火倉大介の選択

1998

夢見る少年、隣に美少女

 小学六年生の秋。たまたまリビングのテレビに映っていた卓球の世界大会を眺めていた大介は、画面から目が離せなくなった。めまぐるしく攻防が切り替わり、うっかりしていると見失うほどにボールは早い。選手は機敏に動き、スマッシュは力強かった。

 もしも俺が卓球をやったなら。

 歓声を浴びながら颯爽とラケットを振る自分の姿をテレビの中の選手と重ね合わせて、大介は腹の底から興奮が湧き上がって来るのを感じた。体が熱くなり、俺も卓球がしたいという思いで目眩すら覚えた。

 大介は同年代の中では飛び抜けて体が大きい。火倉ひぐらという名字も相まって、級友たちからヒグマ、と呼ばれる事もある。実際、体力にもパワーにも自信があった。でも本格的にスポーツをした事はない。お前はきっと鈍重だよ、と友人や家族から言われて育ったせいかもしれない。

 だから、身軽な動きを要する事は自分にはできないのだと諦めていた。

 しかし、卓球の面白さに魅了されてしまった大介は、自分でやらずにはいられなくなった。

 中学に上がったら卓球部に入ろう。

 その決意を、幼なじみの穂関優翔と戎谷勝高に話した。

 他にやりたい事もないし、付き合うよ、と優翔が答えた。

 そうだな、悪くない。いつものようにメガネを弄りながら、勝高も同意した。

 入学式が終わって放課後になると、大介は優翔と勝高を誘って体育館に急いだ。

 目の前に憧れの世界が広がっていた。整然と並べられた卓球台に向かって真剣な顔で打ち合う生徒たち。軽快な打球音が飛び交い、靴底が床と擦れるキュッ、という音が高い天井にいくつも響いていた。

 あの中に自分が入るのだ。そう思うと足が震えた。

 体育館の出入り口に立って卓球部の練習を見つめる自分たちの事を、何人かの先輩が意識しているのが分かった。すぐに声をかけられた。他にも入部希望者が二十人ぐらいいた。

 ラケットの握り方、構え方、そして振り方。一通りの基本を習い、巡回して来る先輩たちに見守られながらネットの前で素振りを続けた。

 新入部員の中から数人が指名されて台の前に進んだ。実際に球を打つがうまくいかない。いや、たいていはラケットに掠りすらしない。それでも、中にはいい感じで打ち返す者もいて、先輩たちは体操服の胸に縫いつけてある名前を見つめていた。見込みのありそうな者を選別していたのだろう。

 初日、大介は指名されなかった。それは数日続いた。ある日、ようやく卓球台の前に立つ事ができたが、わけが分からないうちに交代させられていた。優翔も似たようなものだった。

 勝高は入部直後から連日指名されて、一週間もしないうちに先輩と軽いラリーができるほどになっていた。どんどん差がついていく。早く追いつかなければ。そう思いはするものの、大介が辛うじてラケットに当てても、ボールはブッ飛んで行くだけでまったく相手コートに入らなかった。向かい側にいる先輩の顔には、ペチッ、という痛そうな音と共に良く当たるのに。怒られはしなかったが、恐縮した。

 一ヶ月が過ぎる頃、大介はほとんど卓球台の前に立つ事がなくなっていた。上手くないから呼ばれない。呼ばれないから上手くなれない。悪循環に苛立ちを覚えながらも、休む事なく出席しつづけた。

 やがて勝高はレギュラー候補として、一年生ながら強化選手に抜擢された。必死に頑張っている。でも大介には、勝高が楽しそうに卓球をやっているようには見えなかった。取り憑かれたかのごとくラケットを振っている。まるで、何かを恐れているみたいに。

 勝高はいつもイライラしていた。なぜだろう、と大介は思った。才能に恵まれたのに、何を焦っているのだろう。

 ある日、大介は勝高に訊いてみた。卓球は好きか、と。勝高は困ったような顔をして答えなかった。

 中一の夏休みが八月の中盤にさしかかった頃。

 大介は自分の部屋でベッドに腰掛けて、テレビで高校生の野球大会を見ていた。その隣に女の子が座っている。楽指第七中学校の制服姿だ。

 素直に流れる艶やかな黒髪を緑色のシュシュでまとめている。楕円形の赤いメガネがよく似合っていて、きちんと背筋を伸ばして座る静かな佇まいは知的な清純さを感じさせた。巨体の大介と並んでいるので判別しにくいが、やや小柄なようだ。

 ドアをノックする音がして、大介の母親が煎餅と飲みものを載せた盆を持って入って来た。

「大介と仲良くしてくれてありがとうね。ええと……」

「ご挨拶が遅れました。卓球部で大介くんの一年上の、赤鳥あかとり藤乃ふじのです」

 鈴を転がすかのごとく上品な声で女の子は名乗った。

「赤鳥藤乃さん」

 母はしっかりと噛みしめるように名前を復唱した。

「すみません、部活の帰りに急に押しかけてしまって」

「いえいえ、そんな。ご遠慮なく」

 仲良くなんかないよ。だって、と大介が言いかけると、母は大げさに目を見開いた。

「まあ、なんて事言うの」素早く藤乃の方を向く。「ごめんね、藤乃さん。大介ったら照れてるの。この子、こんな見た目でしょう? 女の子が遊びに来てくれたのはこれが初めてなのよ。私も嬉しいわ」

 大介の母は体を震わせながら目を潤ませている。

 余計な事言うなよ。大介はテレビ画面から視線を外さずに呟いた。

 母がそわそわした様子で部屋を出て行くと、藤乃は無造作に煎餅に手を伸ばした。バリバリと噛み砕く。そして、制服スカートからなまめかしく覗く白い足を乱暴に組み、よく冷えて汗をかいたグラスから氷入りの乳酸菌飲料をガバッと喉に流し込んだ。

「ていうか、誰?」

 大介が声をかけると、藤乃と名乗った少女は首筋をボリボリ掻いた。

「冷たい事言わないでよ。ジュースは冷たくておいしいけど」

「それ、うまい事言えてないから」

 大介が夏休みの部活から帰宅すると、知らない女生徒が後ろからついてきて家に上がり込んだ。おじゃまします、とリビングの方に可愛らしく声をかけて、当然のように大介と一緒に彼の部屋に入った。リモコンでテレビをつけてベッドにどっかり腰を降ろすと、君も座ったら? と冷たく言ってベッドをポンと叩いた。

 わけが分からないままに、大介は仕方なく隣に座った。母が階段を駆け上がって来たのはその直後だった。

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