太陽がいっぱい【KAC20252・あこがれ】第一弾

カイ 壬

太陽がいっぱい

 私には尊敬し畏怖するべきものがある。


 太陽だ。


 人は太陽なしに生きていくことはできない。

 地球が太陽の周りを回っているからだけではない。

 もちろんそれが地球に暑寒をもたらし、生物にとって過ごしやすい環境を生み出しているのも事実だ。

 明かりとしての太陽の他に、微弱な放射線がもたらす生物の進化も注目に値する。放射線の影響が生物の遺伝子に作用し、いくつかの塩基が変化することで進化が促進されてきたのだ。


 地上に生きる者はすべからく太陽にあこがれを持っている。

 「あの人は太陽のようだ」と比喩されて悪い気がする人はまずいない。他者を包み込む温かさはやさしさにも通じるからだ。


「ユウくんは太陽のようね」

 と言われて悪い気がする人がいないのは、人々が無意識のうちに太陽を求めていることの現れではないか。太陽は人々を照らし続け、時の推移を教え、暦の元ともなった。


 太陽が嫌いなどと公言すれば、吸血鬼を疑われかねない。魔物は太陽の光を忌避するといわれるからだ。


「ねえユウくん。最近冷たいじゃない」

 と言っても、実際に体温が冷たいわけではない。それではまるで死んだ人のようである。


 「太陽のような幸せ」という表現もある。「明るく温かな家庭」を想起させるからだろう。

 人の営みにおいて、太陽は目指すべき性質を表しているのではないだろうか。



 前述したように、太陽は暦のもととなった。

 最初は月の満ち欠けを周期と捉え、ひと月の基準とした。これを太陰暦という。

 しかし月の満ち欠けは三十日弱でひと巡りするため、十二周期では一年を正確に捉えられない。

 一年は三百六十五.二四二二日で構成されているという。そこで一年を三百六十五日とするのが通常で、四年に一度閏日を入れることで誤差を修正しようとする。しかしそれではさらにわずかな誤差が現れるため、百年に一度は閏日を設けず、四百年に一度は閏日を設けるという調整が行われている。これをグレゴリオ暦といい、現在世界で用いられている暦法である。

 故に、現在の多くの人類は太陽を見て生活しているのである。もし太陽が消えてしまえば人々は生きるすべを失いかねない。旧暦で生活していた頃は月を見て生活していたのだ。


 これから人類は宇宙へと進出しなければならない。既定路線である。

 いつまでも地球にこだわっていると、人類が滅亡しかねないからだ。たったひとつの惑星だけに生活するのはリスクでしかない。

 とはいえ、人は太陽の明かりと温かさを必要とするのも確かだ。だから、人類の次なる星は火星だと考えられている。温暖化している地球よりも遠いため、人類の活動で温暖化しても、地球ほどの悪影響は起こりづらい。もし金星を次なるフロンティアに位置づけていたら、地球以上の温暖化防止策が必要となる。それができるくらいなら、地球はもっと住みよい星になっていただろう。

 それができないからこそ、地球の次は火星ということになるのだ。


 人は太陽から離れることができそうにない。

 もし外宇宙にまで版図を広げようと思うのなら、疑似太陽が必要不可欠となるだろう。

 私も、太陽のように人々から必要不可欠な存在となれるよう努力したい。 

 追い求める存在だからこそ、私にとって太陽はあこがれなのである。



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