鎖の海

風連寺ゆあ

鎖の海①

 朝の光が鉄のごとく鋭く差し込み、卓上の白磁の茶碗を青ざめさせていた。窓の外には灰色の海が広がり、波頭が風に千切られては砕ける。その果てに、朽ちかけた防波堤がわずかに首をもたげ、過ぎ去った時間の記憶を語るかのように無言であった。

 佐伯は、その防波堤の先に目を凝らしていた。彼の手は漆黒の煙草を細く挟み、紫煙がゆるやかに天井へと昇ってゆく。室内には木製の柱が並び、その古びた質感が彼の心の奥に横たわる沈滞を映し出しているようであった。

 「お前は、あの鎖が何のためにあるのか知っているか?」

 不意に発せられた低い声が、隅田の口から滑り出た。隅田は海を背にして立ち、かすかに笑っていた。長い指が盃を転がし、その動きにはある種の官能が滲んでいた。

 「鎖?」

 佐伯は煙を吐きながら眉を寄せた。

 「ああ、あの錆びついた鎖だよ。防波堤の端に絡みついている。まるで海に縛られた亡者の手のようにな」

 佐伯は再び窓の外を見やった。鎖は波に洗われながら、なおもしがみつくように揺れていた。その錆びた赤色は、かつて血潮が滲んだ証であるかのように、不吉な輝きを孕んでいた。

 「五年前、この町にいた一人の男が、あの鎖に繋がれたまま海に沈んだ」

 隅田はそう言うと、酒をひとくち飲んだ。彼の喉仏がゆるやかに動き、盃の中の液体が揺れた。

 「殺されたのか?」

 佐伯の声には、わずかな興奮が混じっていた。

 「さあな。ただ、彼は自らその鎖を選んだのかもしれん」

 「自ら?」

 隅田はゆっくりと笑った。彼の黒目がちの瞳が、佐伯をじっと見つめた。その視線には、何かを試すような意図があった。

 「人間には、時に鎖が必要なのさ。自由は美しいが、同時に残酷でもある。お前も、そうは思わないか?」

 佐伯は答えなかった。ただ、彼の指先が煙草をつまみ、白い灰が静かに落ちた。

 その夜、佐伯は海岸に立っていた。潮の匂いが喉を刺し、波の音が絶え間なく響く。彼の足元には、あの鎖があった。手を伸ばせば、それは容易く彼の腕に巻きつくだろう。

 暗い水面の向こうに、何かが彼を呼んでいる気がした。

 佐伯はそっと、鎖に手をかけた。

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