お母さま、諦めなくても夢は叶わない
二つめの煎餅をパリ、っと囓ってから、藤乃は唐突に話し始めた。
「君は私に会いたがってくれてると思ったんだけどな。分からないなんて、お姉さん悲しい」
藤乃の顔をじっと見つめた大介は眉を寄せた。
「陽葵のコスプレ……なわけないな」
「ヒント。会うのは二回目です」
大介は息をついて首を振った。
「なるほど、そういう事か。優翔から話は聞いていたが、見事な変装だな」
「ふふふ、よくぞ見破った。成長したな、小熊ちゃん」素早くシュシュを外された髪はウェーブの流れる水色になり、瞳は燃えるように紅くなった。メガネは何処へか消えていた。「男子、三日会わざれば刮目して見よ、とはこの事か。七年経ってるけどね」
「こんなバカな事する奴が、お前の他に思い浮かばなかっただけだ」
「お前呼ばわりですか。私、女神なんですけど。別に、私は君に会いたかったわけじゃないんだからね」
若干のツンデレ風味を匂わせながら、アトリプスは拗ねたように頬を膨らませた。
不覚にも、アトリプスのそんな姿をちょっと可愛いと思ってしまった大介は、テレビの方に視線を向けてぶっきらぼうに口を開いた。
「顔は戻ったけど、服は着替えないのか? 初めて会った時の、謎の光がないと放送できるかどうかギリギリなやつに」
「着替える事は可能だけど、その時、一瞬だけ私のすべてが見えてしまうの」アトリプスは俯いて上目遣いになった。「それでも着替えて欲しい? 君が望むなら私は……凄く恥ずかしいけど、頑張る」
デレに移行するのが早いな、と思いながら、大介はハエを追い払うように手を振った。
「大介」
部屋の外から、普段より一オクターブ高い母の声が聞こえた。
「何」
「陽葵を見なかった? もうそろそろ小学校から帰っててもおかしくない時間なんだけど」
ドアが細く開かれた。大きく見開かれた目が獲物を狙うように部屋の中を覗いている。
「ここにはいらっしゃいませんよ、お母さま」
アトリプスは涼しげな声で優しく語りかけた。さっきまでの清純な女子中学生に戻っている。もちろん、髪も瞳も元通りだ。背筋を伸ばして上品に座っている。唇にお煎餅の欠片がついているところが惜しいな、と大介は思った。
お母さま……。
母は、うっとりとした顔で藤乃を見つめた。
「大介を、よろしくお願いします」
涙ぐんだ声で言う母に、藤乃はそつなく返事をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。お母さま」
階段を下りていく軽やかな足音が聞えた。
「いいお母さんじゃない」
藤乃は一瞬でアトリプスの姿になっていた。投げ出すようにだらしなく足を組み、暑いわね、と呟きながらスカートの裾をバタバタさせている。
「家族に何かしたら、殺す」
大介の声は低く抑えられていたが、本気である事が伝わるだけの迫力があった。
「物騒ね。神殺しの剣を持っているわけでもないのに」
「作る」
「どうやって?」
「段ボール。お前を殺すぐらいなら、それで十分だ」
「コスプレイヤーか、君は」アトリプスはベッドの上で横になり、カメラ目線できわどいポーズを取って見せた。「嫌われたものね。私はずっと見守っているというのに」
「ずっと? という事は、この部屋もか」
大介はうろたえたように室内に目を泳がせた。オトコノコの部屋には様々なヒミツがある。
「ウソよ。ベッドの下のアレを見ながらアレしてるところは見てないから心配しないで」
余計に不安になった大介にウィンクをしたアトリプスは、煎餅をもう一枚噛み砕いて氷の溶けかけた乳酸菌飲料を飲み干した。ぷはーっ、と息を吐いてテレビの方を向く。試合は七回の裏ツーアウトランナー二塁だ。
「ねえ、ユニフォームを着てスタンドで応援している人たち、レギュラーになれなかったのに、なんで野球部をやめないんだろ」
