第4話
すべての始まりは二十年前。
死別によりシングルファザーとなった父が新しい伴侶をつれてきた。
相手の女性は、朗らかで逞しく、連れ子の梓にも優しく接してくれた。
亡くなった母は病弱で、生きている間は何度も入退院を繰り返していた。
子ども心に、父は次こそは穏やかに暮らすために、心身ともに頑丈そうな強い女性を選んだのだと思った。
実の母親の記憶は朧げだったが、彼女はいつも泣いていた気がする。
夫と子供を残し、失意の中で亡くなった母には、同情を禁じえない。
父の再婚相手には梓同様、連れ子がいた。
初対面は結婚二十周年を祝ったあのホテルのイタリアンレストラン。
チュール素材のラベンダー色のワンピースを着ていた寿々は、切れ長の瞳でジイっと梓の様子を窺っていた。
『こ、こんにちは……』
初対面はお互いよそよそしい態度だった。
ひとりっ子だったのに、急に姉弟になれと言われても理解が追いつくはずがない。
顔合わせから三ヶ月後、両親は再婚し、ふたりは晴れて義姉弟になった。
『梓!』
一緒に暮らしていく中で芽生え始めたのは、ありきたりな姉弟愛とは別の感情だった。
年月が経つにつれ、劣情が膨らんでいった。
【どうせ人間はいつか死ぬ】
実母の死により、齢六歳にして培われた人生観は、梓に多大な影響を与えた。
梓にとって他人とは、いつかいなくなる存在だった。
進級、進学、引っ越し。離別や死別を含めたらそれこそキリがない。
なん人もの人間が梓の前を通りすぎていく中、寿々だけが特別だった。
『お姉ちゃんがずっとそばにいてあげるね!』
寿々本人も忘れているであろう拙い約束は梓にとって希望の光だった。
それはいつまでも消えずに、梓の胸の中に残り続けた。
寿々だけは、いつまでもそばにいてくれると信じていた。
――ずっと信じていたかった。
(来ないか)
梓は昔に思いを馳せながら、自分の部屋から夜の街を見下ろしていた。
梓は寿々の到着を今か今かと待ちわびていた。
しかし、待ち始めてから二時間以上が経過しても、彼女が部屋にやってくる気配はない。
(当たり前だな)
自分の感情が許されないものだと知りながら、寿々に選択肢を無理やり押し付けた。
寿々にとっては身を切るように辛い二択だ。
決断を迫ったのは、梓のエゴに他ならない。
寿々の望みはなんとなく理解していた。
彼女が欲しいのはあくまでも姉弟という普遍的な繋がりであって、梓自身ではないのだ。
梓の天性の演技力を持ってすれば、寿々の望みは永遠に叶えられたのかもしれない。
ふたりで永遠に同じ刻を歩んでいけるなら、体裁はどうでもよかったが……。
(他の男のところにやってたまるか)
梓に心奪われておきながら、他の男と添い遂げるというなら話は変わってくる。
寿々の上司らしい、いかにも誠実そうなあの男が、梓はどうしても気に入らなかった。
梓だけがあの男がこっそりこちらの様子を探りに戻ってきていたのに気づいていた。
だから、寿々は俺のものだとわざと見せつけてやった。
今まで演じ続けていた弟役をあっさり降りたせいで、すっかり寿々を怯えさせてしまい、かわいそうなことをした。
けれど、不思議と後悔はない。
弟という立場を利用しスキンシップを図れば、寿々はいつも小さくて丸い耳を赤く染めた。
梓を男性として意識する寿々を見るたびに、歪んだ自尊心が満たされる。
あの顔が見たくて、わざと共演した女性達とスキャンダルを演出してきた。
弟と男の狭間で揺れ動く寿々を眺めながら、梓はいつも早くこちら側にこないかと願っていた。
演技をしながらずっと、手ぐすね引いて待ち構えていた。
しかし、肝心なところで失敗してしまったらしい。
約束の時間が迫っている。
寿々は来ないだろう。
シンデレラを逃がした王子の気持ちが今ならわかる。
寿々の連絡先を消そうとスマホを手に取ったその時、ガチャンという音とともに玄関扉のロックが解除された。
「寿々?」
◇
寿々は結論を先延ばしにして、当てもなく街を歩いていた。
梓と姉弟でいられるのは、あと数時間。
いっそ考えるのをやめたいくらいなのに、街には彼を起用した商品のCMや看板が溢れかえっている。
現実逃避は許されなかった。
(そういえば、もう発売されてたんだっけ)
寿々はふと思い出して、大通りにある大型書店に足を向けた。
