作りもののヴァージンロード

 権堂正宗の事務所で仕事をしながら、勝高はジリジリとした焦燥感にさいなまれていた。愛奈と連絡が取れない。

 今日は午後から愛奈の母と妹が自宅に遊びに来る。だからケーキかお菓子の一つでも買って帰ろうかと思い立ち、相談の為に電話をしたのが午後三時過ぎ。だが呼び出し音は鳴っているのに一向に応答が無い。それから何度もかけている。既に五時を過ぎていた。

 もし、愛奈が菜奈の世話や料理などをしているのだとしても、誰か応答できるはずだ。メッセージも未読のままになっている。何かトラブルでもあったのだろうか。

 落ち着かない呼吸をなだめながら勝高は立ち上がった。窓に寄る。衣更着きさらぎ、つまり重ね着するという意味の言葉を語源とする如月きさらぎの名の通り、厚いコートやダウンジャケットを着込んだ人々が白い息を吐きながら、勝高の視点より遙かに低い地上を通り過ぎていくのが見える。年明けに楽指市転生計画と雅との縁談がもたらされてからおよそ一ヶ月。春はまだ遠い。

 斜め向かいにあるビルの壁面モニターに学者風の男が映っているのが見えた。しかつめらしく人差し指を立てて何かしゃべっている。窓を閉めているので声は聞こえない。画面が切り替った。デストピア風のイラストが大きく表示されて、地球滅亡、という文字が派手なエフェクトと共に浮かび上がって揺れた。マヤ暦がどうとか説明する文章が流れていく。

「ちょっといいか、非口ひぐち

「……はい、なんですか」

 非口は去年、勝高と同じ大学を出て採用された四歳下の女だ。折れそうな程に細身で幽霊のごとく存在が薄い。その身に纏った闇は周囲の者から活力を奪う。だが仕事はよくできる。

「今日は用事があってもう上がりたいんだが。例の資料、続きを頼んでいいか」

「……用事って、もしかして、この件ですか」

 非口が差し出したスマホの画面を何気なく覗いた。親子惨殺の動画ニュースが表示されている。警察の規制線の向こうに映っている家に、勝高は見覚えがあった。今朝、菜奈を抱いた愛奈が笑顔で勝高を送り出してくれた玄関が見えている。

 血の気が引いて顔が白くなっていくのが自分でも分かった。普通に立っているのさえ難しく感じて、思わず壁にもたれた。

 被害者の女性は、息絶えた幼い娘に覆い被さる形で全裸で発見された、とテロップが流れた。

 勝高は震えの止まらない手で画面を指さした。

「これは、いつの……」

「二時間ほどまえに配信されたニュースです」

 生気の感じられないボソボソとした口調で非口は答えた。その顔をじっと見ながら勝高は問うた。

「なぜ、俺の用事がこれだと分かった」

 権堂正宗以外には、愛奈の存在を話していない。

「さあ、どうしてでしょう」

「お前、何か知ってるんじゃないのか」

「知ってると言えばまあ、その時の状況ぐらいですね」非口はぺろりと唇を舐めてから、ドラマのあらすじを読むかのように抑揚のない声で話した。「娘を助ける為に我が身を差し出した母。それを意味も分からず目の前で見つめる幼い娘。でも、事が終わると結局、娘は殺されて、瀕死の母は物言わぬむくろにすがりついて息絶えた。泣けますねえ」

 非口の口元に、笑みのようなものが浮かんだ。

「警察がそう発表してるのか」

「いいえ。詳細な報道はされていません」

「それじゃあなんで、お前はそんなに詳しいんだ」

「戎谷さん」目を合わせずに、非口は呟いた。「この世ならざる存在を信じますか」

 勝高の脳裏にアトリプスの面影が浮かんだ。脳天気に笑いながら消えていった。

「今、そんな話になんの関係がある」

「……そうですね」

 見た目の通り得体の知れない女だ。油断ならない。

 非口は、ふいに上を指さした。

 何だそれは、と訊く前に、勝高は事件の意味を直感して口を閉ざした。上の階には権堂正宗の執務室がある。

 ボサボサの前髪の奥に覗く虚ろな目で絶句した勝高を見つめながら、非口は語り始めた。

「いずれ政治家として立つあなたの活動に支障をきたさないように。そして雅さんとの結婚生活をクリーンなものにする為に。さらには、将来有望な男を惑わせた下賎な女に罪を償わせる為に。そう考えれば辻褄が……」

