箱入り官女の憂鬱

野守

第1話

 背中越しに夫婦喧嘩が始まった。

「だっから、それは違うって言ってんでしょうが!」

「んなもん、誰が決めたんだよ!」

せっかくウトウトしていた私の眠気は吹っ飛び、仕方がないので隣の先輩に声をかける。

「今度は何の喧嘩ですか」

「食べ物縛りでしりとりしてたんだけど、旦那様が『ほおずき』って言って、奥様が『それは食べ物じゃない』って異議申し立てて、旦那様が『食用も存在するんだ』って反論中。以上」

「ふうん」

思った以上にくだらない話だった。でもそれを言わなかったのは、喧嘩中の二人が仮にも身分の高い貴人であり、同時に私の雇い主だからだ。うっかり聞こえて怒りの矛先を押し付けられたら面倒なことになる。

「一から十まで言わないと分からないわけ? これだから男は。一般常識内で考えなさいよ!」

「自分の常識を一般常識だと思うなよ? これだから女は。知識が追い付かなかったって潔く認めたらどうだ!」

前時代的な罵り合いが聞こえる。現代人が聞いたらドン引きだろう。

「コンプラ違反ですね」

「どっちもね」

そもそも私たちは古風な設定で造られた人形なのだから、時代に追い付く必要も無いのだけれど、世界観が変わらないのに知識だけがアップグレードされてしまうのは、ふすまの向こうから人間の話し声やテレビの音が聞こえてくるからだ。

「まあ、この時期は特に機嫌悪いですよね」

「今年も日の目を見ないって現実が襲い掛かるからね」

どこかの部屋のテレビから、桃の節句の伝統を解説する声がうっすらと聞こえた。


 この家に私たち一式が迎えられたのは二十年以上前、長女の誕生に際して購入された雛人形セットである。優雅で凛々しい男雛の旦那様に、たおやかで麗しい女雛の奥様。その下の段に侍るのが私たち三名のエリート官女で、さらに下段には五名の楽師がいたはずだ。もう長らく姿を見ていない彼らは無事だろうか。

 

 隣の先輩がため息をついた。三方さんぽうと呼ばれている彼女は三人官女のリーダー役で、一人だけ座った姿をしているのが特徴だ。私たちに個別の名前は無いため、各々の持ち物を呼び名としている。

「ねえ提子ひさげ、結婚なんかしない方が良いわよ」

「ちょ、それ今言います?」

「他にいつ言うのよ」

三方さんぽう先輩は既婚者という設定が付けられているので、彼女にだけ眉がない。それでも眉に当たる部分に思いっきり皺を寄せているのが見なくても分かった。

「でも私たち、元はと言えば、女性の幸せな結婚を願うための人形なわけで」

「だからこそ腹立つの。まったく、麻衣子も何で嫁に行っちゃうかな」

「嫁に行かせるのが私たちの存在意義ですどね」

気づいたら後ろの夫婦喧嘩は終わっていた。双方疲れたらしい。


 ずっと前に自立した長女の麻衣子は数年前に結婚した。相手の男が家にやってきて、私たちが仕舞われている押し入れのある部屋、まさにこのふすま一枚を隔てた向こうで「娘さんを下さい」的なやりとりをしていたのだ。私たち一同が久々に色めき立ったイベントだった。

 麻衣子だけではない、すくすくと育った子供たちは皆が家を出て行き、親世代だけになった家で雛人形が飾られなくなってずいぶん経つ。もともと年に一度しかなかった私たちの仕事は完全にゼロとなり、別の箱に収められた五人囃子の顔も長らく見ていない。さすがに捨てられてはないと思うが、白い顔にカビでも生やしていないか心配だ。


 三方さんぽう先輩の向こうで呑気な欠伸が聞こえた。もう一人の官女、後輩の長柄ながえである。

「変な夢見ましたぁ」

さらに気の抜ける大欠伸。後ろに高貴なご夫婦がいることなど気にしないらしい。

「最近、なきごえ聞こえるじゃないですかぁ」

「どっちの話?」

このごろ家の中で聞こえるのは泣き声と鳴き声。前者は赤子で後者は犬だ。たぶん、そこそこ大きい犬種。

「犬の方です。ふすまを破って突入してきて、私たちの箱に頭を突っ込んでもぐもぐしてる夢でしたぁ。後ろ姿だったから何してるのかハッキリしないんですけどね。夫婦喧嘩を犬が食う、なんちゃって」

「ちょっと、やめてよ! あんたが言うと怖い」

三方先輩が身震いする。

 長柄ながえはどうも不思議ちゃん体質な節があり、正夢らしきものをよく見る。家族の誰かが喧嘩する夢を見た、と話していた翌日にその通りの声が聞こえてきたり、こんな人が来る夢を見た、と言った直後に来客があったり。良い内容なら構わないが、悪い内容なら言わないで欲しいというのが正直な感想だ。

「いやほら、悪夢って人に話しちゃった方が良いって言うじゃないですかぁ」

「サンドバッグにしないで!」

三方さんぽう先輩は意外と怖がりなのだった。

 私たちの背後では再び口論が始まっていた。始まりをよく聞いていなかったが、どうやら夫君が妻の髪のほつれを指摘したらしい。私たちはヒソヒソと囁き合うしかない。

「しょうがないのよね、年代物だから」

「見ないふりするのが賢明ですよね」

「そういえばぁ、先輩方の着物の裾にもシミがぁ……」

「言うんじゃありません!」

麻衣子が幼少の頃によだれを垂らした名残である。着替えられないから仕方ないのだ。


 人目を気にしない時間が長く続いた結果、私たちからは大切な何かが失われた。優雅で凛々しかった旦那様は教養を披露したがる面倒臭い亭主になり、たおやかで麗しかった奥様はひたすら夫が鬱陶しい主婦と化した。

 その気持ちが分からなくは無いのだ。だって私たちは、とにかく、とにかく、暇なのである。アニメ映画のおもちゃたちみたいに動けたら良いのだが、あいにく私たちは動くこともできない。綺麗に収められた箱の中で喋るだけ。時間を潰すための催しは連歌会から始まり、百物語、禅問答、アカペラ大会、漫才披露会、人狼ゲーム、などなどを片っ端から消費しつくした。しりとりなんて、もう何千回目だろうか。

「何か新しい遊びを企画しないと」

三方さんぽう先輩が見えない眉を寄せる。

「そういえば、テレビでマーダーミステリーっていうのやってましたよぉ」

「却下。前に人狼ゲーム三連発やったとき、終わってもしばらく疑心暗鬼になってたじゃない」

「あはは、ありましたねぇ」

その時だった。


がたん。大きく箱が揺らされた。


 一瞬にして静かになった箱の中で、私たちは何が起こったのかを必死に考える。その間にも衝撃が二度、三度。ごくたまに誰かが探し物をするときの感覚に似ていたが、手で抱えて運ばれるような優しい揺れではない。何かが適当に箱の側面を叩いているとでも言えば良いのか。


「ばうっ」

変な声と共に大きな衝撃が走り、ついに箱が横向きに倒された。蓋が外れて私たちは外に転がり出る。久しぶりの明るさに目が眩んだ。無理やり薄目を開けた視界に入り込んだのは、大きくて毛むくじゃらの顔につぶらな瞳の……犬?

「ちょっとレオ、何いたずらしてるの!」

ようやく人間が部屋に飛び込んでくる。部屋の惨状に目を見張り、犬にお座りをさせてから、一番入り口に近かった私を拾い上げた。

「嘘でしょレオ、自力で押し入れ開けたの? 隙間から顔つっこんで」

それが麻衣子だと判別するのに少しだけ時間を要した。記憶の中で素朴な制服姿だった少女は今、長かった髪をバッサリ切って、こなれた化粧を施した大人の女性の顔で、懐かし気に私たちと箱をのぞき込んでいた。

「どうしたの」

後ろからもう一人の声がかかる。

「これ、うちのお雛様。昔はお婆ちゃんに『飾ってあげないとお雛様が泣いちゃうのよ』なんて言われて、せっせと飾ってたなぁ。今考えると湿気対策みたいな話だったのかな」

「ええ? もうちょっとロマンをさぁ」

のんびりした男性の声だった。この声は私たちも知っている。

「せっかくだし、飾ってみる?」

「ちょうど女の子だったしな」

返事をするように泣き出したのは、麻衣子の後ろで夫に抱かれた赤子だった。どうやら久しぶりの仕事が始まるらしい。


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