堕ちた少女、冷たい勝利

 自宅から三十分以上電車に乗った所にある小さな町が今回の作戦の舞台となった。うっかり知り合いに遭遇してしまわないようにする為だ。

 駅前の細い路地に入って徒歩数分の所にある小さな公園にそっと近づいた愛奈は、ベンチに座って落ち着きなく周囲を窺っている男を見つけた。写真で確認した。ターゲットの樹下だ。目印として彼の方から提案してきた赤いバンダナを頭に巻いているので間違い無い。時代錯誤感に笑いそうになった。

 こんな冴えない男と勝楽がどういう経緯で知り合ったのか不審に思った。だが今はミッションに集中しなければならない。愛奈は愛用の紫のリボンをしっかりと整えた。

 わざと待ち合わせ時間に遅れて樹下の方に歩いて行った。その方が男が夢中になりやすいという事を、何かの雑誌で読んだからだ。私って、ちょっと小悪魔? なんてふざけた事を考えてみた。そうでもしないと緊張で倒れそうだった。

 初夏の野を彩る花を彷彿とさせる薄紅色の半袖ブラウスと、煉瓦のように落ち着いたエンジ色を基調にしたタータンチェックのプリーツスカートを選んだ。若い女の子らしい華やぎの中にも清楚さを感じさせる事を狙っている。

 愛奈が正面に立つと、樹下は全身を舐め回すように見つめた。そして口元にだらしない笑みを浮かべて右手を挙げた。合格、とでも言うつもりなのか。

 まともに目を合わす事もできずに早口でしゃべり続ける樹下に連れられて食事に行った。かなり高級な店だったが、会話はつまらない。ほとんどの時間、意味不明な単語の羅列を一方的に浴びせかけられた。苦痛が限界に達して気を失いそうだったが、気合いで微笑み続けた。

 店から出ると夕暮れが近づいていた。計算通りだ。川沿いの遊歩道に設置されたベンチには、身を寄せ合い、シルエットとなって動かない恋人たちがちらほらと見える。

 愛奈は樹下の手をそっと握った。男の肩がぴくっと震えた。

 私、二人きりになりたい。

 伏し目がちに愛奈がそう言うと、樹下はゴクリ、と唾を飲み込んで鋭く頷いた。

 既に目的地が決まっているかのごとく迷いの無い早足で歩き始めた樹下に軽く引きずられるようについて行きながら、愛奈は恥ずかしがっている女の子を演じ続けた。

 しばらく行くと、派手にライトアップされたお城のような建物の前に出た。樹下の足が止まった。一つ息をついて勢いよくお城へ入ろうとした樹下の手を愛奈は放した。その場から動かない。

 どうしたの?

 樹下の顔に焦りが見える。

 ねえ、さっきの約束覚えてる?

 愛奈は食事の時、小遣いに困っていると話した。樹下は無言で指を二本立てて見せた。愛奈は首を振った。指は三本に増えた。

 もちろん、覚えてるさ。

 小脇に抱えたダサいビジネスバッグを軽く持ち上げて、樹下はぎこちない笑みを見せた。

 先にもらってもいいかな。

 いいよ。する事だけして逃げちゃう男がいるらしいから、心配だよね。

 理解してくれてありがとう。あなたを選んでよかった。

 愛奈は満面の笑みを浮かべた。その頬を、汗が一筋流れ落ちた。

 樹下は財布から札を三枚、抜き取った。指を舐めて数える。

 ナマで渡すのか、と思いながら愛奈が差し出した手のひらに札が三枚乗せられた。その瞬間、明るい光が弾けた。

 薄闇の中からデジカメを手にした勝高が現われた。愛奈は親指を立てて勝高にウィンクをした。周囲を見回すが、他には誰もいない。

「君だけ?」

 違和感を覚えて、愛奈は勝高に尋ねた。唇が軽く震えるのを感じた。

 勝高は無言でデジカメの写真を見せた。いかにもな建物の入り口で中年男から現金を受け取っている愛奈がしっかりと写っていた。

「エリートコースに乗っかっているお嬢さまが、いかがわしいアルバイトですか」

「何言ってるの、勝高くん。私がお金を受け取ったタイミングで恐いお兄さんたちが出て来てこの男を締め上げる手はずでしょ?」

 愛奈の声は掠れている。不穏な空気が愛奈を重く包み込み、圧力を感じさせているのだろう。

 中指でメガネを押し上げて、勝高は一つ息をついた。

「俺が怖いお兄さんなんですよ。愛奈さん、あなたはこれから、自分が敵に回した男の恐ろしさをじっくりと味わう事になる」

 愛奈は一言も発する事ができずに、能面のように無表情の勝高を呆然と見つめた。取り返しのつかない事をしてしまったのではないかという後悔が、腹の底に重く黒く沈んでいく。

 勝高は樹下に封筒を渡した。樹下は中身をチラリと見て、愛奈には一瞥もくれずに立ち去った。

「初対面の男とすぐに打ち解けていましたね。男に甘える才能もあるようだ。天性の役者なのか魔性の女というやつか。不本意ながら俺も引っかかったわけだが」

「ちが、違うの勝高くん。私はあなたを……」

「楽しい夢をありがとう、俺の……初恋の人」

 名門私立学園に通う美少女のふしだらな噂は、実名で写真と共にネット上を駆け巡り、とんでもない勢いで拡散していった。事情を説明する機会すら与えられずに、即日、藤美原愛奈の退学が決まった。

 身に覚えの無い嘲笑と侮蔑に耐えかねて、愛奈の精神はいずれ崩壊してしまうかもしれない。少なくとも普通の女子高生にはもう、戻れない。

 勝高は、愛奈に対する勝利を確信した。

 だが、勝ったはずの勝高に高揚感が訪れる事はなかった。

 ざまあみろ、と呟いてみても、心は重く冷えていくばかりだった。

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