大介はふと、自分の事を振り返った。卓球部でレギュラーになれる見込みは既にない。おそらくこの先ずっと雑用とサポートに明け暮れる事になるだろう。最後にラケットに触ったのがいつだったかすら思い出せない。
「なんでって。野球が好きだからに決まってるじゃないか」
少しムキになりながら大介は答えた。
「でも、やりたい事とできる事が一致するとは限らないでしょ? 野球がだめでもサッカーでなら活躍するかもしれない。将棋で鋭い閃きを見せる可能性だってある。人々を感動させられる絵を描けないとも限らない」
「何が言いたいんだ」
「他人の応援をするヒマがあったら、自分にどんな才能が眠っているのかを探した方がいいんじゃないかな、って思ったの」
「アトリプス。それって、レギュラーを支えて頑張っている人たちに失礼じゃないか?」
「誤解しないで。私は補欠の人たちを揶揄してるんじゃなくて、心配なの」
「心配?」
「自分に向いていない事をやり続けた先に、何があるの?」
「たとえ苦手でも、好きな事、やりたい事をやればいいじゃないか」
「適性のない事に敢えて立ち向かい続ける。それも悪くない。でも、必ずしもそうでなくてもいいと思わない?」
「困難を乗り越えようと努力する姿勢こそが、人が人である証明だ」
「本当にそうかな」アトリプスは少しだけ顔を曇らせた。「そういう厳しさばかりが美談として褒め称えられて、自分に備わっている可能性を見失っているのだとしたら、残念に思える」
「適性にそった努力による実り豊かな幸せはたしかにあるだろう。でも、補欠だとしても、好きな事をみんなで頑張ったという充実感はなにものにも代えがたいはずだ」
「そうね。きっと大切な思い出になるでしょう。だけど。どうせなら自分こそが主役になりたいとは思わないの?」
「それができるものなら……」
大介は言葉に詰まった。
本当は自分が主役になりたい。卓球部でレギュラーになって活躍できたらどんなにいいだろう。でもなれない。だったら、他の道を探すという選択肢もあるのではないか。アトリプスが言っているのはおそらくそういう事だ。
「優翔くんは君と同様に、どうやら卓球の才能はない。だけど自分には他の可能性が眠ってるんじゃないかと模索を始めた」
「そういう考え方もあるのは分かるけど」
「諦めなければ夢は叶う。そう言って闇雲にやり続けるのも一つの生き方かもしれない。でも私にはそれこそが、自分の特性を正しく見極めて自分らしく生きる事を諦めているように思える」
「どうしろと言うんだ」
大きく息をついて、大介は首を振った。
「充実した人生を諦めない為に、目の前の事を諦めるという選択もある。たとえば卓球に見切りをつけて他の事に挑戦するとかね。君にはきっと未知の可能性がある。諦める事で道が開け、新たな夢が見えて来るかもしれない」
「……だけど。俺はやっぱり卓球が好きだから続けたい」
「それを悪いとは言わない。でも、自分に秘められた可能性を探してみもしないで投げ出してしまってもいいのかな。それは大きく花開くはずだった君の未来そのものかもしれないのに」
そう言ってふたたびテレビの画面に視線を送ったアトリプスの横顔は、どこかじれったそうに見えた。
にわかに大きな歓声が沸き起こった。得点したチームの応援団が一気に盛り上がっている。ユニフォーム姿の高校生がスタンドで拳を突き上げているのが目に入った。彼は自分がグラウンドに立てない事をどう思っているのだろう。野球をしたくて野球部に入ったはずなのに。
「過ぎた時間はもう戻らない。その事に気づくのは早い方がいい」
――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――
「お兄ちゃん、起きて。ご飯だよ」
いつの間にか眠っていたようだ。大介はベッドから起き上がった。そして、すぐ傍で無邪気に笑う陽葵に微笑みかけて頭を撫でた。
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