一年密着して作られた梓のフォトブックの発売日は先週だったはずだ。
寿々の予想通り、書店には大量のフォトブックが平置きされていた。
入口からすぐの一番目立つ場所に置かれているだけあって、売れ行きは上々みたいだ。
(私も懲りないな)
寿々は舌の根も乾かぬうちに梓について考えている自分に呆れながら、フォトブックを手に取りレジまで持って行った。
書店に併設されたカフェでコーヒーを注文し、カウンター席に陣取る。
これで見納めかもしれないと覚悟し、フォトブックを開く。
寿々も知らない俳優としての彼の一面が次々と明らかになり。夢中になってページをめくっていく。
フォトブックの最後は簡単なインタビューが掲載されていた。
『俺、昔から好きな人にだけは一途なんです』
その一文と一緒に載せられていたのは、寿々もよく知る梓の無邪気な笑顔の写真だった。
――国民的俳優のくせに、嘘をつくのが下手すぎる。
「なんで正直に言うかなあ」
涙がジワリと滲み、頬を伝っていく。
願わくばこの一文が嘘であってほしかった。
梓の表情を見れば、たちまちわかってしまう。
梓が演技なしで本心からそう言っているのを、この世で寿々だけが知っていた。
(うん)
寿々は肩に掛けたトートバッグの持ち手を固く握りしめ、意を決して堅牢なセキュリティを潜り抜けた。
梓の部屋にたどり着くまで、ずっと心臓が忙しなく鼓動を刻んでいた。
部屋番号が書かれたゴールドのプレートを眺めながら深呼吸する。
梓がこのマンションに引っ越した時、セキュリティの認証手続きをした後、一緒に部屋の鍵も渡された。
寿々はバッグから予備のカードキーを取り出し、恐るおそるリーダーにかざした。
ガチャンと音がして鍵が開いたようだけれど、寿々はドアノブに手がかけられなかった。
(今がよくてもその先は?)
一寸先は闇。
この扉を開けた先に待ち受けているものがなんなのか、誰にもわからない。
結婚二十周年を迎えた両親のこと、梓のファンのことが一瞬にして頭の中を駆け巡っていく。
どう転んでも大切な誰かをひどく幻滅させるのは確かだった。
(怖い)
覚悟は決めていたはずなのに、臆病の虫が顔を出し身動きが取れない。
そんな寿々にひとりだけ救いの手を差し伸べてくれる。
『寿々?そこにいるのか?』
扉越しのくぐもった声に、ドクンと胸が大きく弾んだ。
なにか言わなければと思えば思うほど、喉がカラカラに渇いていって上手く声が出せない。
『そのままでいいから聞いてくれ』
梓は寿々が扉の向こうにいると気づいていた。怖じ気づく寿々の気持ちを誰よりも理解してくれる。
『俺は昔から寿々が好きだった。それだけなんだ』
声を振り絞り苦しそうに言う梓に、寿々のちっぽけな胸が軋んだ。
最初に、姉弟ごっこを強いたのは寿々だった。
両親が再婚したての頃、泣いていた梓に姉ぶって、『お姉ちゃんがずっとそばにいてあげるね!』と先に言いだしたのは寿々だ。
『寿々が望むなら、また姉弟ごっこをしてもいい。その代わり誰のものにもならないでくれ』
悲痛な叫びが聞こえて、ぎゅっと目を瞑る。
梓が本当に寿々への想いを隠して、ずっと弟の演技をしていたのなら、それはどんなに苦しかっただっただろう。
ひとりよがりの姉弟ごっこを終わらせるなら、今しかない。
寿々は勇気を振り絞り、ドアノブに手をかけた。
ゆっくりと力を入れ、手前に引く。
扉が半分ほど開いたところで、腕を強く引かれ部屋の中に引き入れられた。
パタンと背後で扉が閉まった。
次に感じたのは人肌の温かさと、梓がいつもつけているウッドの香水の匂いだった。
「寿々が好きだ。寿々しかいらない」
「わた、しも。梓が好き――」
梓への想いを口にするのはそれなりの覚悟が必要だった。
けれどもう、誤魔化せない。
「全部俺のせいにしていい。俺が寿々以外の女を好きになれないのが悪い」
梓はこの期に及んで、寿々に逃げ道を与えようとしてくれた。
頑なだった心がスルスルと解けていく。
(同じだ)
どれほど篠原が素晴らしい男性だろうと、きっと寿々は彼とは結婚できなかった。
だって、彼は梓ではないのだから。
寿々は声を震わせながら、恐るおそる口にした。
「一緒に堕ちてくれる?」
いけないことをしているのはわかっている。
梓は芸能人で、寿々の義理の弟だ。
ふたりの関係が明るみになったら?彼の将来はどうなる?
