第一章 「偽りの黒筒」  第一話

「…?ここは…?」

レイジはいつの間にか森の中で立っていた。地面には柔らかな苔が広がり、風が枝葉を震わせるたびに、光が細かく砕けては散った。木漏れ日が揺れながら降り注ぎ、淡い光が地面にモザイク模様を描く。金色の木漏れ日が揺れ、地上に儚いモザイク模様を描いている。まるでどこかの絵画の中に迷い込んだような、非現実的な静寂。まるでおとぎ話の世界のような森、そして空気感だった。

ここはどこだろう?と思った瞬間ここは異世界のとある辺境の地だということが頭に自然と浮かんだ。

頭に疑問がよぎると同時に、まるで神の啓示のように、それは確固たる真実として、彼の意識に浸透する。

ここは異世界。辺境の森。

あり得ないことだ。しかし、それが「真実」だと、違和感なく受け入れられる。

(……転生、したのか)

異様なほど、自然に受け入れられた。あり得ないはずなのに、驚きすら感じない。

いや、それどころか、妙に馴染んでさえいる。

断片的な記憶が浮かび上がる。政治家の不正を暴いた。デマを流され、社会的に抹殺された。

最後は刃物が突き立てられる冷たい感触と、暗闇の広がり。そうだ、あの人生は終わったのだ。

その時主人公の背後でがさりと音がする。

唸り声とともに、巨大な影が跳びかかってくる。熊のような獣。鋭く濡れた牙、筋肉の塊のような四肢。

赤黒く濁った瞳が、むき出しの殺意を映し出す。

(殺られる!!)


しかしその瞬間だった。意識よりも先に、右手が動いた。何も考えない。ただ、願う。思考する間すらない。ただ、「燃えろ」と願った

ゴォッッッ!!

炎が爆ぜた。

轟音とともに、炎が獣を丸ごと包み込む。圧倒的な熱量が空気を歪ませ、灼熱の爆風が森の一角を一瞬で焼き払った。

そこに立っていたはずの魔獣は、わずか数秒で燃え尽きていた。レイジはゆっくりと、熱気の余韻が残る手のひらを見つめる。

(……これが、俺の力……?)

いうが早いがまたあの感覚が浮かぶ。自分の剣術、体術、魔法のスキルはすべてがカンストしている…。それこそが彼に与えられた力だった。この手には、確かに「力」が宿っている。レイジは、初めて転生者としての現実を実感した。


レイジは、焼け焦げた地面に目を落とした。風が吹き抜け、まだ熱のこもる灰が細かく舞い上がる。そこに転がるのは、ついさっきまで生きていた魔獣の成れの果て。

ふと、耳をすませる。何か、微かな鳴き声が聞こえた。

震える、小さな影。それはまだ幼い魔獣だった。体長は膝ほどしかなくその瞳は確かに怯えていた。

(あの魔獣の子ども…!)

子供の魔獣は、じっとレイジを見上げていた。恐怖に震えながらも、逃げることすらできず、ただ本能的に身を縮めている。

レイジの喉が、ごくりと鳴る。

(……こいつは、生き延びられない)

分かりきっていることだった。幼個体に狩りの術はなく、いずれ餓死するか、ほかの捕食者に喰われる運命にあったのは明らかだった。

レイジは、右手を上げる。

(俺がやらなければ…!)

ゴォッッ!!業火が弾けた。その小さな影は、一瞬にして炎に包まれ、そして――消えた。

燃え尽きた魔獣の灰が、静かに風に流れていく。それは、「慈悲」なのかどうかはレイジにはわからなかった。

レイジは、焦げきった苦い炎の残り香が漂う空気を吸い込んだ。胃の奥が、ひどく重い。

(……俺は、本当にこれでいいのか?)無意識に、こぶしを握る。力を得たはずなのに、なぜか胸が軋むように痛む。

力があれば、正しいことができる。世の中を変えられる。そう思っていたのに今していることはなんだ。ただの自己満足の殺戮じゃないか。

レイジは、ゆっくりとしゃがみこみ、地面に穴を掘り始めた。魔獣の骨と灰をその中へ収めた。小石を集め、即席の墓標を作る。償いになるかどうかも疑わしい自己満足の極地に感じた。

「俺の力は……本当に、誰かを救えるのか?」

誰もそれに答えるものはいなかった。


森を抜けると、視界が開けた。

そこはウォルナッツ、人口は50人ほどのどかな牧畜の村だった。

目の前に広がるのは、素朴な田園風景。広い牧草地が陽光に照らされていた。遠くには家畜の放牧地が広がり、のどかに草を食む羊や牛の姿が見えた。空には白い雲がゆっくり流れ吹き抜ける風は穏やかだった。

レイジが村の入り口に足を踏み入れると、すぐに視線を感じた。畑仕事をしていた村人たちが、一斉にこちらを見ている。警戒心と訝しむような視線。当たり前だ。こんな辺境の小さな村に見知らぬ旅人がふらりと現れたのだから

一人の一人の男が近づいてくる。初老のその男の雰囲気は決して友好的とは言えなかった。

「すまない、森をさまよっていたところ、この村にたどり着いた」

「…旅の者か。しかし簡単に村に入れるわけにもいかない。近頃、盗賊どもが跋扈しているのだ。」

村人たちの表情が暗くなる。誰もが盗賊の話題を避けるようにしていたが、それでも不安は隠せない。

「この村は……無事なのか?」

レイジの問いに、彼ははゆっくりと首を振った。

「今は…な。しかし、次はここが狙われるかもしれん。」

村の入り口に目を向ける。そこには、申し訳程度の木の柵が立てられているだけだった。とても防衛設備とは言えない。もし盗賊が本気で襲ってくれば、簡単に突破されるだろう。

