第18話 家康の野望

「家康が征夷大将軍に就任したそうだ」

 奥州より戻った少尉が座るなり言った。


 慶長十年(1605年)二月。

 春の香漂う皇霊殿には僕と先生、少尉の三人だけだ。

 宗瑞や蔵、お嬢は、いまだ南奥羽に留まり傘下となった領主に小田原式の行政指導していた。


 豊臣に傘下に降った領主たちは、反豊臣の相馬義胤、葛西晴信、大崎義隆の攻撃を受け米沢の伊達氏、三春の田村氏など滅ぼした。

 出羽の最上義光は窮地に追い込まれる事態となった。

 最上義光は安東らとの和議を計り北条を頼った。

 

 この最上の動きに対し、安東ら出羽、陸奥の南方の領主の全てが新皇の配下に加わるべく、使者を送り恭順を示したのだ。

 武力による制圧ではない。

 領主自らが領地を差し出し新皇の統治を望んだのである。


 流民たちも現金なもので、故郷が新皇統治となると一族を引き連れ己の村に帰っていった。

 土木作業や江戸造成で賃金を稼いでいた彼らは、村を離れず悪政に耐えた村人より、よほど金持ちで、村の復興を活発化させた。

 なにより教育制度の恩恵を受けた子供たちが、読み書きが出来ることに地侍や村役たちを驚かせた。


 新皇治世の繁栄は帰村した難民たちから奥州に伝播し、北の一部を除き小田原式の統治をおこなっている。

 少尉も軍の再編で相馬や大崎に出向いていたのだが、法治や経済と違い労せず再編が終わり小田原に戻ってきたのだった。


「姫の調べでは、家康は大阪より秀頼を追い出したそうです」

 先生が少尉に答えた。

 秀吉の死後、長く続いた政権争いは権謀渦巻く醜い暗殺合戦になった。

 一時は家康さえ重篤となったほどだ。


 加藤清正が主権を取り返したかに見えたのだが、その清正が自領地伊予に向かう船の中で死んだ。

 毒を盛られたのだろう。

 それが証拠に清正の死と同時に重篤であったはずの家康が不死鳥のようによみがえり豊臣政権を掌握してしまったのだ。


 福島正則ら豊臣一門は秀頼を担ぎ上げ反撃を試みるが、逆に治世騒乱の罪を問われた。

 福島正則が伯耆、出雲二十八万石を没収され信濃川中島五万石に転封されたのを皮切りに、豊臣秀保が周防一六万石より越前勝山二万五千石。木下俊勝が家定の遺領安芸、石見を合わせ三十万石より信濃水内四万石。木下俊房は備後十八万石より越中新川郡一万石に減転封され、中国の豊臣勢力は家康により一掃されたのだ。


 罰は秀頼にも及んでいる。

 関白職の罷免である。

 家康は豊臣に奪われた関白職の返還を条件に、菊亭晴季、九条兼高らを口説き征夷大将軍の地位を手に入れたのである。


「豊臣秀頼はどうなるんです?」

 秀次、清正ら豊臣の支柱を失い、正則ら豊臣一門は領地を削られ畿内を追われている。


「殺されることは無いでしょう。どこか小国を与え、領地をごっそり奪われるだけでしょうね」

「家康のことだ世間体の悪いことはしない。形だけは国主にするだろう。まあ、邪魔になりゃ清正同様消されるかもしれないがな」

 

 先生と少尉の予想は的中する。

 この年の秋、豊臣秀頼は直轄地全てを取り上げられ、伊賀一国九万五千石に減転封されてしまうのだ。

   

 畿内、北陸、四国の豊臣領地を手に入れた家康は、大阪城を居城とし幕藩体制を固めていった。

 徳川一族、譜代家臣による統治は軌道に乗った。

 だが、西国の実権を握れば握るほど新皇の恐怖が増していく。


 現に国境の越後、信濃、駿河などでは新皇を迎い入れようと画策している旧領主の家臣と新領主の家臣の間で諍いが絶えなくなったいる。

 新皇がこの地に乗り出せばあっと言う間に支配地となるだろう。

 それ程新皇に傾倒している民草が多いのだ。

 

 現に奥州の領主たちは自ら領地を差し出し臣下している。

 新皇は武力など一斉行使していないのだ。

 小田原の繁栄は日々戦いで疲弊した領主、民草には憧憬を抱くほどの魅力があるのだろう。

 平和で豊かな社会。身分、特権を廃した治世。

 南蛮人でさえ羨むような自由を与えている反面、公正で厳格な法を維持していた。


 武家支配により徳川一族の繁栄を目指す家康と民の繁栄、安寧を目指す新皇。

 水と油ほどの違いがあると家康は痛感していた。


 (いっそ若狭、美濃、遠江より東を新皇に譲渡するか)

 甲斐は小田原攻め敗戦により新皇に取り上げられたが、それも今にして思えば秀吉へ恩を着せるには丁度いい口実となった。

 悪いことばかりではなかったのだ。

 

 天正戊午の乱の和睦の後、北条氏直に次女を嫁がせ姻戚を結んだのは、若き太守氏直のいくさ巧者ぶりと控えめで利発な言動に触発されたためである。

 平将大なる巨魁がついていることを知らなかった勘違いであった。

 しかし、北条と姻戚を結んだことにより、徳川家が恩恵を受けていることは事実だ。

 新皇と秀吉が結んだ東国不介入の約定が徳川政権となっても引き継がれているのも氏直のお蔭だろう。

 政権争いで、福島正則が新皇を頼ったようだが介入しなかったいうのもある。

 ただ反に西国支配に興味がないのかもしれないが、今まで通り日の本を東西に二分すれば徳川が潰されることはない。


 (鎮西を獲るか!)

 良港の多い九州の地は南蛮との貿易で莫大な富を稼ぎ出している。

 秀吉が発したバテレン追放令は、一時キリスト教神父らを遠ざけたが、小田原など秀吉の支配のおよばぬ東国に移っただけだった。

 逆にそれらの地で南蛮貿易が活発に行われる事態となってしまったのだ。


 九州の大名は秀吉の死後、他所に移ってしまった南蛮商人を取り返すため追放令など無視してバテレンを招き入れている。


 筑前、筑後、豊前を有する黒田官兵衛はキリスト教に帰依していたが、追放令が発せられると棄教し秀吉に追従した。

 しかし、裏では神父らを保護し南蛮貿易を続けていたのだ。

 官兵衛にしても、おいそれと南蛮貿易のうま味を手放さなかったのだ。


 その官兵衛も昨年三月に鬼籍に入っている。

 嫡子長政を潰し、湊を手に入れれば莫大な富が入るはずだ。


 家康にはその手段があるのだ。

 肥前に入封された吉川広家ら旧毛利の家臣を使えばいい。

 国境で騒ぎを起こさせ広家らに黒田長政を訴えさせるのだ。

 幕府の裁定は両名国替え。

 労せず筑前、筑後が手に入る。

 広家らには墳墓の地である安芸一国をあてがえば済む話だ。


 (新皇との衝突を避けるならば幕府を九州に移してしまうのが得策だ。大宰府徳川幕府。それも一興)

 

 家康はニヤリと笑った。

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