にとって、何だったんだ」
一瞬で笑いを収めた陽葵は、無表情になった。
「なんの光も当たらない私の人生。その中で唯一、温もりを感じられた日々だった。トラウムシュタット。『夢』という名の町。だけど」陽葵は唇を結んでしばし床を見つめた。「高嶺の花ってね」
「なんの話だ」
「自分がすべての選択権を握っていると無意識に思ってる。選ばれなかった者の気持ちなんか、一生、分からない。それどころか、すぐ傍に咲いている花を花として見ない事が罪だと気づかない」
「陽葵ちゃん?」
「次々に他の花が
陽葵は悲しいとも寂しいともつかない目で優翔を見つめた。
「何を……言ってるんだ」
「指揮者コンクールで穂関優翔が栄誉を勝ち取った夜。心と体の奥深くまであなたを受け入れながらも、私は確信が持てなかった。今、愛されているのは紅瞳流不死に憑依された絵莉朱なのか。それとも火倉陽葵なのか。ようやく願いが叶ったはずなのに、私の心は満たされなかった。止まらない涙を押さえながら、あなたの傍を離れて朝日が昇るまで町を彷徨った」
陽葵は窓を開いてバルコニーに出た。柵に手をかけて外を見つめる。山の
「結局、この町は転生を遂げる事ができなかった。誰のせい?」風が陽葵の黒髪を弄んでいる。「誰でもないし誰でもある。それぞれの選択が複雑に絡み合った結果が未来になる」
――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――
「僕を憎んでいるなら、それはそれでしょうがない。でも。なぜ
「それは結果に過ぎない。お兄ちゃんたちが自分で選択した未来よ。優翔お兄ちゃんの愛したもの以外には、私は直接、手出ししていない」
「手は出さなくても、干渉したんだろ?」
小さく息を吐いて、陽葵は昔を思い出すように語り始めた。
「一緒に遊んでいるようでも、私はいつも一人だった。必死に追いかけたけど、お兄ちゃんたちに届く事はなかった」何かを掴もうとするかのように、陽葵は左手を柵の外に伸ばした。「だからお兄ちゃんたちの幸せを願うと同時に破滅を望んだ」
アトリプスが優翔に投げかけてきた言葉は、必ずしも破滅へ導こうとするものばかりではなかったように思えた。兄たちを慕う気持ちとそれが満たされないが故の憎しみ。陽葵には相反する想いがあって、そこから生み出される矛盾を抱えたままアトリプスを演じていた、という事なのかもしれない。だが。
「陽葵ちゃんが寂しかったというのは分かる。僕らはもっと気をつけるべきだったのかもしれない。でも、なぜそれが僕らの破滅を望むほどの重く暗い気持ちへと繋がるんだ」
「さあ、どうしてかしらね。私自身にも理解不能。だけど、衝動だけは間違いなく存在して私を突き動かした」
「理屈が通らないな」
「この世のすべてに理屈が通るとでも言うつもりなの?」
陽葵は冷たい笑みを浮かべながら柵から体を乗りだした。
「何してるんだ? ここは七階だ。陽葵ちゃんはもうアトリプスじゃない。宙に浮く事はできないぞ」
「浮いている、とは言い得て妙だ。アトリプスと初めて会った時、あなたはそう言った。宙に浮いていた私の心は、優翔お兄ちゃんたちの破滅によってようやく着地点を見つけた。だから、もういいの」
陽葵の体が柵の外に向かって傾いていく。
「すべての罪を持って行くつもりか? やめろ、陽葵ちゃんが死ぬ事に意味はない。何をしようと、この世を去ったものはもう戻らないんだ」
優翔の悲痛な叫びに反応したように、陽葵はゆっくりと振り向いた。
「言ったでしょ。あなたが愛したものは、すべて壊すと」
「まさか……自分まで壊すと言うのか」
「あの夜の絵莉朱から、紅瞳流不死と火倉陽葵を明確に分離できないのなら、両方殺すまでの事。御神体は破壊した。だから、残るは私のみ」
「そんな必要がどこにある」
「私だけに向けられていない愛を生かしておく必要がどこにあるというの」
狂気、と言ってしまうにはあまりにも悲しい色を瞳に浮かべて、陽葵は微笑んだ。
「目を覚ませ陽葵ちゃん。君にはまだ、選べる未来がある」
「未来は同時にいくつも選ぶ事はできない。私は私の意思で私のたった一つの未来を選んだ」
「まだ間に合う。選び直せ」
「他の未来を選ばないという選択こそが私の選択。私の未来」
陽葵は柵の外へと視線を向けた。彼女の目に楽指市はどう映っているのだろう。エリーゼとシュタクによって産み出され、栄え、滅び、そして転生し損なった町。
「優翔お兄ちゃん」陽葵は独り言のように呟いた。「あなたには、もう一人子供がいる」
「……何だと。待て、詳しく聞かせてくれ」
優翔は動かないはずの体に力を込めた。転がり落ちるようにベッドから降り、ふらつく足でバルコニーに出た。その腕を陽葵がしっかりと掴んだ。
「歩けるじゃない。私が落ちそうになってもベッドから出なかったのに。結局、あなたが一番愛したのは、あなた自身」
人知れぬ森の奥にひっそりと佇む湖のように静かな陽葵の黒い瞳が、優翔を真っ直ぐに見つめた。
「何を……」
決意を込めた陽葵の力に、衰弱しきっている優翔は抗う事ができない。引かれるままに陽葵と体を重ねて柵に寄りかかった。
「さようなら、選ばれなかった未来たち」
――
陽葵に見つめられながら、優翔は自由にならない辛い体が重力の鎖から開放されたのを感じた。
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