第三章 「鉄の陰謀」  第一話

アリンカの街は、変わりつつあった。

通りを歩けば、かつて悪徳商人たちが牛耳っていた店の跡地には、まるで傷口を塞ぐように新たな店が入り込んでいた。古びた看板が外され、真新しい文字が刻まれた板が掲げられる。アリンカは確実にその息吹を取り戻しつつあった。

「あ!あなたもしや?」

振り向くと、そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。痩せてはいるが、顔の陰りは消え、肩の力が抜けている。その隣には、薄汚れた路地裏でパンの欠片をかじっていた少女がいた。今は清潔なエプロンをつけ、誇らしげにレイジを見上げていた。

「…あんたあのときの!?」

レイジは思わず口にする。

「ええ、あの時の礼を言いたくてね」

店の看板は新しいが、建物自体は古い。しかし、確かな温もりがあった。かつて悪徳商人が食い荒らした跡に、その家族は居抜きの形で店を再建したのだ。

「ここでレストランをやってるんだ。よかったら食べていってくれ」

男の瞳には、あの時の怯えはなかった。彼はこの街で、もう一度生き直そうとしている。

「どうか家の料理を食べていってくれ。」

そう言って店の奥にレイジを促した。

「ありがたい。」

「できればうちの料理の評判も広めてくれると嬉しいですね。」

店主のジョークが飛んだ。それこの一家の復活の宣言に思えた。

テーブルに着くと、香ばしい香りが鼻をくすぐった。あの奥さんが持ってきた焼き立てのパンの表面には、薄く金色の焦げ目が走り、スープの中にはハーブが揺れている。店主の秘伝のレシピというマカロニキャセロールは非常に香ばしく良い香りがした。味ももはや天国のようだった。


旨味が染み渡っている。

レイジはナイフを置き、ふと満足げに息を吐いた。セシリアも目を輝かせながら、「ほんとに!」と頷く。

そんな穏やかな空気を引き裂くように、店の扉が乱暴に開いた。

「おい!店主! 俺に一番のおすすめを出せ!」

店内の空気がわずかに凍った。レイジは視線を向けた。

そこに立っていたのは、洒落たベルベットのジャケットに、無駄に装飾の多い金のチェーンをぶら下げた若者だった。端正な顔立ちではあるが、どこか傲慢さを隠そうともしない。まるで街全体が自分の庭であるかのような態度だった。

しばらくして、香ばしい肉料理が運ばれてくる。青年は、銀のフォークを軽く指で弾きながら、それを一瞥した。そして、ナイフを入れ、一口だけ食べる。

次の瞬間

「……いまいちだな!」

言い放った。

「悪くはねぇが、うちの料理人の方が上だぜ!」

ルナールは鼻で笑いながら、コインを数枚、卓上に放り投げた。

「釣りはいらねえよ!」

そして、何の躊躇いもなく踵を返し、店を出て行く。店内に、何とも言えない沈黙が落ちた。

セシリアは眉をひそめ、「なんなの、あの人……」と呟く。

「名門貴族の御曹司ですよ」

店主が苦笑しながら説明した。

「ルナール・ド・ヴェルサリエ。この街の剣士の名門、ヴェルサリエ家のご子息です。剣の腕は立つみたいですが、性格は……まあ、ご覧の通りで…。」

レイジはコインの転がる卓を見ながら、「つまり、ただのドラ息子ってことか?」と聞き返す。店主は肩をすくめた。

「ああ見えて暴力を振るったり、恫喝したりはしないんです。むしろ金払いはいい。だから誰も強くは出られない。ゴロツキ以上に始末が悪いですよ」

レイジは小さく息を吐いた。

「なるほどな……」

この街の秩序が戻りつつあるとはいえ、貴族の子息はやはり別格の存在だった。厄介な人間だ。


プラザは午前の陽光に包まれ、長閑な喧騒が広がっていた。広場の中央では楽士たちが軽快な旋律を奏で、その音に誘われるように、人々が集まっていた。商人たちは露店を並べ、焼きたてのパンや甘い果実を並べている。

レイジとセシリアは、そんな賑やかな通りを抜け、広場を見渡した。その時、視界の端に映ったものが、彼の足を止めさせた。一人の老婆が、今にも倒れそうなほど細い腕で杖をつきながら、ベンチに手を伸ばしていた。しかし、その瞬間、目の前に影が降り立った。

