第30話 南光坊天海の正体
「最早勝負は決した。将軍も逝去したいま抗ったところで詮無いこと、家臣のためにも潔く腹を切る」
平伏す天海を前に、氏直がわざと威圧的に言った。
「貴僧もそう思わぬか? 徳川の名を貶めるばかりだと」
僕と宗瑞、蔵は近習を装い、壁際近くに座り、黒衣の僧侶を見つめた。
歳の頃は五十前後、のっぺりとした能面のように表情がない。
天海は眉ひとつ動かさず、頷くこともしない。
「貴僧が舅殿を説得せい」
天海の態度に苛立った氏直が声を張り上げた。
「御免蒙る」
氏直に目を向け小さな声で、ぼそりと言った。
氏直は聞き取れなかった。
何を言ったのかと身を乗りだし天海を見つめた。
「遠い昔、北条に一族を根切りされ僧侶になった身。なんで味方など出来ようか!」
天海は懐に隠し持った短刀を抜き放つと自らの首筋に当てた。
「何をする気だ!」
「僧侶を責め殺したとなれば新皇の評判も地に落ちよう。一族の恨み思い知れ」
首に押し当てた短刀が青白い光を放った。
「四百二十年生きぬいて、最後は自害か。ざまあねえな。氏直もういい。下がれ」
宗瑞がやおら立ち上がり、一礼して下がる氏直の場所に腰を落とした。
「わからぬ話ではありませぬが、前の世の遺恨を晴らしてなんとなさる」
いつの間にか天海に近づいた蔵が、短刀を取り上げる。
天海の黒目だけが、せわしく宗瑞と蔵を行き来する。
「俺らぁ、伊勢早雲庵宗瑞。おめえさんと同じ別の世から来た者だ」
「ふふっ。今だにワシを頼るとは‥‥ あはははっ」
牢番らがぎょっとし牢獄を覗き込んだ。
黒衣の僧侶は薄暗い牢獄の中で腹を抱えて笑っていた。
入獄してすでに五日。
牢番は気が触れたのかと思った。
家康は幼少より事あるごと助言し窮地を救った天海を待っていた。
今川義元や武田信玄の死や浅井長政の裏切りも、事前にそれとはなく教え導いて来た。
当然、この窮地も天海が救ってくれると信じていたのだ。
降伏を促す天海に家康は怒り狂い斬り殺そうとした。
天海も斬られても仕方がないと覚悟はしていた。
新皇打倒を煽ったのは己なのだ。
天海は信長の死も秀吉の台頭も知らなかった。
天正八年 ──
それが天海の知る最後だ。
下総の小領主であった天海の一族は、小田原北条に利用され滅びた。
燃え盛る城を捨て、一矢報いようと北条軍に攻込んだ時、天海は己が一人原野を疾走していることに気付いた。
敵も味方も燃える己の城もない、
薄の穂が揺れる原っぱだった。
天海は附近の寺を頼り、身を寄せた。そこで天海は四百年も過去にいる事を知った。
歳を取らないことを知ったとき、死のうとさえ思った。
北条のせいだ。 ──
北条に復讐するために、生きる闘志が湧いた。
最初の誤算は百年ほど経ったころのことだった。
先祖が現れないのだ。
鎌倉の御家人に仕えていたはずだが、そのような人物はいなかった。
更に百年待った。
ついぞ先祖は現れず、領地には城など建たなかった。
天海は関東を離れ奥羽の寺を住処に変えた。
同じ所には長くは居られない。放浪する生活は続いた。
出羽の寺に潜り込んでいた時、待ちに待った朗報が届いた。
伊勢新九郎の伊豆侵攻だった。
存在しない先祖の復讐である、そんなものはどうでも良かった。
復讐は三百年生き抜くための糧だった。
この思いが無ければ天海はとうにおかしくなり、命を捨てていたはずだ。
天海は己の傀儡として家康に狙いを付けた。
幼少より人質になり人の情知らない子供なら騙すことなど簡単に思えた。
駿河の善得寺に修行僧として潜り込み家康に接触した。
松平竹千代。十歳の子供だ。
菓子など与え優しくしたらすぐに懐いた。
「貴方様は将来、遠駿三、三カ国の太守になられる」
「わ、わたしが、三カ国の太守⁉」
目を真ん丸して驚く様は、まるで子狸だった。
「嘘だ。治部大輔様がおるのに、わたしが太守になれるはずがない」
竹千代は今川治部大輔義元の人質である。
今川家を差し置いて太守となるなど、子供でも信じない話しだ。
「他言は無用ぞ。大輔様は上洛途中で打ち取られる。敵は貴方様が良く知る御方だ」
竹千代は必死に考える。
「よいか、まだまだ遥か先の話だが忘れるなよ。上手く立ち回れ」
短い期間であったが、家康の心に深く己を刻み込み、寺を去った。
十年後、家康を頻繁に訪れ、信長との同盟や浅井長政の裏切り、武田信玄、上杉謙信の死を教え、家康の崇拝をかち得た。
あとは目論見通り家康を嗾け北条を滅ぼすだけだった。
だが、家康の成長に比例するように北条も巨大化し、生半可ではかなわぬほど関東 屈指の大名になっていった。
天海は半ば復讐をあきらめていた。
天正八年を過ぎれば先の事など何もわからないのだ。
信長の死も秀吉の台頭も予想すら出来なかった。
驚いたのは己が齢を取り始めたことだった。
逃げ回る必要が無くなった。
今ならどんな大寺院でも望むままに出世も出来る。
なぜなら、日本国中探しても四百二十年分の知恵を持った僧侶など存在しないのだ。
どんな宗派の大僧正も天海の見識には敵わない。
天海は京に上り、名を改め大寺院に潜り込み、瞬く間に一目おかれる存在となった。
秀吉と北条の衝突には、昔ほど心が湧きたたなかった。
四百年の悲願も齢を取り出し僧侶として安定した生活を送るようになると、どうでもいいように思えてならなかった。
関白秀吉の圧倒的武力の前に小田原北条は滅びる。
それで天海は満足であった。
ところが、秀吉の小田原征伐は、たった一日で霧散する。
半年近く包囲し圧倒的優位であったはずの豊臣軍が大惨敗を喫し、東国制覇を諦める事態となった。
天海は心にむらむらと湧きたつものを感じた。
復讐心か、嫉妬心か分からない。
とにかく北条が巨大になるのが癪に障った。
天海はことあるごとに家康を嗾けた。
「ククッ。まさかわしと同じとは。似て非なる世? 気づかなかったわ。わははは」
茶臼山の本陣で宗瑞より真相を聞かされても、すぐには飲み込めなかった。
新皇も北条早雲も関白軍を一蹴した武器も未来から来たのだ。
自分と同じように。
家康が新皇に勝てるわけがない。
「家康に伝えよ。南光坊天海が最後の誘引開導を進ぜようぞ」
薄暗い地下牢に天海の声が響き渡った。
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