鎖の海③
波の音は絶え間なく続き、夜の帳は深まるばかりであった。佐伯の手の中で鎖は静かに鳴り、その冷たさが彼の皮膚を通して骨の奥へと沁み込んでゆく。隅田は微動だにせず、ただ佐伯の顔を見つめていた。その瞳には嘲弄の色はなかった。ただひたすらに、何かを試すような、あるいは見届ける者の目をしていた。
「抱きしめるか、断ち切るか……」
佐伯は、ゆっくりと呟いた。その声はまるで、彼自身の心の奥深くに問いかけるようであった。
隅田はわずかに笑い、その場にしゃがみ込んだ。そして指先で砂を掬い、それを潮風に散らした。細かな粒子が夜の闇に溶け、消えていく。
「鎖を求めるのは、人間の本能だ」
隅田の声は低く、静かであった。
「自由を手にした者ほど、むしろ何かに縛られることを望む。そうでなければ、自分がどこにいるのかさえ分からなくなるからな」
佐伯は黙って海を見つめていた。果てしない水の広がりは、彼にとって一種の誘惑でもあった。すべてを手放し、ただ波の一部となって漂うことができたなら、それは一つの解放であり、同時に帰還でもあるのかもしれない。
「お前はどうなんだ?」
佐伯はゆっくりと顔を上げた。
隅田の表情は変わらなかった。ただ、彼の指先がわずかに動き、鎖の一部を拾い上げた。その仕草はまるで、それを確かめるようであり、あるいは儀式めいてさえいた。
「俺か?」
隅田は微笑を浮かべた。
「俺はもう、選び終えた」
その瞬間、佐伯は気づいた。
隅田の手首には、古い傷跡があった。まるで何かを断ち切ろうとした痕のような、薄く、しかし確かに刻まれた白い線。
佐伯は、再び鎖を握りしめた。
「選び終えた、か」
彼の唇に、微かな笑みが浮かんだ。その笑みは、潮風に吹かれながら、次第に形を変えていった。
そして彼は、ゆっくりと鎖を手放した。
鉄の音が夜の海に響き、鎖はするすると波に引かれていった。それはまるで、生き物のように闇の奥へと溶けていった。
佐伯は立ち上がり、隅田を見つめた。
「さて、そろそろ戻るとするか」
隅田は微笑を浮かべ、静かに立ち上がった。
海は何も語らなかった。ただ、波が果てしなく寄せては引いていた。
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