第14話 毛利滅亡

 火蓋は毛利の小早川秀包によって切られた。

 恵瓊の領地伊予を襲撃したのである。

 秀包は毛利元就の九男で二十六歳。

 兄隆景の養子で、隆景の死後小早川家を継いでいた。

 

 秀包は水軍を押し立て伊予三津湊に上陸すると所構わずあらしまわった。

 今治の福島正則が救援に駆け付けたが、小早川軍は素早く兵を引き筑前に帰った。

 

 秀吉は毛利討伐の大号令を発した。

 山陰、山陽、瀬戸海道、九州からの四方同時攻撃。

 四道併進である。

 

 まず秀吉は恵瓊に命じ、吉川広家ら旧毛利の家臣二万を家康のもとに向かわせた。

 これにより、伯耆、出雲、石見、備後に残っているものは毛利方だけとなった。

 

 家康は徳川軍三万と吉川ら二万を引き連れ上田城に入った。

 上杉景勝の押さえであるが、家康はただ働きなどする気はない。

 北信濃の更科、埴科、水内、高井の四郡をこの機に乗じ攻め獲るつもりでいたのだ。

 

 山陰道は前田利家ら北国勢四万。

 後軍として浅野長政ら美濃、尾張衆三万が充てられた。

 山陽道は細川忠興、池田輝政、宇喜多秀家ら五万を先鋒隊とし豊臣秀次ら畿内衆五万が続いた。


 瀬戸海道は九鬼嘉隆が瀬戸の水軍一万を掻き集め、伊予に集結した長曾我部元親、蜂須賀家政、福島正則ら三万の四国衆と連携し対岸の毛利領を睨んだ。


 九州は、筑前、筑後を領する小早川秀包に対し黒田長政、加藤清正、鍋島直茂、有馬晴信ら五万。

 後軍として島津義久、立花宗茂の三万が充てられた。

 実に三十万を超える軍勢が四方より安芸を目指し、雲霞のごとく攻め入ったのである。


 いくさは凄惨を極めた。

 秀吉の命により降伏を許さないのだ。

 降伏した兵士たちは足軽など下級の者以外は許されず首を刎ねられた。

 覚悟を決め立て籠もる毛利方の城を豊臣軍は力で攻めに攻めた。


 躊躇など一斉ない。

 どんなに死傷者が出ようと、お構いなしだ。

 数百の城が灰燼と化し数万の将が首級と成り果てた。

 豊臣方の将兵も交戦で何千と斃れている。

 減った兵は後軍から補充する。

 豊臣軍の進軍は止まらない。


 秀吉は大坂城から一歩も出ていない。

 うず高く重なる首桶と首取状を眺め笑っていた。

 

 首桶より腐敗肉汁が滲みだしている。

 毎日のように届けられる敵将の首。首。首。

 殺生関白 ── 

 人々は秀吉をそう呼ぶようになった。


 逆らうものは焼き尽くし殺し尽くす。

 亡き主人第六天魔王と呼ばれた信長を超える存在となり得たのだ。

 秀吉に後悔など有ろうはずがない。


 四国衆の軍監を命じた安国寺恵瓊が戦場を離脱し、伊予より大阪に来た。

 豊臣軍の侵攻は安芸、長門、周防、筑前の一部を残すのみとなっている。

 筑前の一部とは小早川秀包が籠る名島城で、それも黒田長政ら九州勢が囲んでいた。


 恵瓊は毛利輝元の降伏状を携えていた。

 旧主の頼みを断われなかったのだ。


「虫のいい話だな。今更和睦などと。降伏など許さぬ」

 差し出された書状を恵瓊の前に放り投げた。

 恵瓊は畳に額を擦りつけるほど平伏した。

 秀吉の怒りが己に向いてはたまったものではない。


 秀吉は近習に命じ折敷に乗せた手紙を恵瓊の前に置かせた。

 読めというのである。

 手紙は四通。全て毛利輝元が発したものだ。

 

 恵瓊は真っ青になった。

 どれもこれも小田原北条に援軍を請うものだった。

 輝元は恵瓊に和睦斡旋を頼みながら、北条に大阪の攻撃を哀願していたのだ。


「密使を捕らえたと送られて来たものだ。惨めなものだな。何の繋がりもない北条に縋りつきおった」

「して、北条は動きまするか?」

 用心深い輝元のことだ、密使は複数送っているはずだ。

「恵瓊、予が右府様を真似たのは、いくさだけと思うか? 北条、いや新皇様は来ない」

 秀吉がにやりと笑った。

「恵瓊。四国衆を渡海させ広島を攻めよ。九鬼ら水軍は博多だ。よいな」

「はっ、それは・・・・」

 恵瓊は言葉に詰まった。

 毛利を根絶やしにする。秀吉の命が下ったのだ


 戦いは三カ月続いた。

 九鬼水軍参戦により名島城は落ち小早川秀包は自刃した。

 輝元は四国衆の攻撃に広島城を捨て、山城の吉田郡山城に籠った。

 援軍のない籠城である。

 

 秀吉軍は毛利領を蹂躙し吉田郡山城を十重二十重と囲んだ。

 その数三十万、蟻の這い出る隙間もない。

 毛利輝元は城に火をかけ家臣二千人とともに自刃して果てた。

 

 一方、東の徳川家康は、吉川広家ら中国勢を引き連れ信濃に侵攻。

 深志城に吉川ら中国勢を留め、自らは上田に入り北信濃の攻略に取り掛かった。

 海津城を預かる須田満親は徳川の侵攻に援軍を要請した。


 景勝は本庄繁長、色部長実ら二万を海津城、尼飾城、鞍骨城に派遣し自らは、直江兼続ら一万二千を率い飯山城入り本陣とした。

 数の上では徳川軍が勝っている。

 しかし、どうにも援軍の吉川らがやる気無い。


 迂闊には手を出せなくなった。

 これは景勝も同じで両軍は対峙した。

 膠着状態を打ち破ったのは、やる気のない吉川広家ら深志城の中国勢だった。

 広家は広島城の落城を知ると軍勢を率い遮二無二、倉骨城に攻込んだ。

 広家らは犠牲などかえりみず攻めに攻め、倉骨城どころか押さえの天城城まで落としてしまった。

 実に中国勢の半数が死傷した。

 

 それでも広家は海津城攻撃に軍を向けた。

 家康も海津城に兵を進めると、途中で軍を二手に分け松平伊豆守に二万を与え尼飾城を攻撃させた。

 海津城は家康本隊の一万と広家率いる中国勢八千が包囲した。


 飯山城の景勝は動けなかった。

 細作の報で毛利の滅亡は近いことを知ったのだ。

 関白秀吉は毛利輝元の降伏を許さなかった。

 ここで徳川を打ち破ったところで上杉は毛利と同じ運命を辿る。


 景勝は秀吉に詫びを入れ武家の意地をかなぐり捨て秀吉に縋った。


 秀吉からの答えは、佐渡、信濃四郡、越後一国を取り上げ出羽二郡の安堵であった。

 景勝は泣く泣く和議に応じた。


 家康の元にも仲裁の使者が来た。

 北信濃四郡を加増するという。

 秀吉に逆らう訳にはいかない。

 和睦を受けた。


 秀吉は毛利攻めの論功行賞を行い手に入れた領地を惜しげもなく配った。

 吉川広家に肥前半国、残りの半国を天野隆重、吉見広頼、益田元祥ら寝返った山陰、山陽の武将たち与えられた。

 倍以上加増である。


 加藤清正が伊予一国。

 毛利領は、福島正則が伯耆、出雲二国。

 秀次の弟秀勝に長門、秀保に周防が与えられ、ねねの兄、木下家定に安芸、その子勝俊に石見、俊房に備後が与えられた。

 豊臣の一門衆を国主に据えたのである。


 黒田官兵衛、長政には筑前、筑後、豊前の三国。豊後一国を鍋島直茂。日向一国に有馬晴信。肥後一国に立花宗茂。前田利家は若狭一国。

 細川、池田、島津、蜂須賀、長曾我部など毛利攻めに参陣した諸大名にも五万石以上を加増した。

 安国寺恵瓊にでさえ寺領の大和に十万石を与えたのだから、想像を超える恩賞だった。

 しかし、一門の浅野長政だけは尾張一国より越後一国に減転封となった。

 逆らう者は徹底的な粛正を与え、従う者には驚くほどの恩賞を与える。

 信長のやり方だった。

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