「言うな」

 勝高は、力が抜けてぼんやりとした目を窓の外に向けた。デストピアに女神が降り立って微笑んでいた。その背後に、禍々しい大きな影が見える。それが、女神の正体なのだろうか。

「母親と妹はセーフか」非口はつまらなそうに言いながらスマホの画面に指を滑らせている。「犯人と入れ違いで訪問したようですね。事件直後の状況を見てしまったと思われます。そのせいなのか母親は錯乱状態で、妹は家から飛びだして行方不明」

 俺と一緒に暮らしたばっかりに。

 勝高は砕けそうなほどに歯を食いしばり、拳で壁を殴った。跳ね返った血が頬から垂れ落ちた。

 結局、愛奈を不幸にしてしまった。二人にとって、何よりも大切な菜奈の命も奪われた。

 政治家というのは、目的の為には手段を選ばないのだろうか。俺はそんな世界の住人を目指しているというのか。このままあの人について行く事が、果たして正解なのか。

 アトリプスよ、今こそ問え。問うてくれ。俺に選択肢を示せ。

 ふと、権堂事務所でアルバイトを始めたばかりの頃に虎潟と交わした会話を思い出した。

 虎潟さん、この案件、法律に違反してませんか。ああそれか。明確に違法だねえ。まずいでしょ? うん、まずい。でもね、戎谷くん。法律なんか気にしてたら政治はできないよ。法律を作るのが政治家の仕事じゃないんですか。その通り。僕らは法律を作る側の人間だ。それを守るのは一般市民だけでいいんだよ。

 夕暮れがオレンジ色の光で街を飲み込もうとしている。いっそ、何も見えないほどの雪でも降ればいいのに。覆い隠された真実の中をただ闇雲に進んで行けたなら、いつか訪れる偽りの勝利を見る事ができるだろう。

 遠くなっていく意識の中で、勝高は現実を飲み込もうとした。不思議と怒りは湧かなかった。自分は最初から知っていたのかもしれない。こうなるという事を。

 藤美原母娘おやこ殺害事件から約二ヶ月。犯人が捕まる事もないままに、惨劇は冬の寒さと共に人々の記憶から消えようとしていた。

 のんびりとやって来た春一番がようやく通り過ぎて、穏やかな陽差しに若葉の萌える中、戎谷勝高と権堂雅の結婚式が晴れやかに執り行われようとしていた。

「どちらにするか、決まりましたか?」

 着付けとヘアセットを担当する地味な女が新郎控え室で勝高に問うた。両手に一つずつチーフを持っている。二人きりだ。父と母は来なかった。愛奈の件で権堂に対する不信感を拭えなくなってしまったのだろうか。その娘の雅との結婚式だなんてとんでもないと思っているのかもしれない。

「もちろんだ。だからこそ俺は今、ここにいる」

「もう迷いは無い、と」

 勝高は冷たい笑みを浮かべた。

「いっその事、お前と結婚した方が面白いかもしれないな」

「お戯れを」

「戯れているのはお前の方だろ。俺はもう人生を選択した。選択したんだ。それなのになぜ、お前はまだ絡んで来る」

「見届けたかったから、かな」そう言うあいだに女の髪は艶やかに長い水色に揺れて、瞳は燃えるように紅くなった。「さあ、そろそろ時間ですよ、新郎の戎谷勝高さま」

 不用意に見上げれば後ろに倒れそうな程に、チャペルの天井は高かった。アーチ状の白い曲面には中世風の宗教画がびっしりと描かれていて、天使たちが無邪気に飛び回っている。

 左右の窓には聖者たちをかたどったステンドグラスが嵌め込まれていて、透過した色とりどりの優しい光が、力強く天井を支えているギリシャ神殿ふうの白い円柱の隙間から大理石の床に色彩豊かな影絵を浮かび上がらせていた。

 祭壇の向こうは巨大なガラス窓だ。桜の咲き誇る丘を越えた先に広がる雄大な海原うなばらの彼方から、朝日が逆光となって差し込んで来る。

 左前方には、小型だが本物のパイプオルガンが半分壁に埋め込まれたかのようにしつらえられており、自然の野山を再現した穏やかな花壇が右側の角に立体的に展開していた。

 ここにあるすべてが作りものだ。

 機械的なオルガンの旋律と参列者たちの拍手が冷たい響きとなって漂う中、笑ったまま氷漬けにされてしまったかのごとく表情を変えない権堂正宗にエスコートされて、雅がヴァージンロードを渡った。

 勝高は白いベールをそっと捲り上げた。完璧な笑顔で雅を見つめながら、冷たい唇に口づけた。

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