第2話 天正十八年。小田原城
天正十八年(1590年)六月二十六日 巳の刻(午前九時)
豊臣秀吉は、完成したばかりの石垣山城の天守いた。
石垣山城は小田原城の西南一里(約4キロ)に築いた総石垣の山城で、完成するまでに八十日が掛かっていた。
秀吉はその天守に淀や松の丸などの側室を招き入れ、茶を飲み歓談に興じていた。
開け放たれた天守は、湾からの吹き上げる風が心地良い。
「せっかくの天守なのに、こう木々があっては台無しでござりまするなぁ」
山の頂に築かれた城ではあるが、高い木々が天守を取り巻き視界を遮断している。
淀の言葉に、秀吉は小姓に顎を向け退出させた。
秀吉はこの言葉を待っていたのだ。
「それよ。面白きものをそなたらに見せてやる」
ゆるりと立ち上がり廻縁に出て手招きをした。
「良いか。よく見ていろ」
秀吉が扇を広げると眼前の木々が揺れ出し轟音を発して次々に倒れ、土煙の中に小田原城が現れた。
総構えといわれる町ごと土塁で取り囲んだ城は、五里四方はあろうか。
幾重にも濠と塀に囲まれている。
その広大な城を豊臣軍が外塀に沿いぐるりと取り囲んでいて、南に広がる海にさえ敷き詰めたように数百の軍船が浮かび、色取り取りの旌旗が埋め尽くしていた。
「すごい!」
松の丸が驚嘆の声を上げた。
たしかに圧巻の光景である。
興奮する松の丸をよそに淀は冷めていた。
小田原城は、広大であり堅固に見える。百年間一度も落城していないのだという。
上杉謙信も武田信玄も退けた城だ。
それがどうだ。
十五万の兵で囲まれ鉄砲を撃ち込まれても城に閉じこもり打って出ることもしない。
わずか一里の眼前に総石垣の城郭まで造られている始末である。
淀は二度落城の憂き目にあっている。
いずれも敵は、この秀吉だった。
城の兵士は傷つきながらも何度も、何度も打って出て、力尽きるまで戦って死んだ。
幼きころより武士とはそういうものだと思っていた。
しかし、北条は違う。三ケ月もの間に支城を全て落とされ、丸裸の本城に籠ったまま抗うことを諦めているのだ。
支城で戦った北条の兵士が憐れにさえ思える。
「それ! 北条の間抜け面をこちらに向けさせるのじゃ」
秀吉が、扇を小田原城に向けあおいだ。
麓より数千丁の鉄砲の轟音が響き渡り、突き上げる様な鯨波がおこった。
「見たか‼」
秀吉は小田原城を睨み吐き捨てるようにいった。
淀達に向けられた言葉ではない。
圧倒的な実力の差を敵はおろか味方まで見せつけ、吐いた言葉である。
「どうじゃ、面白かったか」
振り向いた秀吉が淀に聞いた。得意絶頂の笑顔である。
口籠る淀の横で、松の丸が声をあげた。
「ああ、きれい。あれも殿下がやらせているのですか?」
小田原城の上空に赤、緑、白、三色の筋が瞬く間に上空に昇り、風に吹かれ広がっている。
見たことがない色鮮やかな狼煙だ。
秀吉は欄干を握り絞め食い入るように小田原城を凝視している。
麓に陣取る味方よりざわめきが起こった。
固く閉ざされていた小田原城の城門より兵が出てきたのだ。
みるみるうちに城門前を赤と黄の背旗で染上げていく。
「五色の備え⁉」
秀吉が呻いた。
北条は、全軍を五つにわけ、それぞれが赤、青、黄、白、黒の指物を差し、五色の備えと称している。
大阪から秀吉に呼ばれて一か月、初めて見る小田原の軍勢であった。
死を覚悟で打ってでるのか?
