伝説の樹下です

 意味不明な落書きで埋め尽くされたコンクリートの橋脚に身を潜めるように立つ愛奈を見つけた時、勝高の心臓は、ドクン、とひときわ大きな鼓動を打った。

 川原の土を蹴る足音に気づいたのだろう、愛奈は顔を上げた。緊張の色が窺えた。

「勝楽に関してのお願い、って書いてあったけど」

 愛奈の声は、何かを警戒するかのように掠れていた。

 二十一世紀を迎えた今年、ケータイはそれなりに普及しているし愛奈も持っている事は調査済みだ。番号も入手してある。だが、通話履歴やメッセージをあのヒロシに見られるのはまずい。計画に支障をきたす可能性が高いからだ。それ以外の要素も考え合わせた結果、古典的な方法で連絡をとるのが最も安全に思えた。

 部活の朝練と一般生徒の登校の隙間時間を狙って、勝高は愛奈の靴箱にそっと手紙を忍ばせた。その時勝高はふと、故郷の楽指市にある伝説の樹の下を思い出した。夏祭りとクリスマスの夜、そこは気弱な男女が想いを伝え合う聖なる場所になる。

 これではまるで告白の為の呼び出しみたいだな。勝高は自虐的な笑いが込み上げるのを抑えられなかった。だがそれと同時に、本当にそうだったらどんなによかっただろうという思いが、胸を引っ掻くような痛みと共に通り過ぎていった。

「姉の勝楽の為に、どうしても話したい事があるんです。親友の愛奈さんじゃなきゃだめなんです。来てくれてありがとうごさいます。では、さっそくですが」

「あの……」原稿を読むように早口で話を進めようとする勝高を手で制して、愛奈は思い詰めたような表情を浮かべた。「この前はごめんね、私……」

「本題に入りましょう。誰にも二人が一緒にいる所を見られたくないでしょう? 特にあの男には。早く終わらせないと」

「……ええ。そうね」

 先日とはまるで雰囲気の違う愛奈に戸惑いながらも、勝高は努めて平静を装い、何度も練習した通りの言葉を深刻な様子で語り始めた。

「ある男をらしめるのを手伝って欲しいんです」

「ある男?」

「詳しくは言えないんですが。伝説になるほど悪事を重ねてき奴です。その男……樹下きのしたは姉に酷い事をしました」

 愛奈は目を見開いて鋭く息を吸い込んだ。

「勝楽は大丈夫なの?」

「落ち着いて下さい。命に関わるような事にはなっていませんから。今のところは、ですが」勝高は意味ありげに沈黙を挟んだ。「ただ、心にとてもとても大きな傷を負いました」

「心配だわ。会えないかな」

「今はそっとしておきたいんです。それ以外にできる事が無い状況だとご理解下さい」

「そんなに悪い状態なの?」

「ええ。だから、決して連絡をとらないで下さいね。親友の愛奈さんの声を聞いたりしたら、抑えていたものが一気に溢れ出して壊れてしまうかもしれないので。姉が落ち着いて話す事ができる、その時が来るまで」

「……分かったわ」

 愛奈は辛そうに眉を寄せて、小さく頷いた。

 勝高は違和感を覚えた。愛奈は本気で姉の事を心配しているように見える。勝高に優しく声をかけてくれた時のように。だが入学式の朝、愛奈はゴミを見るような目をして勝高を追い払おうとした。

 優しい愛奈と冷たい愛奈。どちらが本当なのだろう。

 勝高の中で迷いが生じた。しかし計画は既に動き始めている。途中でやめるつもりは無い。握った拳の中に冷たい汗をかいている事に気づいて、勝高はそっとズボンで拭いた。

「自分を苦しめた男に復讐を果たせたと知ったら、少しは姉も回復するかもしれません。いや、そうでなくても俺は許せない」

「了解よ」愛奈の顔が、覚悟を決めたように引き締まった。「私は何をすればいいの?」

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