チョコレートコスモス(2)
シャワーを浴びたあと、おばあちゃんに浴衣の洗濯が終わるまで待っていなさいと言われた。茶の間へ行くと先ほどここまで背負ってくれた男の子が縁側にひとり腰掛けている。男の子から少し距離をとって同じように縁側に腰を下ろす。目の前の庭の上にちょうど小さく花火が上がっているのが見えた。それを眺めつつ、横目で男の子を見て気がついた。同じクラスの立山仁だった。たぶんあたしの学年で彼を知らない人はいない。トップの成績で入学したにもかかわらず、新入生代表の言葉を辞退したと大きな噂になったからだ。
立山が立ち上がってその場を離れる。なにやら台所でおばあちゃんとやり取りをして戻ってきた。
「これ、ほっぺに当てるといいよ」
立山からタオルに巻かれた保冷剤を受け取る。先ほど洗面所で自分の顔を見てみたら、左頬に真っ赤な手跡がついていた。こんなの漫画でしか見たことないわと思わず苦笑いした。
「立山、ありがと」
そう言うと、立山の首がそのまま斜めに傾いた。
「もしかしてあたしのことわかんない?」
その言葉に立山がゆっくりと頷く。
「小野田茜。あんたと同じ学校、同じクラス」
「あ、そうだったんだ。それは申し訳ない」
立山が緩そうな眼鏡をクイと上げる。
「まあ、あんたみたいに頭の良いやつはあたしらみたいなバカの存在、覚えるだけ無駄よね」
そんな皮肉は無言で流された。
立山が庭先へと降りて三脚を立て始める。そこに自分のスマートフォンをセットする。はじめは花火を撮影するのかと思っていたけだ、スマートフォンの角度的にそうではないらしい。庭先には名前のわからない植物が大きな鉢に植えられていた。
「それ、なんていうの?」
「
「へえ」
そんな名前の花があることを初めて知った。
不思議な人だなと思う。目の前で上がっている花火には見向きもしないで、花に夢中になっているなんて。
空を伝ってくる花火の重い音を聞きながら、あたしも立山と同じように月下美人を観察した。こんなに頭の良い人が夢中になるくらいだから相当すごい花なのだろう。そんなふうに少し上から目線で鉢植えを見つめた。
手元に置いたスマートフォンが鳴る。タケルからのダイレクトメッセージだった。
『もう無理、別れる。お前と付き合うのいい加減だるいわ。噂で聞いてたよりお前全然楽じゃねーし。俺、お前の中学時代の話全部知ってっからな。今更純粋なフリしてんじゃねーよ、キモ』
そんな文を見てすぐにタケルをブロックした。スマホを床に伏せる。右手が小さく震えていた。
タケルが中学の頃のあたしを知っていた。その事実にわかりやすく動揺してしまった。それと同時に、あの頃のあたしを知っているならあんなふうに簡単に身体を重ねてくるのもわかるし、生を強要してくるのも無理はないだろう。タケルはあたしのことが好きだったわけじゃなくて、安くて手軽な女が欲しかっただけだったんだ。
目の前の景色がぐにゃりと歪む。思い切り唇を噛んでこぼれないように我慢した。こんな男のために涙を流したくなかった。あのときも今も、こんなくだらないことでいちいち泣きたくない。
ただ悔しかった。あたしは純粋に幸せになりたいだけだった。周りのみんなと同じように恋をして愛されて、好きな人と笑い合っていたいだけだった。
たったそれだけのことが、あのときからずっと叶わない。
「キミって、バカだよね」
「はあ? なにを今さらっ。あの高校に通ってる時点でバカ確定に決まってんじゃん。あんたみたいに勉強できる方が異常なんだっての」
「そういうことを言いたいわけじゃなくて。ああいうことが起きたのってきっと今日が初めてじゃないでしょ? そういう人だってわかっているのにどうして逃げないの。初めてならたまたまかもしれないって思い込めたとしても、二度目以降はその人の本質だよ。それがわかっているのに別れないのはバカでしょ。自分自身に失礼だ」
月下美人に目を向けたまま、立山が吐き捨てるように言った。月下美人の蕾が先ほどよりも緩くほどけていっているような気がする。
「自分をぞんざいに扱うその人をどうして好きでいられるの? 自分を本当に大事にできるのは誰よりも自分自身だよ。他の誰でもない。自分が自分を投げ出してしまったら、それはもう命を捨てるのとおんなじだよ」
そのとき、必死に我慢していたはずの涙がこぼれた。今の自分と過去の自分の傷に触れられた気がして我慢の細い糸が切れてしまった。
中学二年、あのとき流さなかった涙が混ざっている気がする。
そうか、あたしはあのとき自分の命を捨てていたのか。自分が傷ついていることを一番よく知っていたのはあたし自身だったのに、あたしはあたしを守らないで心に負った深い傷を見て見ぬふりしていただけだったのだ。
「本当に好きだったの? あんな人のこと」
悪気のない立山の言葉に頷く。
「本当に?」
「そう言われると、自信なくなる……」
タケルの見た目もスタイルも大好きだった。あたしに手をあげてくるけど、優しいときだってもちろんあった。でも、何度も生でしようとするところや、隠れてタバコを吸ったりお酒を飲んだりするところは最高にダサくて嫌いだった。バスケ部の部活終わりにタケルを迎えに行くと、体育館の隅で酒盛りが行われていたことがあった。スポーツドリンクを入れるボトルにお酒を入れてそれぞれが持ち寄ったらしい。背伸びをしてかっこつけてバカだなって思っていたけど、周りに合わせて一緒に笑っていた。どれだけタケルに勧められてもあたしがお酒を口にすることはなかった。
「好きでもないのに一緒にいるのはただの執着だよ」
立山の鋭い言葉が胸に突き刺さった。そこから流れ出る見えない血がなんだか心地良く感じた。あの頃から無駄に生きていた自分がよくやく生まれ変わるみたいだった。
花火が終わる頃、月下美人が一輪だけ開花した。白くて大きな花だった。思わずあたしもその神秘的な姿をスマートフォンで撮影した。そこだけスポットライトが当たっているみたいにその花は静かに白く輝いていた。
「花言葉は儚い恋」
小さくそう呟いた立山の横顔に見て、好きという感情が生まれてしまった。全然優しくないし、顔だってそこまでタイプじゃない。それでもこの人がいいと思ってしまった。
失恋したその日に新しい恋をする。今までこんなことはなかったけど、立山が好きだと思った瞬間にタケルのことはどうでもよくなっていた。
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