誰かから後ろ指を差されるかもしれない。
しかし、どれも梓を拒む決定的な理由にはなりえなかった。
そっと梓を仰ぎ見れば、同じ熱量で見つめ返される。
「そう言ってくれるのをずっと待ってた」
ふたりなら怖くない。どこまでも堕ちていける。
吸い寄せられるように重ねられた唇に、途方もなく嬉しさがこみ上げる。
二度目の口づけは、身を焦がすほど熱いものになった。
「あ、ん……!はっ……!」
「ずっと寿々にこうしたかった」
寝室に連れて行かれ、ベッドに寝かされた寿々は、寄せては返す波のごとく何度も訪れる愉悦に必死で耐えていた。
梓は声を必死で押し殺そうとする寿々の痴態をうっとりとした目つきで眺めている。
「全部俺のだ」
服を脱がされ、あらぬところを舌でなぞられれば、甘い疼きが全身を駆け巡る。
恥ずかしさの限界はとうに超えていた。
「もう離さない」
梓は身体を重ねている間、同じ台詞を絶え間なく繰り返した。
徹底的に教えるという言葉通り、寿々は梓の独占欲を一身に浴び、どれだけ愛されているのか何度も教え込まれた。
◇
「係長、少しよろしいですか?」
数日後、寿々は仕事終わりの篠原を呼び止めた。
誰かに聞かれないよう、ひとけのない非常階段に篠原を誘導する。
「ごめんなさい」
踊り場までやって来ると、そう言って潔く頭を下げた。
謝罪を受けた篠原は悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ残念そうに眉を下げた。
「理由を聞いてもいいか?」
「好きな人がいるんです」
「もしかして、この間の彼?」
寿々は小さく頷いた。
プロポーズを断っておきながら、真実を話さないのはやはり気が引けた。
「本当にそれでいいのか?水無月にそんな道を選ばせるなんて、どう考えてもまともな男じゃない」
「彼を愛してるんです」
寿々は篠原の批判を真っ向から受け止めた。
「彼じゃないとダメなんです。ごめんなさい……」
梓がどんなに酷い男だろうと、一向に構わない。
寿々は彼から愛される喜びを知ってしまった。
もう何があっても引き返せやしない。
篠原と話をつけた寿々は、その足で梓のマンションに向かった。
いつも通りセキュリティを潜り抜け、インターフォンを押す。
「寿々」
「梓」
玄関の扉が閉まるやいなや、梓に抱きつかれた。
「寿々、会いたかった」
もう我慢の限界と言わんばかりの、甘ったるいキスが降ってくる。
それどころか、梓は寿々の着ているシャツのボタンまで外そうとした。
「あ、待って……。こんな来てすぐいきなり……」
「もう待てない」
キスをされながら服を脱がされる。
シャワーも浴びずに、そのまま寝室に雪崩れ込む。
梓から求められるがままに、二度三度身体を重ねたら、ようやくひとごこちつく。
「なあ、寿々。ここに住まない?俺、寿々に会えなくて、もう死にそうなんだけど」
梓は早くも瀕死を訴えた。
冬に始まるサスペンスドラマがクランクインしたばかりの梓は、ここのところ朝から晩まで撮影に忙殺されている。
ふたりの時間が容赦なく削られ、不満がたまっているらしい。
「いっそ俳優なんか辞めて普通に就職するか。そうしたらもっと時間の融通が利く」
「それはダメ。俳優は梓の天職なんだから」
この才能を生かさないなんてありえない。
梓が俳優を辞めたら日本のエンタメ業界にとっては計り知れない損失だ。
「天職ねえ……。寿々の弟役を演じる方がよっぽど難しかったけど」
梓は猫みたいに寿々の胸元に頭を摺り寄せた。
「やっぱり一緒に住んで」
「私がここに住んだら変じゃない」
しつこい梓に寿々は呆れ気味に答えた。
「平気だろ。姉弟って肩書きは、こういうときだけ便利だ」
梓はクスクスとさも楽しそうにほの暗い笑みを浮かべ、寿々の胸の谷間に顔を埋めた。
都合のいいときだけは弟面をする梓に、寿々は内心呆れてものも言えなくなる。
どうやら、とんでもない男に捕まってしまったらしい。
「寿々」
口を尖らせてキスをねだる梓に応え、唇を重ねる。
梓から囲い込まれた寿々に、もはや逃げる術はない。
けれど、そもそも逃げるつもりはない。
ふたりでどこまでも堕ちていこうと、あの時決意したのだから。
おわり
嘘つき義弟の不埒な純愛 雪野宮みぞれ @mizore_yknmy
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