2001

桜の女神は、穿いてない?

 私鉄駅の改札を出てしばらく住宅街を歩くと、川沿いの土手に出た。

 満開を少し過ぎた桜の木が立ち並んでいる。薄紅色の花びらが小さな蝶のように舞い落ちながら暖かな風に流されて、勝高のすぐ目の前を通り過ぎていった。

 今日は、萌浦学園高等部の入学式だ。愛奈と同じ高校に入るため、勝高は何もかも犠牲にしてひたすら入試に備えた。友人からの誘いはすべて断り、アニメやゲームは封印した。それが実を結び、この日を迎える事ができた。

 愛奈が去年、萌高に入学した事は姉の勝楽から聞いて知っていた。再び巡り会う事ができるだろうか。いや、会わなければならない。その為に来たのだから。

 そんな勝高の思いが通じたのかどうか分からないが、気配を感じて顔を上げると、五メートルほど先に忘れる事のできない後ろ姿があった。彼女が一歩進むごとに艶やかに長い黒髪が紫のリボンと共に揺れて、心をくすぐる甘い香りがした。

「愛奈さん」

 勝高は、思わず声をかけていた。

 足を止めて振り返った藤美原愛奈は、頬をこわばらせた。

「誰だ」

 愛奈の隣を歩いていた男が、冷たい声と共に鋭い視線を勝高に向けた。

「友達の弟よ。中学で一緒だったの」そっけなくそう言って愛奈は前を向いた。「知り合いを見つけたから声をかけただけでしょ」

「そうなのか」

 男はまだ勝高の方を見ている。勝高は動けない。

「放っておきましょうよ、そんな奴。なんか、キモいし」

 ふっ、と表情を緩めて、男も前を向いた。

「そうだな」

 愛奈と男は揃って足を踏み出した。

「待って」勝高は自分でも驚いた事に、もう一度、愛奈に声をかけていた。「待って下さい」

「ああ、うっとうしい」愛奈は吐き捨てるように言った。「私、あんたなんかになんの用も無いんですけど」

「愛奈さん、また話を聞いてくれるって言いましたよね」

 愛奈は唇の端を歪めて笑った。

「バカね。本気にしたの?」

「……どういう事ですか」

「友達の弟が公園に一人でぼんやり立ってたら、一応、声をかけるぐらいの事はするでしょ? それだけよ」

「何だ、それ」

 男が笑い出した。

「それにね。私、この人と付き合ってるの。見れば分かるでしょ? 君、邪魔なんだけど」

「まあ、そういう事だ。愛奈に付き纏ったら承知しないからな」

 威嚇するように拳を突き出しながら、男は危険な笑みを浮かべた。

「愛奈さん。僕はもう、あなたと話す事すらできないんですか」

「しつこいぞ。ちょっと痛い目をみるか?」

「やめなさいよ、ヒロシ。絶対勝てる相手を虐めてもつまらないでしょ。それから、かつ……名前忘れたけど、あんたも。この人に勝てるわけないんだからね。格闘技をやってるし、将来は高級官僚になる事が決まってるんだから」

「まあな」満足そうな笑顔を見せながら、男は愛奈の肩に手を乗せた。「コイツは俺から離れられない。さっさと諦めろ」

 ヒロシは愛奈を強引に抱き寄せて唇を合わせた。その時、勝高の胸の中で何かがひび割れて砕け散った。その様子を見た愛奈の目に、一瞬の動揺が浮かんだ気がした。

「おい愛奈、行くぞ」

 二人は触れ合いそうな程の近さで肩を並べて歩いていく。残された勝高はその背中を呆然と見つめ続けた。

 待ってるよ、と愛奈さんは言ってくれた。

 必死に勉強して、ようやく手が届いた。何度も心に描き、夢にまで見た一瞬だった。だが、届いたと思った手は、冷たく振り払われた。

 愛奈が遠く小さくなっていく。残酷なほどに優しい春の日差しの中に、その姿は揺らぎながら溶けていった。

「酷い女だね」

 突然、声が聞こえてきた。驚いて振り返ると、萌浦学園高等部の制服を着た少女が桜の木にもたれて腕組みをしていた。俯き加減なので顔はよく見えないが、柔らかなウェーブのかかった水色の長い髪が記憶を刺激した。

 愛奈によって味わわされた怒りにも似た絶望に心を砕かれそうになりながらも、勝高はなんとか声を絞り出した。

「……女神さまでも桜をでるのか」

「さあ、どうかな。そんな事より。私の制服姿、どう?」

 アトリプスはその場で来るりと一回転すると、身を乗り出して紅い瞳でウィンクした。

「悪くな……なんの用だ。萌高の生徒のコスプレなんかして」

「今、悪くない、って言いかけたよね?」

「用件を言え」

「せっかちね。あんまり焦ると女の子に嫌われちゃうぞ。あ、もう嫌われたか。あはは!」

 アトリプスは勝高を指差して、さもおかしそうに腹を抱えた。

「俺を笑いに来たのか」

「ありふれたセリフだね。君らしくないなあ」

「優れたもの程、みんなが使うからやがて陳腐になるんだ」

 小さく頷いて、アトリプスは真剣な顔になった。

「このまま終わりにするつもり?」

 勝高は、一つ息をついた。

「またそうやって俺を煽るのか。でも、この状況で何ができるというんだ。ヒロシに下剤を仕込めとでも? 俺は愛奈さんに選ばれなかった。それだけの事だ」

「違う。君、負けたんだよ? あの軽薄な女に」

「負けた?」

「そう。君は負けた」

 愛奈への思いを募らせて勝高は必死に勉強をした。でもその気持ちは届かなかった。優しい言葉でその気にさせておきながら、愛奈は勝高を突き放した。

 せめて友人として、時々、話し相手になってくれたなら納得する事ができたのかもしれない。勝高が勝手に憧れを抱いただけなのだから。でも、愛奈から勝高に向けられたのは完全なる拒絶。これは紛れもなく敗北だ。

 勝高は自分の心に問うた。負けっぱなしでいいのか、と。いいや、俺は勝たなければならない。勝ちつづける人生を送るべきだ。勝利こそが俺にふさわしい。ジーク! 勝高は顔を上げた。

「勝つさ。決まってるだろ。俺は、勝つ男になるんだ」

「だったら、君の純真な思いを踏みにじったあの女を地獄に突き落としてやってはどうかな。相手が負けてこそ、君は勝った事になるのだから」

 アトリプスは桜の木から離れて空を見上げた。艶やかな水色の髪が下から風を受けているかのようにふわりと逆立った。制服スカートの裾も大きく翻ったが、そこにあるはずのものが見えなかった。穿いてない? オトナの諸事情を感じさせながらアトリプスの足は音もなく地を離れて上昇を始めた。

「ちょっと待て。お前はなぜ俺の前に現われる。何が目的だ」

 地上から叫んだ勝高の問いには答えずに、アトリプスは大気に呑まれるように消えた。悲しげな紅い瞳の気配を残して。

 空に声が響いた。

 ――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――

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