チューリップ(3)

 昨日、長谷川さんとタンポポの話をした。だからといって次の日が劇的に変わるわけじゃない。今までと同じように挨拶はできないし、タンポポ以外に話題は見つからないからやっぱり話すこともできない。入学して以来、それが普通だったはずなのにどうしてだろう。少し物足りないなんて。

 結局その日、僕は長谷川さんと会話することができなかった。今日は部活が休みだから、さっさと家に帰って漫画の最新刊を読もうと教室を一歩出たときだ。担任の先生に声をかけられた。道徳で使う資料綴じをしてほしいとのことだった。断る明確な理由がない僕は快く先生の申し出を引き受けた。

 誰もいなくなったあとの教室でひとり資料綴じを始める。プリントを五枚ほど重ねて、左上をホチキスで留めていく。集中してやればすぐに終わりそうなその作業はかなり単調なもので、始めてからすぐに眠気が襲ってきた。

 みんなの部活が終わるまで二時間ほど。それまでに終わらせればいいだろうと思って、机の上にホチキスを置く。そしてそのまま机に突っ伏した。どうしてこんなにも眠いのだろうと考えて思い出した。そういえば昨日は姉ちゃんの花言葉教育のあとに、英語の予習があることを思い出してやったんだった。それで眠るのが遅くなったのだ。

 目を瞑ると、グラウンドで活動している運動部の掛け声がよりはっきりと聞こえる。四階の教室に響いてくるくらいだから、かなり大きな声だ。その掛け声にリズムをつけるようにチクタクと時計の秒針が小さく鳴っている。それがなんとなく回顧へ導いた。

 僕は昔から誰かに与えられたことをやるだけだった。ピアノも習字も勉強塾も、四つ上の姉ちゃんがやっていたから必然的に僕もやらされた。

 だからかな?

 僕は自分から動くということがないような気がする。習い事は全て姉ちゃんがやっていたからやっただけだし、勉強は自由な姉ちゃんに困る母さんを見て、僕は苦労をかけないようにと思ってやっている。

 姉ちゃんは昔から自由だった。やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。そんなふうに姉ちゃんは羨ましいくらい自分に正直な人だった。きっと姉ちゃんなら昨日の朝の出来事をチャンスだと思って、うまく次の日の会話に繋げられるんだろうな。同じ家に生まれたはずなのに、どうしてこうも違うのだろう。考えて一つ、答えが出た。

 そうか。僕の積極性は、おそらく全部姉ちゃんに吸い取られてしまったのだろう。なんて、自分のこういうところがつくづく嫌になる。自分にない性質ものを他の人や他のなにかを理由にするところが本当に駄目だと思う。そうとわかっていてもやめられないのは、自分自身それが楽だと知っているからだ。僕に積極性がないのは姉ちゃんのせい。積極性は全部姉ちゃんが持っていってしまったから。──そう思っていれば、これから先の人生においてもそれが楽な逃げ道になる。本当は姉ちゃんのせいなんかじゃない。周りの目を気にして行動できない自分のせいだ。

 間近で聞こえたトランペットの音で目が覚めた。どうやら吹奏楽部の人が教室前の廊下を練習場所に選んだらしい。目をこすって時計を見ると、ほんの少し寝るつもりがもう四十分以上経っていた。

 さっさと終わらせないと、と隣の机を見て違和感を覚える。バラバラだったはずの資料が綺麗に整頓されて一か所にまとめられている。重ねられた資料を一つ一つ確認すると、全てが綺麗にホチキス留めされていた。

「あら、小野田くん資料綴じ終わったのね」担任の先生が教室に入ってくる。

「あ、えっと……はい」

「じゃあ回収していくわ。小野田くんは仕事が丁寧ねえ」

 四隅が綺麗に揃った資料を見て、先生が微笑む。僕はなにも言えないまま曖昧に笑った。

 先生が資料を抱えて出て行ったあと、帰り支度をしながら資料綴じをしてくれたのは誰なのだろうと考えた。学校指定のカバンを机に置いたときだ。リュック型のカバンの背中側に花の形をした黄色の付箋が貼られていた。

 並んだ文字を見て心臓が高鳴る。

『タンポポのお礼! おつかれさま。 長谷川ひなた』

 通学カバンを背負って勢いよく教室を飛び出す。四階の教室から一気に階段を駆け下りた。上がった息を整えながら靴箱を確認する。長谷川さんのスニーカーはもうなかった。

 長谷川さんは園芸部だから、もしかしたら外にいるのかも。

 そう思って靴を履き替えて花壇の方へと向かう。

「あの、すみません。園芸部の今日の活動って──」たまたま近くにいた園芸部の顧問に声をかける。「とっくに終わったよ」そう言われた。

 そのままひとり帰路に着く。ジャージのポケットに手を突っ込んで、綺麗に折りたたんだ付箋を取り出す。──タンポポのお礼って大袈裟すぎないか。僕が長谷川さんたことってタンポポの花言葉を教えたくらいで、そのお礼が資料綴じって割に合わない。

 とにかく明日お礼を言わないと。

 そう思うけど、そんなタイミングがあるだろうか。いや、ない。絶対にない。声をかける勇気もない。そんなものがあったら今日だって話せているはずだ。こんな状態で僕は長谷川さんにお礼を言えるのだろうか。

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