淀は、得体の知れぬ胸騒ぎを感じた。
「どえりゃ面白くなってきた。おみゃあさぁらは、ここにいてちょ」
秀吉は、言うや否や、天守を駆け降りていった。
家康は、鉄砲の一斉射撃を己が本陣で聞いた。
数千丁の鉄砲の発射音が山々に響き渡っている。
家康は二万の兵で小田原城の北の渋取口に陣を張り北条と対峙していた。
石垣城から見れば小田原城を挟んだ対面に位置し、六里(約二十四キロ)も離れていた。
西に織田信雄が陣を張っているものの小田原城より四里(十六キロ)も離れていて、小田原城の北面に陣を張るのは徳川軍だけであった。
「芝居がかったことを」
眉を寄せ、山頂の城を見た。
わざわざ城の完成まで山の木々を遮蔽にし、忽然と現れた一夜城を演出している。
その城も簡易なものではない。
数十万の人足を使い総石垣で、天守、二の丸まで備えた堅牢な城だ。
「終わりましたな」
脇に控える松平伊豆守が呟いた。
城を十五万の兵で囲まれ、海上にも数百の軍船で封鎖している。
あまつさえ、わずか一里の喉元に堅固な城を築かれては、北条には降伏以外の道はない。
味方の兵の多くが戦の終わりを感じていた。
(逆らえないのだ。あの男には誰も勝てぬ)
家康は、北条氏直に娘を嫁がせ、縁故を結んでいる。
何度も使者を送り、豊臣への臣下を説いてきた。
説得の甲斐もあり一度は、氏直の叔父である北条氏規が上洛し、氏政、氏直親子の参内を取り付けたが、反故にされた。
北条と真田との領土争いでも、家康は弁明のための上洛を氏直に勧めた。
しかし、氏直の返答は、無下ないものであった。
「我らの主君はただ一人。関東は我らのもの。誰にも手出しはさせぬ。関白だろうと従うつもりはない」
即座に上洛を拒否したという。
使者は匙を投げ帰ってきた。
家康は、最後の使者として、京より北条縁故の僧侶を送った。
僧侶は家康の意を汲み粘り強く説得したが、氏直が折れることは無かった。
僧 侶は、去り際言付けを頼まれた。
「舅殿は国替えとなっても、逆らわず従うのか」
僧侶は思わず聞き返した。
仲裁を断わる詫びでもなければ、感謝の言葉でもない。
氏直の意図が解らなかったのだ。
「国替え? どこに国替えになるというのですか?」
うろたえる僧侶に向かい氏直は、微笑みながらいった。
「北条なきあとの関東だ」
これを聞いて家康は唸った。
北条は、関白秀吉に敵対してまで、尽くす主君がいて関東を他者には渡すことはおろか踏み入ることさえ許さぬ意思を持っている。
たとえ北条が滅亡しようと秀吉に抗うつもりなのだ。
北条は、関東への執着が異常と思えるほど強い。
しかも、これは氏直だけではない。北条家五代の当主全員が、関東制覇に血道を上げているが、不思議なことに関東以外は全く興味を示していないのだ。
家康は、氏直の言付けは国替えにより関東を失う屈辱を訴えたものであると受け取った。
己の代で領地を失う屈辱を貴公は、耐えられるのかと。
その氏直の言付けが現実のものになったのは十日前のことだった。
石垣山で関白秀吉より遠江、三河、駿河、信濃、甲斐の五か国から関東五か国への国替えを告げられたのだ。打診ではない命令であった。
まさに北条なきあとの関東に、である。
石高こそ大幅に上がるが、苦心し従わせた領地五か国を取りあげ、北条の旧領五か国に封じ込めようというのだ。
血を流し得た領地の国替えに、家臣達の反対は凄まじいものがあった。
しかし、家康を国替え受けた。
秀吉に逆らうことなど出来なかったのだ。
(本当にこのまま降伏してしまうのか?)
三ケ月の間、北条は城を閉ざし引き籠ったまま、一戦もしていない。
氏直の決意は何であったのか。
豊臣軍に囲まれた城内では重臣たちを集め評定ばかり行っていて、抗戦すら決まらぬ有様らしい。
豊臣の兵は、北条の未練がましい様を小田原評定と揶揄している。
国替えの屈辱など比べ物にならないほど、北条の名を落としめていた。
(城を囲む十五万の兵も石垣の城も、このわしさえ、あの男は、自分の威勢を示すための見せしめなのだ。屈辱であろうと受け入れねば、家は保てぬ)
深いため息を吐いたとき、近習が異変を報せた。
あわてて陣幕をでた家康は、小田原城の上空に三色の煙が立ち昇るのを見た。
「小田原城より打ち上げたもののようです。敵の動きも慌ただしく、何かしらの合図と思われまする」
待ち構えていた大久保忠世が、近寄り告げた。
土塁の狭間より兵が移動している様が見て取れる。
門は閉ざしたままだが、塀に沿い数千の兵士の動きが慌ただしい。
(やる気か?)
大土塁の上に築かれた塀に旌旗が掲げられ波のように伸びていくと、狭間で兵士が鉄砲を突き出し射撃の態勢をとっている。
(急増の反撃ではない⁉ 城の完成を待っていたのか? まさか)
家康の脳裏に、氏直の言葉が浮かんだ。
「関東は我らのもの。誰にも手出しはさせぬ」
家康は意を決し、井伊直正、榊原康政、本多忠勝、奥平正信の軍勢に攻撃を命じた。
先手四隊と呼ばれる徳川最強の軍団が土塁めがけて押し出した。
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