チューリップ(2)
部活が終わったあと、一度家に帰ってからコンビニへと向かった。姉ちゃんの大好物であるクリームがたっぷり乗ったプリンを買って冷蔵庫に入れる。口で言うのは恥ずかしいから、一目で姉ちゃんのものだとわかるように『姉ちゃんへ』と書いた付箋を貼っておいた。
程なくして、学校帰りの姉ちゃんが冷蔵庫を開けるなり歓声をあげる。
「ちょっと誠、なにこのプリン。しかもあたしの好きなクリームたっぷりのやつじゃーん! あんた、明日土砂降りにでもするつもり?」
失礼な言い回しだなと思いつつ、姉ちゃんに答える。
「シャー芯が切れたついでに買ってきただけだよ」
「そんなことあるー?」
そんなことを言いつつ、姉ちゃんが嬉しそうにプリンをテーブルの上に置いた。
「あ、ちょっとあんた。今日もご飯食べたらやるからね、花のべんきょー」
リビングのソファでゴロゴロしていた僕に姉ちゃんが言う。いつもなら頭の中に不平不満を並べる僕だけど、今日はただ「ハイハイ」と流すだけだった。
晩ご飯を終え、自室へと向かう。姉ちゃんが部屋に来るまで僕は今朝の出来事を思い出していた。
今朝、校門の前でしゃがみ込んでいた長谷川さんが、わざわざ僕の方を振り返って言った。
『小野田くん、知ってる?』
「僕の名前……覚えてくれてた」
ポツリ呟くと、体中のあちこちを駆け巡っていた嬉しさがさらに加速する。その嬉しさが心臓に届いたとき、ドクンと一つの大きな音を鳴らした。
ずっと感じていたことがあった。僕は目立つ方ではないから、たとえ同じクラスだとしても長谷川さんに名前を覚えられるほどの存在ではないだろうと思っていた。覚えられるとしても、その順番はずっと後ろの方だと思っていた。それが大して話もしたこともないのに数週間で覚えられているなんて、嬉しさのあまり天にも昇る気分だ。
「誠ー、入るよー」
姉ちゃんが今日もノックなしで僕の部屋に入ってくる。例の花言葉の図鑑を開いて、今日の花をどれにするか迷っている姉に聞いた。
「姉ちゃんはさ、人の名前すぐに覚えられるタイプ?」
「うん、まあ、それなりに早い方じゃない?」
「早いってどれくらい?」
「えー? 本気になって覚えようとしたら一日でいけるんじゃん」
「はっや!」
驚く僕に姉ちゃんが続ける。
「別にフツーっしょ。覚えようって必死んなったらみんなそんなもんだって」
「みんな?」
「そう、みーんな。フツーに過ごしてても、せいぜい一週間もあればクラスの数十人なんて余裕でしょ」
淡々とそう言う姉ちゃんに、なにも返すことができなかった。
そうか。みんな一週間もあれば覚えるか。たしかに僕も、苗字だけならクラスの全員言えるし、当然といえば当然だった。僕らはもう入学してから数週間は経っているのだ。
長谷川さんが僕の名前を覚えてくれていた。さっきまでそれに浮かれていた自分が途端に恥ずかしくなる。姉ちゃんの原理でいうと、長谷川さんが僕の名前を覚えていたのは当然のことだったんだ。さっきまで身体中を駆け巡っていたはずの嬉しさが嘘みたいに減速していく。
「あ、今日はこれでいっか!」
そう言って姉ちゃんが開いたページには『サクラソウ』という花が載っていた。花の名前から、てっきりよく見る桜に似ているのかと思ったけど、その見た目は想像とは全くの別物だった。一本の茎からいくつものピンク色の花があちらこちらを向いて咲いている。その見た目はなんとなくアジサイに似ている気がした。花びらの形は舞茸みたいだった。
「サクラソウの花言葉は四つあんの。憧れ、無邪気、清らか、そして、初恋」
姉ちゃんのその言葉を聞いて、サクラソウは僕の花だと思った。長谷川さんのことが好き。言葉にするとこんなにも単純なのに、頭で考えるとどうも複雑になってしまう。これが今、僕が抱える初恋だった。
どうやら人は好きな人ができると盲目になるらしい。それは、その人だけが特別に見えるっていうだけじゃなくて、その人の何気ない言動ですら特別な意味を持たせたくなってしまうみたいだ。僕はこの盲目のせいで長谷川さんの何気ない行動を『特別』だと思ってしまった。僕にとって長谷川さんは初恋だから、『当然』を『特別』と思わないように気をつけないと。長谷川さんの言動に勘違いをして暴走して、そして振られて噂になる。──そんな展開が僕は一番怖かった。
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