チョコレートコスモス(1)

 ***


 嫌な夢を見ることがある。

 自分が強く幸せを感じた日が多くて、そういう日はとても舞い上がっているのに眠りにつくのが怖くなる。立山に花言葉の図鑑をもらったときもそうだった。とても嬉しくて無駄に何度も図鑑をパラパラとめくった。家に帰ってからもベッドの上で同じようなことをしてふと我に返る。こんなに幸せを感じてはいけないと思いつつも、自分の感情に嘘をつくことはできない。なんとか悪夢を避けたくて夜更かししようとするけど、眠気には抗えなくて仕方なくベッドに横になる。無意識のうちに目を瞑る。深い眠りについたとき、やはりそれは瞼の裏に現れた。薄汚れた真っ赤なソファと息遣いの荒い男が目の前に映し出される。そこまでは我慢ができる。場面が次の日に切り替わって男があたしに言う。そこでいつも目が覚める。こんな夢を見た朝は本当に最悪な気分だ。寝汗がひどくて朝にシャワーを浴びなければならなくなる。気分も悪くて朝ご飯なんか口にできたものじゃない。通学用の肩掛けカバンに花言葉の図鑑を入れながら溜息をつく。

 やっぱりあたしなんかが幸せになれるわけないのかも。そんな考えに支配されたくなくて、何度も頭を横に振った。


 ***


 一つ年上の元彼が学校を辞めたと聞いたのは、高二の夏休みが終わった頃だった。学校帰りに寄ったファミリーレストランで、友達の明野あけの美紗みさが聞いてもないのに教えてくれた。

「うちらの一個下の後輩を妊娠させたって。今年同じバスケ部に入った超可愛い子ね。そしたらその子の親がめっちゃ怒っちゃって。責任取れって言われて辞めることになったらしいよ。高校中退で働き口なんかあんのかね。ま、そもそもなまでヤんなって話だけど」

 それな、とかなんとか。興味もないからモゴモゴとドリンクバーの氷を口の中で転がす。

「なんかめっちゃ他人事じゃん。ちょっと違えばあんたがこうなってたかもしんないのに」

「さすがに生は断ってたし」

 そのせいで暴力を振るわれていたということを目の前の美紗は知らないし、話すつもりもない。友達だからといってあたしの言うこと全てを受け入れてくれるとは限らないからだ。

 四人掛けのボックス席にパンケーキとパフェが運ばれてくる。目の前の甘い塊に二人で目を輝かせた。


 元彼の矢島やじまタケルと付き合ったのは、一年前のことだった。高校に入学してすぐのこと、当時恋愛は見た目重視だったあたしが一目惚れしたのがバスケ部のタケルだった。顔もスタイルも自信があったあたしは、同じ中学の友達のおかげですぐにタケルと親しくなれた。付き合うまでの時間もそんなにかからなかった気がする。タケルはとにかく格好良くて優しくて、なにもかもがあたしの理想の人だった。

 そんなタケルの態度が変わったのはいつからだっただろう。タケルはそのうち力であたしを支配するようになった。別に身体を重ねることに抵抗はなかったから受け入れていたけど、それがいつしかゴムなしでの行為を求められるようになった。最初のうちは抵抗すると「わかった」と言ってゴムをつけてくれた。それがだんだんと渋々になっていき、ついには声を荒らげるようになった。身体を壁に向かって突き飛ばされたのが最初で、それ以降は服を着て隠れる場所に痣が増えていった。絶対に生の行為を許容することはなかったけど、それでもあたしはタケルのことが大好きだった。だって殴られたあとにあたしが痛がっていると優しい声で「ごめん」と繰り返してくれたし、できた痣一つ一つにキスをしてくれた。

 平気だった。

 心を傷つけられるくらいなら身体を傷つけられた方がましだった。

 高一の夏休み、タケルに高校近くの夏祭りに誘われた。すごく嬉しくて浴衣もタケルの好きな黒色のものを新調した。

「あんたには暗すぎない?」

 着付けをしてくれたお母さんにこう言われたけど、どうでもよかった。あたしにはこれを見て喜ぶタケルの姿が想像できたからだ。

 夕方、待ち合わせ場所に行くとタケルが笑顔で迎えてくれた。

「それオレの好きな色じゃん。めっちゃイケてる」

「そう言うと思ってこれを選んだんじゃん」

「まじで? めっちゃ嬉しい」

 そう言ってタケルがあたしの腰に手を回して歩き出した。

 花火が始まるまでの時間、出店を見てまわった。二人でかき氷を買って、タケルが穴場を知っていると言って花火の会場から少し離れた公園へと連れて行ってくれた。近くに何軒か古い民家が並んでいて、公園自体もなんだか古くさびれた場所だった。唯一の遊具であるブランコのそばにある木製のベンチにタケルが腰掛ける。

「茜もここに座れよ」

 そう言って指し示されたそこはお世辞にも綺麗とは言えなかった。ベンチの表面はささくれているし、脚は腐りかけていてそのうち折れてしまいそうだ。せっかくの浴衣が汚れそうで気が進まなかったけど、仕方なく腰掛ける。お尻のあたりがひんやりと冷たくてベンチが少し濡れているみたいだった。

「ちょっと早く来すぎたんじゃない? 花火始まるまで一時間近くあるよ」

「いいんだよ、これで」

 そう言ってタケルの顔が近づいてきた。当たり前のように深く長いキスが交わされる。首から下が溶けてしまいそうなくらい心地が良かった。今この人の一番は自分なんだと強く感じられる瞬間だった。タケルの手が浴衣の襟に掛けられたとき、ようやく目を開けて唇を離した。

「ちょっと、やだっ! こんなとこで」

 必死にタケルの両腕を掴むけど、なんの意味もない。お母さんが時間をかけて綺麗に着付けてくれた浴衣が襟元から裂くように開かれた。目の前で笑顔を浮かべるタケルが悪魔に見えた。

「こんなとこだからいいんだろ」

「嫌だって、言ってんじゃん!」

 気づいたら思い切りタケルの頬を平手打ちしていた。手も身体もなにもかもが震えている。それはタケルに植え付けられた恐怖だった。

「てめえっ」

 そのとき初めて思い切り頬を叩かれた。

 人はあまりに痛いとそれを感じる前に涙が出るらしい。平手打ちされた左頬が涙で濡れる。左目の視界だけがぼんやりと歪んでいた。

 恐怖でそれ以上抵抗なんてできるわけなくて、そのまま力づくでベンチに押し倒される。剥き出しになった背中にベンチのささくれた部分が突き刺さる。自分ではもうなにが痛いのかわからなくなっていた。

「コォレ! なにしとるかあ!」

 公園の入り口あたりからそんな大きな声がして、タケルが慌てて馬乗りの体勢を崩す。あたしをベンチに寝かせたまま、タケルは走ってその場を逃げ出した。魂が抜けたようにぼーっと滲んだ夜空を見上げる。とりあえずゆっくりと身体を起こして、はだけた浴衣をそれなりに直す。そのうち先ほどの声の主であろうおばあちゃんが近づいてきた。その後ろを顔色の悪い男の子が怠そうについてくる。

「ああ、せっかく綺麗にしてるのにこんなになって! さっきの知り合いか?」

「彼氏です……一応」

 おばあちゃんが大きな溜息をつきながら、着ていた薄手のカーディガンを羽織らせてくれた。

「ちょっと、仁。あんたこの子おぶって」

 おばあちゃんがすぐ後ろにいる男の子に声をかける。

「絶対に無理。俺具合が悪いんだって」

「いいからさっさと、ほら。まさか女の子このまま置いていけないでしょ」

 そう言われて男の子が渋々あたしに背中を向けて片膝をつく。

「ん、さっさと乗れば」

 いつもだったら向きになってしまいそうなそのぶっきらぼうな言い方も全然気にならなかった。それくらい自分の心が疲れ切っていた。男の子の背中に力なくもたれ掛かり、気がついたらそのおばあちゃんの家に着いていた。そのままおばあちゃんに脱衣所に連れて行かれ、浴衣を脱がされる。

「浴衣の汚れはすぐに落とさないと。あなたは先にシャワーを浴びなさい。着替えは上がる頃にそこに置いておくから」

 おばあちゃんが抱えた自分の浴衣は土やら木屑やらで随分汚れている。買ったばかりのものなのに、雑に扱ってしまったのが申し訳なかった。

「あんな人と付き合うのは時間の無駄よ」

 おばあちゃんが言う。

「どうせ、その身体の痣もあいつがやったんだろう? ああいう人を愛し続けることなんて不可能よ。現実を見て諦めなさい。それでもその人の隣にいることを選ぶなら、それはおそらく恋でも愛でもないわ」

 脱衣所の古い引き戸がぴしゃりと閉められる。おばあちゃんの鋭い言葉になにも言うことができなかった。

 水色のタイルが敷かれたお風呂場に足を踏み入れる。シャワーを顔に当てると、平手打ちされた左頬がズキズキと痛んだ。木屑で傷ついた背中はボディーソープが沁みた。

 我慢できない涙がシャワーのお湯に混ざって排水溝へと吸い込まれていく。

 ──あたしはただ幸せになりたいだけなのに。

 たったそれだけのことが叶わない現実に腹が立って仕方なかった。

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