鎖の海②

 佐伯の指先が鎖の冷たい鉄に触れると、まるで過去の記憶がその金属の奥から立ち上がってくるかのようであった。錆びついた輪の一つ一つが、潮風に晒されながらも未だしぶとくそこに在り続けている。その感触を確かめるように、彼はゆっくりと指を這わせた。

 波が寄せ、そして引いた。月の光がさざ波に反射し、無数の銀の刃となって水面に躍った。海はすべてを抱擁する母であると同時に、無慈悲な審判者でもある。幾多の命を飲み込み、記憶を洗い流し、時には名すら残さず葬り去る。

 その時、背後で砂が擦れる音がした。

 「お前は、あの男と同じことをするつもりか?」

 低い声が佐伯の耳朶を打ち、彼はゆっくりと振り返った。そこには隅田が立っていた。風に揺れるコートの裾、薄く笑った唇、そして闇の中でわずかに光を孕む瞳。その佇まいは、まるで佐伯の行動を見届けるためにそこに現れた使者のようであった。

 「……さあな」

 佐伯はそう言いながら、鎖を手に取ったまま海を見つめ続けた。その向こうには果てしない暗黒が広がっている。もし今、歩みを進めれば、この世界の重力から解放されるのかもしれない。名もなく、記憶もなく、ただ水の一部として沈みゆく。

 「人間は鎖を求めるものだと言ったな」

 佐伯は静かに言った。

 「だが、誰かに繋がれる鎖と、自ら巻きつける鎖とでは意味が違う」

 隅田は微かに笑った。

 「お前はまだ分かっていない」

 そして、一歩踏み出した。

 佐伯の目の前で、隅田の足が砂を蹴り、彼の手が伸びたかと思うと、次の瞬間、鎖が鋭く引かれた。佐伯の腕に巻きついた鎖が、不意に強く締まる。その感触は、まるで意思を持った生物のように冷たく、確かな重みを伴っていた。

 「選べ。お前はこの鎖を断ち切るのか、それとも抱きしめるのか」

 隅田の声は穏やかであった。だが、それは酷薄な響きを孕んでいた。

 佐伯は息を呑み、そしてゆっくりと目を閉じた。彼の脳裏には、これまで生きてきた日々の影が、滲んでは消えていった。自由とは何か。鎖とは何か。そして、人間は果たして、どこまで孤独に耐えられるものなのか。

 次に目を開いた時、佐伯の唇にはかすかな微笑が浮かんでいた。彼の手は、なおも鎖を握りしめていた。

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