第8話 新皇平将大

 家康は岡崎城の広間にいた。

 眼は窪み、頬はコケ落ち病人のような有様だ。

 四カ月ぶりの帰城であるが喜びはない。

 岡崎城が豊臣軍に占領されていたからだ。

 

 開け放った窓から兵士たちの怒号や馬の嘶きが聞こえてくる。

 城内はおろか離れた在地にまで陣屋を張り、兵であふれているのだ。


(ちっ。さっさと退けばいいものを)

 我がもの顔で振る舞う豊臣軍に押さえきれず怒りが湧いてくる。

 しかし、今の状況で豊臣軍が大阪へ帰城することはない。

 それは家康も分かっていた。


 先に帰城した織田信雄が反旗を翻し、大阪に向かう豊臣軍の前を塞いでいるのだ。

 秀吉は岡崎から一歩も進んでいない。

 清州城の信雄と睨み合ったまま二十日も過ごしていたのだ。


(わしに北条との和議を取り持たせようとしているのか)

 家康は北条との和議により、己が領地五カ国のうち甲斐と駿河を差し出した。

 それに加え黄金五百枚を詫び金として北条に支払はなければならない。

 戦を仕掛けた迷惑賃なるこの金額は決して安いものではない。

 米にして二万石分の金額である。


 しかし、家康は条件を飲んだ。

 遠江、三河、信濃が安堵され、己が首も無用と言われれば、まずまずの和議である。

 あらぬ誤解をあたえないよう和議を秀吉に伝えている。

 秀吉は異を唱えなかった。

 

(所詮は他人事なのだ)

 家康は和議に応じ誓書を差し出すと、岡崎を目指し撤退した。

 北条は駿河の城に留まり追撃を止めた。


 己が犠牲になり秀吉を救ったようなものなのだ。

 新たな怒りが沸々と湧いて来る。


 廊下を踏み鳴らし秀吉が入ってきた。

 黒田官兵衛、大谷吉嗣が後に続いていた。

 秀吉は、平伏す家康に近づくなり、膝を折り頭を下げた。


「大納言殿。いかい苦労を掛けた。これも全てこの秀吉が招いたこと。詫びの次第もない」

 人たらしと言われる由縁であろう。いささか芝居掛かっている。

「お顔を御上げ下され。この家康とて北条の力を見誤っておりました。詫びねばならぬのは、身供のほうで御座います」

 家康は不満を微塵も見せず律義者を演じた。


「北条の和議の条件を承ろう」

 声を張り上げる秀吉に家康は心情をみた。

 立ち塞がる信雄より北条を恐れているのだ。

 北条の追撃が大阪まで続けば、己が領地に被害が及ぶ。

 岡崎が灰燼に帰すとも所詮は他人の領地なのだ。


 家康は秀吉の身勝手な物言いに怒りが抑えきれなかった。

「殿下への北条の条件は、ただ一つ。黄金十万枚の詫び金の要求のみ」

 大声となった。

「詫びとして金を払えと⁉ 十万枚か」

 秀吉にとっても黄金十万枚は大金だ。

 小田原征伐にかなりの費えを掛けているのだ。


 家康は北条から託された書状を手渡すと付け加えた。

「関東に手を出すべからず。手を出すというならば、全軍を上げ殲滅する所存。と、北条相模守が申しておりました」

 

 書状開き見入っている秀吉に、己が過去に言われた氏直の言葉を口に出した。

 小気味いい台詞だ。


「ところで、この新皇平将大とは誰じゃ? 相模守は知っとるが」

 家康の言葉など聞こえていない。

 秀吉は書状を見て首を傾げていた。


 脇に控えていた黒田官兵衛が血相を変え、にじり寄り書状を取り上げた。

「こ、これは⁉ 新皇などと朝廷に弓引く大罪人の名を騙るなど正気の沙汰ではない!」

 書状を突き出し、家康に詰め寄った。


「その様なこと、わしの知るところではない。新皇平将大。北条が主君と仰ぐ者だ。新皇の称号は朝廷より下賜されたといっておる」

 家康は軍師を気取るこの男を嫌厭していた。

 小田原敗戦の責は黒田官兵衛にあるとさえ思っていた。

 無意識に声が荒々しくなった。


「そのような馬鹿なことが。ありえぬ。天皇に取って代わる称号を宮中が下賜するなどあってたまるか」

「宮中に繋がりのあるそなたが知らぬことをわしが知ろう筈もない」

 近衛前久を篭絡し秀吉を関白に押し上げたのは官兵衛だ。

 家康の痛烈な皮肉に官兵衛が気色ばんだ。


「官兵衛控えろ。新皇なるものがどの様な位になるのか気にはなるが、大納言殿をせめたところで詮無きこと。大阪に戻り次第、近衛殿や菊亭殿に問いただせばよい。それより、北条はこの条件を飲めば追撃をやめるのじゃな」

 納得のいかない官兵衛を制し、秀吉が家康に聞いた。


「はっ。北条と信雄の間に盟約などありませぬ。和議となれば北条は駿河より動くことはありません」

「ならば、和議に応じる。官兵衛、吉嗣、出陣の仕度をしろ。信雄など蹴散らして帰るぞ」

 秀吉の決断は早い。

 二日後、豊臣軍は名古屋に向け出陣し、わずか一日で織田信雄を降伏させてしまった。

 信雄は高野山に蟄居を命ぜられ、所領は没収となった。

 

 秀吉が帰城して五日後、大阪湾に九鬼嘉隆率いる船団が、捕虜三千人を乗せ入港した。

 北条は和睦に応じた豊臣に対し、捕虜を解放しのだ。

 多くの大名が捕虜になっていたため、秀吉は浜まで出迎えた。


 堀尾、長谷川、九鬼ら捕虜になった大名は、秀吉の前で平伏し涙を浮かべ敗戦の弁を述べた。


「皆、苦労をかけた。辛かったであろう。やつれた身を見ればわかる。身体は大事ないか。病の者はおらんか。牢獄などでは碌に飯も食ってはいまい。辛かったであろう」

 秀吉は平伏す武将らに近づき手を取り、涙を浮かべ労った。


 しかし、秀吉の後ろに控える近習たちは、捕虜になっていた大名たちを見て首を捻った。

 血色も良くやつれた者など見当たらなかったからだ。

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