第16話


ボヤけた意識が浮上するとともに、ズキズキと重い痛みが頭を襲う。



「……っ、いた、」


「――さき」



、誰…?



「好き、なの。さき、」


「ーーー、」




ボヤけた頭が、相手の声を拾う。あまい声と酷い頭痛で、頭は混乱していた。

馬乗りになっている相手に腕を取られる。引かれた先で柔らかい肌に触れて、その、柔らかさに経験の乏しい私でもそれが普段隠された部分であることは分かった。



「……っ、んん!」


「ふ、んぅ…」



そうしてそのまま、唇を塞がれる。粘着質な音が漏れて、背筋が痺れた。


―違う。


唐突に理解する。私の求めてやまないソレとは違う。


―このひとは、だれだ、?



視界は、天井とその人で埋められるけれど、顔はよく認識できなかった。



「ねぇ、抱いて…?」


「…、……うん、」



涙を浮かべた必死な姿が自分のようだった。部屋を覆うのは、気持ち悪いほどに性で埋められた空気。酷い頭痛を押しのけるようにその肌を貪り、感情を置き去りにして、行為を進める。

相手は満たされていたようだったけれど、私には行為に伴うただの生理現象だけだった。


――しばらく前に、夢で、君を抱いていた。行為が同じでも、全然違う。

君の中で大多数の中のひとりなら、それを否定することなんて出来ない。それがどんなに悲しくても、事実なのだから。


でも。頭から、君の声も、肌も、熱も、……君の全てが離れていかない。大切な記憶なのだと思う。でも、もう。蓋をした心を、空っぽにした心を、こじ開けて満たそうとするから。離れないなら、上から塗り潰すしかないんだ――




深夜過ぎ。最早夜なのか朝なのかの判別もつかない時間に、理佐は自宅のドアを開け帰宅する。24時間も経っていない自宅がなんとなく他人の家のように感じられた。



「……おかえり」


「!」



極力静かに自分の部屋へ戻ろうとしていたのに、暗闇から声が聞こえて思わず体が跳ねた。



「……奏、」


「…こんな時間に帰ってくんの初めてだね」


「………、」


「何考えてんの?」


「……別に、何も」



怒られている訳ではない、と思った。でもきっと怒ってはいるのだと思う。照明が点けられて部屋が明るくなったけれど、奏を見ることが出来なくて私は床ばかりに目がいっていた。そんな中、奏のため息が聞こえた。



「……まぁ。いいけど。とりあえず帰ってきて安心したわ。もう寝る」


「………」



何を問い詰めるわけでもなく本当に姿だけを見て、奏は部屋に入り音を立ててドアを閉めた。拒絶するようにドアを隔てた気もした。

一気に何かに苛まれる。押し寄せてきたのは、自己嫌悪なのか罪悪感なのか。はっきりとした理由も分からないまま、心は重りを抱えたようにずしりと重くなる。



「………、」



空っぽな心に、蓋をして。開けられないように上書きをして。重りまで掛けられたなら、それはもう潰れるしかない。



「………っ、ぅ」



でも。上書きするつもりが、色濃い記憶はたった1度のそれでは意味がなかった。むしろ、それを自覚して、より強く心を掻き立てていく。



「っく、ふ……、」



いつの間にか溢れ出した嗚咽は、自分の感情では止められなくて。せめて誰かには届かないように自分の部屋に逃げ込んで布団を被った。


―君と出会ったことも君との記憶も、大事で大切だったのに、縋りすぎた宝物のようにそれはもう綺麗じゃなくなってしまった。


『さっきの人も今までの人も…佐紀も、恋のことそういう風にするから。だから佐紀は悪くないよ。そういう人、いっぱいいたから。むしろごめんね、悩ませて』



「――っ!」



心臓が痛い。痒いような苛立ちが手の届かない中心にあって、体の中に手を入れて書き壊したいとすら思う。手が痛むほどに布団を握りしめて、声にならない声を上げる。



…苦しい。腹が立っている。悔しい。感情がごちゃごちゃになる。

君をそういう風にしたやつらも、君をそういう風にした自分も。許せない………。





「先輩、遊び行きませんか?」


「佐紀ちゃん?今夜空いてる?」


「うちに遊びにおいでよ」



毎日、といっていいほどにいつの間にか多くの声と笑顔と裏が、付きまとっていた。最初の子は、何度か接点はあったしそういうコトにも至っていて。世間一般的にはセフレという枠にもなってしまう気がしていたけれど、今はどうでもいいことだった。

