第17話
「彩夏」
「なに?」
「やっぱり、もう帰るよ」
「………」
夕食後。ここ数日悩んでいた結論を、彩夏に伝えた。アイスを食べながらテレビを観ていた彩夏は、私の言葉に視線をテレビから外した。知らない誰かとも、知っている人とも遊ぶのをやめた。淫魔としての食事は、佐紀が追ってきてくれた日の前日が最後だ。今後のことはまだ結論が出ていないけれど、もしかしたら好きな人ができるかもしれないからそんな日を夢見ている。けれどとにかく。ちゃんと大学にも行って、そのあとは誠実に帰ってきている。彩夏の自宅に邪魔し続けなければならない事柄は、彩夏の前では隠し通せているはずだから。
「…それで?どうするの?」
「大学はちゃんと行くよ」
「違うよ。佐紀とのこと、どうするつもりなの」
「………」
数日前、彩夏の言葉に、私の心は一瞬前を向き始めた。けれど、それからスマホを取り出し文字を打っては消し、通話画面を開いては消した。何も、変わっていない。
「………どうって、…やっぱり今更、そんな都合のいいこと、できなくて…、」
前を向いた心は、起き上がりこぶしの反対の物体のように、何かに引っ張られて元の下向きに戻る。
その正体が何なのか、分かりたくない。自分の都合で傷つけて離れたくせに、また自分の都合で会おうなんて、許されようなんて、そんな甘えたこと出来ない。都合がよすぎるとしか思えない。視線は床を見つめたまま、私の手はいつの間にか服を握りしめていた。
「…恋。佐紀と別れるのも、関わらないのも恋の好きにしたらいい。それでずっと引きずって生きてったらいいよ」
「………」
「ここまで口出ししておいてなんだよって思うかもしれないけど、私もちょっと世話焼きすぎたかもしれないって反省してるんだ。何を選んだって恋の人生なんだから、好きだろうとなんだろうと決めるのは恋なんだし」
突き放すような言葉は、それでも確かにどこか暖かくて。彩夏の目は真っ直ぐに私を映し続ける。
「ただ、それに佐紀を巻き込んだらいけないと思う。傷つけっぱなしじゃ、これから先は背負ってかなきゃいけなくなる。それは、恋が降ろしてあげなきゃならないものでしょ?」
「……でも、」
「もう会わないんならその責任はとらなきゃいけないよ。逃げちゃダメ」
「………、」
「………なにを、そんなに怖がってるの」
…怖い、のかな。
佐紀に嫌われること?佐紀を泣かせること?佐紀に怒られること?
…違う。きっと、佐紀を傷付けて、泣かせて、きっと嫌われてしまった。そんな自分に、向き合うことが怖い…。
なんてひどい人間なんだ。佐紀はあれほどに傷ついても、例え時間がかかっても追いかけてくれたのに。自分は、自分を守るばかりで傷付けて。そのことからも逃げたくて、佐紀から離れようとしてる。
私が好きな人はだれ?私が…何よりも大事にしなきゃいけない人は、だれだった?
心に絡みついて後ろに引き戻すのは、臆病な自分だ。今だけでも、それは引き千切らなきゃならない。間に合うなんて関係ない。許してもらうなんて望まない。貴女にのしかかった私を、迎えに行かなきゃ。サキュバスであることなんて、きっとなんの言い訳にもならないんだ。そうしたのは、他でもない自分自身なんだから。
「………彩夏、」
「ん?」
「私、ちゃんと佐紀に謝らなきゃ…」
「…うん。そっか」
どんな結果であれ、例え、会わないのではなく、会えなくなるとしても。
貴女に、貴女らしく、私に囚われずにこれからの人生を送ってもらうために。
―――!!!
「!?」
勝手に吹っ切れた気持ちを叩きつけるように、けたたましくインターホンとドアを叩く音が響いた。
「なになに?誰!?」
彩夏が玄関へ向かう背を目で追いながら、その非常識な行動に警察沙汰かと離れたところに置いていたスマホを手に取る。
「-え!?」
その画面に示し出されたのは、恐ろしいほどの着信件数とそれを知らせるメッセージだった。
「えっ、奏…?」
あまりの急な展開に、彩夏の元へ様子を見に行くか、着信への折り返しをするか、脳が判断できなくなる。どちらも非常事態だった。危険性があるのは彩夏だけれど、映し出されるそれに、何事かと考えてしまう。
「……っ、佐紀…?」
なんの根拠もないまま、鞄を掴んで玄関に向かう。玄関には、息を切らせる奏がいて、私と同じようにスマホを握っていた。怒っているような表情は、私の顔を見て少しだけ和らいだ。
「-、はぁ、…っ、遅いんだよ」
「……ごめん」
肩で息をする奏は、髪が額や首筋に汗で張り付いている。自宅からここまで走ってきたのだろう。私へ、何度も電話を掛けながら。
目線だけを私に送って、奏は先に走り出す。その後を追うように、靴を履いた。
「恋」
「!」
「…行ってらっしゃい」
「、行ってきます」
私を送る彩夏の表情は、正直なんとも言えない顔だった。けれど、何か言うわけでもなく送り出す言葉だけを投げてくれた。それがどういう意味なのか、きっとちゃんと理解なんて出来ることはないんだと思う。
閉まるドアも見届けずに走り出し、奏を追う。今まで送り続けられた彩夏の言葉が、私の背中を押していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます