紫のリボン
春季トーナメントで奇跡の大活躍をした翌日。勝高は卓球部の顧問に呼ばれて退部を言い渡された。理由は言わなくても分かるな、と。勝高は黙って頷いた。
いつの間にか、自宅に近い小さな公園の木の下にぼんやりと立っていた。なぜこんな所にいるのだろう。学校を出てからの記憶がなかった。
幼い頃よく遊んだ思い出の公園だ。かつて市民が憩い寛いだ芝生の広場は荒れ地となって雑草が生い茂っていた。それでも、笑顔で駆け回る
勝高は卓球が好きだったわけではない。これなら勝てる。そう判断したから続けていただけだ。はっきり言って、勝てるならなんでもよかった。だが勝高の努力自体は紛れもなく本物だ。
もともと体力がある方ではないのにハードなトレーニングに耐えた。手の皮が剥けてマメの上にマメができてもラケットを振り続けた。卓球の教則本を読み漁り、プロの試合の録画を何度も繰り返し見て研究した。まさに卓球に魂を捧げた一年間だった。だがそれは、たった一度の愚かな行いで、きれいさっぱり無に帰した。
すべては自らの浅はかな行為の結果だ。弁解の余地は無い。理解している。勝高はちゃんと責任の所在を理解し、反省している。だから今は新たな気持ちで前を向かなければならない。
それが分かってはいても、込み上げて来る涙をどうする事もできなかった。いっそ思いっきり泣いてしまえたら少しは楽になれるのかもしれない。だがそれを自分に許すのは甘えに思えた。
勝高は幼なじみの三人で競争しながら登った木をじっと見上げた。
「ねえ、大丈夫?」
少し離れた所に、勝高と同じ中学の制服を着た女子生徒が立っていた。上級生のようだ。優しい眼差しで心配そうに勝高を見つめている。
「何がですか」
今にも溢れ出しそうな感情を抑えて勝高が冷たく問うと、女子生徒は少し眉を寄せた。
「君ったら、酷い顔をしてるよ」
勝高は思わず自分の顔に手をやった。その様子を見て女子生徒は柔らかな笑みを浮かべた。なんとなく見覚えがある気がして、勝高は尋ねた。
「あの、以前どこかでお会いしませんでしたか」
「あら、ベタなナンパね」
「ち、違いますよ」
「ごめん、分かってる」女子生徒は明るく笑って手を振った。「君、
勝楽は勝高の一つ上の姉だ。
「ええ、そうですけど」
「私、何回か家に遊びに行ったから、いつだったか紹介されたよ、勝高くん」
思い出した。姉が連れてきた友達を見て、なんてきれいな人なんだろう、と驚いたのを覚えている。その時はほとんど会話をしなかったが、こうして話してみると、ガラス細工のように繊細で透き通った声も素敵だな、と思えた。名前はたしか……
「
「正解!」愛奈は勝高を指さして、楽しそうに屈託の無い笑い声を上げた。「
差し出された手を遠慮がちに握った。とても柔らかくて、しっとりと温かかった。荒れて乾いていた勝高の心に優しい安心感が染みて来る。気持ちに潤いを得た勝高は、愛奈の方を向いて顔を上げた。
「姉がいつもお世話になっております」
状況から考えて、少々、的外れな挨拶に思えたが、愛奈はバカにしたりしなかった。
「ねえ、座りましょうよ」
促されるままに、勝高は近くにあった木のベンチに座った。
愛奈は勝高の隣に腰を下ろした。二人の距離はかなり近かった。心をさらさらとくすぐられるような、いい匂いがした。ずっとこの人の傍にいたい。唐突に、勝高はそんな事を思った。
「なんで僕に声をかけてくれたんですか? 友達の弟だからですか?」
勝高は少し顔を赤らめながら思いきって訊いてみた。
「違うよ。最初は勝楽の弟くんだとは気づかなかった」
自分より頭一つ背の高い勝高を見上げるようにしながら、愛奈は答えた。その上目遣いが可愛く思えて、勝高は慌てて目を逸らした。
「それじゃあ、どうして」
「なんだか放っておけない感じがしたの。上手く言えないんだけど」
「そんなに俺、ヘンでしたか」
「ヘン、ていうか。ダークサイドに吸い込まれそうな気配を感じた」
「ダーク……ああ、そんなSF映画がありましたね。坊主の力を信じよ、だったかな」
「勝高くん」愛奈は、ふいに表情を改めた。「よかったら、何があったのか話してみない?」
「つまらないですよ」
「いいから」
勝高はダーサイドではなくて、愛奈の瞳に吸い込まれそうになる力を感じた。だがその時、一つの考えが頭の中を駆け抜けた。
「もしかして、実はアトリプスだったりしない?」
「ん? アトロポス? 運命の三女神モイラの一人だよね。クロートーが紡ぎラケシスが計ってアトロポスが切る、だったかな」
「そうじゃなくて、アトリプス、です」
「ごめん、知らない」
「すみません、失礼しました。アトリプスという
「女神に性悪とかあるんだ」
愛奈は驚いて目を丸くしている。
気分がほぐれた勝高は、これまでのいきさつを包み隠さず話した。アトリプスの
「……そう、たいへんだったね」
愛奈は勝高を批判する事も口を挟む事もせずに、優しい目をして最後まで話を聞いてくれた。勝高は気持ちが少し軽くなったように思えた。
「どうしても気持ちと願いが噛み合わない時ってあるよ」愛奈は勝高の肩にそっと手を置いた。その部分から暖かな光が体の中に浸透して来るような心地よさを感じた。「気持ちでは杉下くんの事を大切に思ってる。でも、勝ちたいという強い願望が、敵として倒せと迫る」
「俺は、自分自身をコントロールできていないんですね」
ゆっくりと首を振って、愛奈は話を続けた。
「そんな矛盾や葛藤を抱えて生きるのが人間というものでしょう? それに、過去は変えられないけど、未来は選べる」
未来は選べる。愛奈の言葉に、勝高は鳥肌が立つのを感じた。
――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――
アトリプスの声が聞こえた気がした。
「人は
愛奈は勝高の肩に置いた手に力を込めた。勝高はぎこちなく頷いて、目を合わさずに掠れた声で尋ねた。
「また、話を聞いてくれますか」
「もちろん」愛奈は花のような笑顔を広げた。「勝高くん。君は敵対する者を叩き潰すには優し過ぎるのかもしれない。誰かに向けた悪意は必ず跳ね返って来る。それを受け止めきれなくて、君自身が傷つくんじゃないかな」
「俺自身が傷つく?」
「必ずしも敵を討つ事だけが、勝利ではないと思うよ」
勝高は力を込めて頷いた。
「ずっと……」
「え?」
「ああ、いえいえ」
ずっと一緒にいられたらいいのに。その言葉を、勝高は飲み込んだ。
「私、来年から
「エリートへの最短ルートと言われている進学校ですね」
多数の高級官僚や各界の著名人を輩出している。
「もちろん、入試で合格したら、だけどね」愛奈は肩をすくめて小さく舌を出した。「勝高くんも
愛奈は勝高を穏やかな目で見つめてにっこりと微笑んだ。眩しかった。愛奈こそが女神に思えた。
「ありがとうございました、愛奈さん」
「うん、またね。萌高で待ってるよ」
愛奈は気さくに手を振りながら去って行った。魅惑と優しさの入り交じった残り香を置いて。角を曲がって見えなくなるまで、勝高は紫のリボンが揺れる後ろ姿を見つめ続けた。
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