チューリップ(1)
中学校の入学式数日前、四つ上の姉ちゃんが部屋の扉を勢いよく開けて言った。
──おい、
勉強嫌いの姉ちゃんがこんなことを言うのは珍しいし、自分も中学の予習ができると思って軽い気持ちで引き受けたのがバカだった。姉ちゃんの言う勉強とは、ひたすら花言葉を覚えるというものだったのだ。
そして今日も晩飯を食べ終えたあと、姉ちゃんがノックもせずに僕の部屋の扉を開ける。
「ほら、誠。今日も一つ花の名前を覚えるよ」
正直面倒だけど、黙ってベッドから身体を起こす。昔から染み付いていることがある。姉に逆らうこと、すなわち死と思えってこと。もちろん抵抗なんてできるはずもなく、今日も僕は無駄に花の名前とその豆知識を覚えさせられるのだった。
目の前の姉ちゃんがパラパラと花言葉の図鑑をめくる。はじめは飽き性の姉ちゃんのことだからどうせ数日で終わるだろうと思って付き合っていたけど、なんだかんだ中学入学後の今でも続いている。
花言葉の勉強が始まった頃、その繊細な表紙があまりにも姉ちゃんに合わないから、思わず「それ自分で買ったの?」と聞いた。
「ううん、好きな人にもらったの」姉ちゃんは嬉しそうにそう言った。
それにしても、花言葉の図鑑を読むような男ってどんな人だろう。少なくとも姉ちゃんが今まで好きになったタイプとは毛色が違う気がする。過去に姉ちゃんが付き合った男はみんな派手だった。僕が自分の家にいるだけなのに邪魔者にするやつもいたし、たくさんこき使ってくるやつもいた。その中でも特にひどかったのは、去年の夏頃までに付き合っていた男だ。見た目こそ姉ちゃんのタイプで端正な顔立ちだったその男は、ときにとても暴力的だった。機嫌が良いときは優しいが、姉ちゃんがそいつの気分を害することを言うとすぐに手を上げる。そんな典型的なDV男だった。それに比べたら今好きな人は何倍もましなのかもしれない。
それにしても、
「こんなの、なんの意味があるんだよ……」
聞こえないくらいの小さな声で言ったつもりだったけど、姉ちゃんはしっかりと反応する。
「もしかしたらいつか突然好きな人に花言葉を聞かれたりするかもでしょ? あんたバカじゃないの」
そんなふうになんでも恋愛に結びつける姉ちゃんの方がバカだと思う。その日の花はタンポポだった。
因みに僕、彼女はいないけど好きな人はいる。同じクラスの長谷川さん。中学でクラスが一緒になってまだ数週間だけど、僕は彼女に恋をした。
長谷川さんは誰に頼まれるわけでもなく、毎朝教室に飾られている花の水を換える。ただそれだけ。それが良いなって思っただけ。好きになった理由が単純すぎて自分でも笑えてくる。告白はおろか、僕はまだ彼女とまともに話をしたことがなかった。僕から声をかけたのは入学してすぐの一度だけだろうか。こう言ったら言いわけに聞こえるかもしれないけど、本当にきっかけがない。小野田と長谷川だとそもそも席が遠い。僕が窓際の席で長谷川さんは廊下側の席だから、それなりの理由がないと話せない。僕はクラスの中心にいるような性格でもないから、勢いやノリとかでそんなこともできない。──って、こんなのやっぱりただの言いわけだ。長谷川さんと話すきっかけがないんじゃない。僕はただ話しかける勇気がないだけだった。
姉ちゃんから『タンポポ』についての教育を受けた次の日のことだった。なんの偶然だろう。長谷川さんが校門の前でしゃがみ込んで、なにかを見つめていた。その真剣な眼差しの先にあるのはタンポポだ。
声をかけるべきだろうか。でも入学してから今日まで一度も長谷川さんと挨拶を交わしたことはない。急に「おはよう」なんて言って、ごめん、誰だっけ? とか思われたらどうしよう。──うん、それは怖い。
そう思って、彼女の後ろを素通りしようとしたときだった。長谷川さんがパッと振り向いて、僕の顔を見上げて言った。
「小野田くん、知ってる? タンポポの花言葉の中に『別離』っていうのがあるらしいの」