恋への想いの反動のように、声をかけてくる相手へと触れる。苛立ちをぶつけるように、強く上塗りするように激しさを増した。



「……だる、」



そんな生活を送ったのはひと月にも満たなかった。けれど、長らくそんなことを繰り返したように感じていた。崩れた心では気づかなかった、目を逸らして蔑ろにしていた身体は、徐々に蝕まれていたようだった。


朝から身体が重い。また風邪でも引いただろうか。身体は熱く重かったけれど、熱を測る気も休む気もなくて、むしろ壊れてしまったらいいとすら思った。

声を掛けてくる人達はそんな私に気づかなくて、ただ要求ばかりしてくる。それは都合が良かった。ぼやけた世界で、喉が引っかかるように痛くなる。何を求めているんだ、と問いかければ、泣き叫ぶ心は即返答した。



「……、いいよ」



そうしてまた、音を立ててそれに蓋をする。






――「佐紀」


「…、」


「大丈夫?相手の女に変なの貰っちゃったの?慣れてないことするから。ちゃんと見定めないとだめだよ」



頭がぼやける。奏の言葉が耳を通るのに、頭に入っていかない。どうにか視線を回して、いつの間にか自宅へ帰ってきていたことだけを理解する。熱い……。



「………、だいじょうぶ」



体は横になっているけど、ここは部屋じゃなくて、リビングだ。ソファに力尽きたみたいだった。目の前の奏はそんな私を立ったまま見下ろしているようだった。奏に返事をしたいのに、焦点は合わず。いつまでもろくな返事が出ていかない。



「……ここ、家だよ。リビング。分かる?」


「うん。ごめん」


「…いいよ、無理に起きなくて。謝ることもない」



奏の言っている意味は分かる。ここがどこなのかも分かっている。でも体がしんどくて、起き上がるのにもスムーズじゃなかった。奏は『でもベッドの方が休めるか』と独り言の様につぶやいて私を支えながら部屋まで送ってくれた。そのあとは流れるようにおでこに冷たいシートが貼られて、脇には体温計が挟まれた。一度いなくなったと思ったら、体温計の鳴る頃に戻ってきた。



「40.2℃……、病院どうする?」


「いい。大丈夫。もう暑いし…ほんとごめん」



奏の声は独り言のようだった。そんな高いのか、とぼやけた意識で思う。熱いから、これ以上高くなることはないだろうと他人事に思う。



「……、佐紀。分かってるんでしょ」


「…、……なに、」


「佐紀は、……恋も。離れて違う相手なんて無理なんだよ」



――恋。


脳は敏感に、現金に。その言葉に刺激されるように反応した。

恋。また、来てくれないかな。…もう、会えないって、分かってるけど…。



「…、ぃ」


「え?」


「……んに、、ぃたい、っ」



熱に侵され、掠れた声だった。やっと出た言葉は、ろくな形にならなかった。

浮かされた熱の中。ぐちゃぐちゃの心の内。潰れた箱から漏れるのは、隠して、埋めて、しまい込んだ、忘れたはずの、純粋な、たった一つの願望。


恋に、会いたい。



「――待ってて」



奏の強い言葉が聞こえて、涙が溢れそうになって歯を食いしばる。

ダメなのに。分かってるのに。私が望んでいいことじゃない。なのに、どうして反対しないで出ていくの。そんな強く、私の背を支えないで。振り向けないことが怖いんだ。


君との別れが兆しを見せたのは、今と同じ。自分が熱を出した時だった。

また、君と会えなくなる別れと遭遇する気がして、強い不安に浅い呼吸がくっと詰まる。それでも、静かな空間と怠さ、涙をこらえた頭は、意識を繋ぎ止めることは出来なかった。



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