「おっと、ここは俺の席だぜ」

ルナール・ド・ヴェルサリエだ。

金のチェーンをぶら下げ、無駄に刺繍の入った衣服を身に纏い、彼はベンチの中央にどっかと腰を下ろした。

老婆は一瞬、困惑した表情を浮かべたが、ルナールはあくまで無頓着に足を組み、腕を広げ、プラザの中心でふんぞり返る。そこにいたのはまさに「若き暴君」だった。

「おい」

レイジは歩み寄り、低い声で呼びかけた。ルナールは面倒くさそうに片目を開ける。

「ああ? なんだお前……って、おっと」

その目が、レイジの顔を認識した瞬間、彼の表情が微妙に変わった。

「お前…例の英雄様だな??」一瞬の間。そして、ルナールは肩を揺らして笑い始めた。

ルナールは、まるで場末の芝居を見ているような目でレイジを見つめる。

「何しに来たんだ? 貧乏人どもの王様が、俺に説教でもしに来たってか?」

レイジはルナールの横に立ち、ベンチの木目を指先で軽くなぞった。

「……その席、元々あの婆さんが座ろうとしてたんだが?」

ルナールは肩をすくめ、大げさに嘆息する。

「そりゃ悪かったな。でもお前さんは俺に偉そうな口叩けるほどえらいのか?」

「……?」

「つまりこういうことさ」

ルナールは指で広場を指し示した。

「お前の告発がなけりゃ、ドルヴァンのヤツは未だにのさばってただろうし、市長だって首を垂れたままだっただろう。……けどよ、それって俺にだってできたことなんだぜ?」

ルナールはベンチの背にのけぞり、腕を広げた。

「俺だってな、俺のダチを使ってあのぐらいの事はできたさ。けど、運悪く証拠が手に入らなかった。それだけの話だ。乱入だって俺のほうがかっこよく派手にできたさ。」

彼は愉快そうに笑った。

「つまり、お前はただ運が良かっただけだ」

レイジは、ルナールの言葉を聞きながら、何も言わなかった。言う必要もないように思えた。


「ふざけないでよ!!」

セシリアの声が、広場に響いた。

レイジの横にいた彼女は、拳を握りしめ、今にもルナールに飛びかかりそうな勢いだった。

「あなたみたいな人より、レイジ様の方が強いに決まってるわ!」

その瞳は真剣だった。彼女は怒っていた。ただの怒りではない。信頼する人間を嘲笑されたことへの純粋な憤りだった。ルナールは一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに嘲笑の色を浮かべた。

「へぇ……なるほどね」

彼はベンチからゆっくりと立ち上がり、セシリアを見下ろした。

「救世主様の女にしちゃ随分格下だな?」

セシリアの眉がぴくりと動く。

「悪いな、お嬢ちゃん。けど、学もなけりゃセンスもない田舎モンが、いきがるのはちょっと見てられないぜ。」

ルナールはニヤリと笑った。

「田舎の土臭い芋女が、都会で気取ってるのを見ると、さすがにな。救世主様もこんなのとはさっさと別れてもっといい女と付き合えよ?俺が紹介しようか?」

その瞬間だった。

セシリアの顔が、真っ赤になった。震える唇、強張る肩。そして、大粒の涙が、彼女の頬を伝った。

「……泣くなよ」

レイジは静かに言った。しかし、その声の奥には冷たい怒りが滲んでいた。彼はゆっくりとルナールに向き直る。

「なるほどな」

ルナールはまだ、余裕の笑みを浮かべていた。

「何か言いたいことがあるなら、はっきり言えよ。救世主様」

レイジは軽く首を鳴らした。

「お前は、ただの世間知らずのバカだ。」

ルナールの笑顔が、すっと消えた。

「何?」

「剣士の名門のドラ息子。家柄だけで生きてるだけの、浅い人間ってことだよ。」

ルナールのこめかみがぴくりと動いた。

「ほう……」

「剣士としての誇りもない、知性もない、ただ"親の七光り"にすがるだけの凡百のバカが、俺に説教するなよ」

レイジは嘲笑うように言い放った。

「貴族の名に胡坐をかいて、剣の腕も中途半端。そんな奴が、何を語るってんだ?」

一瞬、沈黙が落ちる。

広場に吹く風の音すら、遠く感じられた。ルナールの拳が、固く握られるのが見えた。

「……ふん、いいだろう」

ルナールの声が、低くなった。

彼は一歩、レイジに近づき、ニヤリと笑う。

「そこまで言うなら明日、このプラザで決着をつけようじゃないか。」

「腕比べか?」

「ああ、公衆の面前でな」

「お前の「貴族の剣」と、俺の「無名の剣」、どっちが上か、見せてやるよ。」

ルナールは不敵に笑った。

「ま、せいぜい逃げ出さないようにな?」

「言われるまでもない。」

そして、二人の間に、戦いの火種が灯った。

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