「それで……俺はどうすればいい?」

「正直、旅の者をここに長く置いておくのは難しい。何かあれば、おぬしが盗賊の仲間ではないという保証はないからのう」

レイジは静かに頷いた。

(……盗賊か)


質素な家々の間を、鶏がのんびりと歩き回り、柵の向こうでは羊が草を食んでいる。畑仕事に精を出す村人たちは、収穫した作物を籠に詰めていた。遠くの方では農民たちが労働歌を歌いながらクワを降っていた、どこかから漂ってくる干し草の香り、そして木々の間を吹き抜ける心地よい風。村人はほぼ自給自足をしているらしかった。あちこちで鶏などが歩いている。しかし、ふと目に入ったものが、レイジの足を止めた。

家の脇に置かれた簡素な作業台の上で、一羽の鶏が横たわっていた。首が刃物で切り落とされ、鮮血が地面に滴っている。女が手慣れた様子で、村の男が羽をむしり取っていた。まだ温もりのある血液が台から滴り地面の土にじわりと染み込んでいく。

ぶわっと景色が歪んだ。冷たい地面に崩れ落ちた自分。腹の奥に鈍く深い痛み。赤黒い液体が、自分の指の間からこぼれ落ちる。誰かの怒声、混乱する視界、そして、周囲のざわめき。

息を詰め、思わず後ずさった。気づけば、冷や汗が額から滴り落ちていた。全身が粟立ち心臓が激しく打ち鳴らされている。自分の鼓動がやけに速い。

(なんだ、今のは…?)

一瞬、考えた。その時前世での戦場ジャーナリストをしていた友人が言っていた話を思い出す。

「戦場で血や死を見すぎた奴はな、日常に戻ってから、ふとした拍子に「あの瞬間」がフラッシュバックするんだよ。トリガーは人それぞれだが、例えば血とか、な」

PTSD、心的外傷後ストレス障害。その単語が頭の片隅をよぎった。

いや、まさか、そんなはずはない。俺は戦争を経験したわけじゃない。ただ一度、刺された「だけ」。ただ、それだけだった。

まだ指が微かに震えていることに気づいたが、無理やり気にしないことにした。


翌朝、レイジは村の中央にある小さな広場に向かった。昨夜ある人物の護衛を頼まれたのだ。

広場では、茶色の髪に麻のワンピースの少女が待っていた。

「セシリア・フィデスです。今日は森でベリーを採るので、護衛をお願いできますか?」

「ああ、よろしく頼む」

レイジは軽く頷いた。

護衛といっても、村の近くの森で果物を採るだけだ。村長によるとこの時期は危険なモンスターはあまり出ないという。

森の中は静かで、陽光が葉を透かして降り注いでいた。

 木々の間に自生する低木には、小さな赤いベリーが実っている。セシリアは籠にベリーを摘み入れていく。

「ねえ、レイジさんってどこから来たの?」

突然、セシリアが問いかけてきた。

「……遠い場所からだ。」

バキッ!!

突如、森の奥で木が折れる音がした。


レイジは瞬時に反応し、セシリアの前に立った。

「な、何の音……?」

怯えた声で彼女が尋ねる。

草むらが大きく揺れ、そこから姿を現したのは異様に巨大な魔獣だった。

「うそ…なんでこの時期に!?」

セシリアは怯えていた。

その個体は「穴持たず」 だ。冬眠のための巣穴を見つけられず、冬眠に失敗した個体。冬を乗り切るために必要な脂肪を十分に蓄えられず、飢えに狂い、極限の空腹状態で凶暴化した魔獣。

「後ろに下がれ。」

レイジは村長から借りた剣を抜いた。獣は低く唸りながら、獲物を見定めるようにこちらを睨んでいる。

ズドンッ!!

地響きを立てながら、魔獣が跳びかかってくる。だが、レイジの目にはその動きがスローモーションのように映っていた。

(遅い!)

右足を軸にして体を捻り、魔獣の太い前脚を避ける。直後、素早く剣を振るい、獣の脇腹を斬り裂く。

魔獣が咆哮し、怒りのままに振り向く。だが、レイジはすでに次の動作に移っていた。体勢を崩した魔獣の脚を斬りつける。そしてレイジは魔獣の眉間に剣を叩き込んだ。

鋭い衝撃音とともに、魔獣が大きく仰け反る。そして、唸り声をあげながら、森の奥へと逃げていった。

す、すごい……!」

セシリアが驚嘆の声をあげる。

「レイジさん、本当に強いのね……かっこいい……!」

感嘆と尊敬の眼差し。だが、レイジは答えなかった。彼は自分の手を見ていた。

血がついている。剣の切っ先から滴る、鮮血。掌に飛び散った、温かい液体。心臓がざわつく。胸がまた苦しくなった。

レイジは、拳を握りしめた。戦場ジャーナリストの言葉が、また頭をよぎる。

PTSD。やはりそうなのか?

(いや、そんなはずは……)

自分に言い聞かせるように、深く息を吐いた、しかし、手の震えは止まらなかった。

「レイジさん、大丈夫ですか?様子がおかしいですよ。」

「大丈夫…。」


村に戻り事の顛末を話すとすぐに歓声が上がった。

「村長の娘さんを守ってくれたって本当か!?」

村人たちが駆け寄り、口々に礼を述べる。何人かは感激のあまり涙を浮かべていた。

「レイジ殿、本当にありがとう……」

村長が深々と頭を下げる。

「セシリアが無事でいてくれたことが、何よりの喜びだ!」

レイジは謙遜したが、村人たちはそれでも彼を英雄のように見ていた。その視線が、少しだけ居心地が悪い。

(……俺は、本当に人を救えたのか?)

手についた血の感触が、まだ微かに残っている気がした。

その時だ。

「大変だ!!」

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