突然のことで思わずごくりと唾を飲む。とりあえずなんでもないように「知ってるよ」と言う。──なんでもなくなんかない。緊張で声が震えた。最悪だ。
「え、ほんとう⁉︎」
そう言って目を見開く長谷川さんが眩しく見える。この状況でその場を離れるのはおかしいと思い、僕は彼女の隣にしゃがみ込んだ。
春は少しだけ風が強い。その風に長谷川さんの短い髪の毛が揺らされる。僕の元へ運ばれたそれはほのかに甘い春の匂いがした。
「でもさ、どうして『別離』なんだろうね。だってこんなにど根性で素敵な花を咲かせるじゃない? 『別離』ってなんだか……すごく寂しい響きよね」
長谷川さんがひとりごとみたいにブツブツと言う。寂しい響きと言った彼女の表情は本当に寂しいもので、見ているだけの僕まで悲しい気持ちになる。まるで花言葉を通して彼女の感情が流れてくるみたいだ。
不意に彼女の細い指がタンポポに触れる。色白な指先と黄色の花のコントラストに少しの間目を奪われた。
ふと、昨日の姉ちゃんの言葉を思い出す。
『タンポポの花言葉には、別離ってのがあんのよ。その理由はね、──』
「綿毛」
「え?」
何度も暗記した英単語みたいに口をついて出た。それは昨日姉ちゃんが繰り返し言ってきたことだった。
「タンポポって、そのうち白い綿毛になるでしょ? その綿毛が空に飛び立つ様子から『別離』って花言葉ができたみたいだよ」
「へー! でも、それってやっぱり寂しい花言葉ってこと?」
「そうかもしれないね。実際に花言葉の図鑑には、プレゼントとして贈るときに気をつけたいネガティブな花言葉を持つ花として挙げられるくらいだから」
「そっかあ…………」
そう呟く彼女の悲しそうな目に胸のあたりが落ち着かなくなる。なんとか長谷川さんを笑顔にしたい一心で言った。
「でも、ネガティブな花言葉ばかりじゃないよ! タンポポって」
「そうなの?」
「うん、神のお告げとか誠実とか……あ、幸せ! 幸せっていう花言葉もあるよ。タンポポは『別離』ばかりに目を向けると悲しい印象だけど、それ以上にポジティブな花言葉もあるんだよ! だから、タンポポ自体は明るくて素敵な花だと僕は思うよ」
スラスラ言ってからハッと気づく。──うわ、なんか今の僕、かなり気持ち悪いかも。
どうにか誤魔化そうと長谷川さんの方を見る。案の定彼女は不思議そうに何度も瞬きをしていた。瞬きをして──花が咲いたように笑った。
「じゃあ、タンポポは明るくて素敵なお花なんだね!」
続けて長谷川さんが「じゃあさじゃあさ、」と子供みたいに僕のブレザーを引っ張って言う。
「英名は
「ああ……たしかそれは、フランス語に由来するらしいよ」
「フランス語?」
「うん。えっと、たしか
「ど……どんど、りおん?」
ちんぷんかんぷん、といった感じで長谷川さんが首を傾げる。僕は目の前にあるタンポポの葉に手を触れながら言った。
「フランス語で『ライオンの歯』って意味。タンポポのこのギザギザの葉っぱを、それに例えたみたいだよ」
「へー! すごーい! 小野田くんハクシキっ」
長谷川さんがそう言ったところで、朝の会五分前のチャイムが鳴る。
「え、ウソ! ギャーッ! 小野田くん、急ご」
劇画みたいなその形相に思わず吹き出しそうになる。長谷川さんってこんなに賑やかな人だったんだ。
緩みそうになる頬に力を入れて、走り出そうとしたときだった。つと、長谷川さんが振り返る。太陽に照らされたその笑顔は、まるでタンポポみたいに明るかった。
「小野田くん、どうもありがとう。わたしタンポポのお話、一生忘れないかも」
へへ、とイタズラした子供みたいに笑った長谷川さん。
『もしかしたらいつか突然好きな人に花言葉聞かれたりするかもでしょ? あんたバカじゃないの』
──うん、今回は僕の方がバカだった。
だから、今日くらいは姉ちゃんにプリンでも買っていってやろうかと思う。
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