第3話
【しばらくロケでいないから来なくていい】
朝の通勤電車の中、吊り革に掴まっていた寿々はため息をつきながら、スマホをバッグの中にしまう。
梓から二、三日おきにきていた連絡がパタリと途絶えてから早二週間。
ようやく、連絡がきたと思ったらこんなメッセージで、寿々はがっかりしていた。
(私に会いたくないのかな?)
顔を合わせたくない理由なら、寿々にだってあるけれど、梓からこれだけ明確に避けられると流石に落ち込む。
寿々は気落ちしたまま出社し、うつろな表情でパソコンに向かった。
機械的にキーボードを押してみたものの、内容はちっとも頭に入らない。
「どうした?ずいぶんと浮かない顔をしてるな」
コトンと缶コーヒーが、デスクに置かれる。
エレベーター横にある自販機で、寿々がよく買っている甘さ控えめのカフェラテだ。
「ありがとうございます」
寿々は缶コーヒーを手に取り、声の主を仰ぎ見た。
コーヒーを差し入れしてくれたのは篠原だった。
「何か悩んでいるなら聞くぞ」
寿々はついギクンと肩を揺らした。
部下のメンタルチェックは上司の仕事の一環だから?
それとも、先日の告白は本気だという意思表示?
寿々はまだ篠原からの交際の返事を保留にしている。
「今夜また食事に行かないか?美味いオイスターバーがあるんだ。地中海産の白ワインによく合う」
篠原は弾けるような笑顔で、寿々を食事に誘った。
篠原からのアプローチに、ドギマギすると同時に胸が苦しくなっていく。
「すみません。今日は用事が……」
「そうか。じゃあ、また誘う」
篠原があっさり引き下がってくれて、ホッとした。なんともいえない罪悪感に今にも押し潰されそうだ。
……本当は用事なんてない。
寿々は篠原から真摯に向けられる好意がただただ恐ろしかった。
◇
仕事が終わりアパートに帰り着いても、スマホを片時も離さず眺めていたが、その後も梓からのメッセージは届かない。
ときおり企業からの販促メッセージが通知されるだけで、肝心の人から連絡はなかった。
(バカみたい……)
寿々は気分変えるために、なんとはなしにテレビをつけた。すると、ちょうど梓が出演するバラエティ番組が放映されていた。
発売されたばかりのフォトブックの宣伝だろう。
寿々は膝を抱えながら、梓が出演するドラマの一部分を切り取ったVTRを眺めた。
梓は迫真の演技でヒロインを魅力している。
画面の向こう側にいる彼は、寿々に接する時とはまるで別人だった。
ヒロインを慈しみ、愛し、守る。誰もが理想とする心優しい彼氏役を上手に演じていた。
檻から解き放たれた獣にも似た、先日の雄々しい表情とは似ても似つかない。
(いつの間にこんなに大人になったの?)
梓の演技を見るのはいつ振りだろう。
この仕事を始めたばかりの頃の彼とは、髪の長さや体格も、演じる役柄すら変わっている。
それ以上は見てられなくて、寿々は十分ほどでテレビの電源を落とした。
もし梓の瞳にチラとでもヒロイン役の女性に対する恋慕の情が映っていたら。
そう考えるだけで、胸が苦しくなる。
寿々の母が離婚したのは、寿々が四歳の時だ。
本当の父親は美麗な面差しで、寿々も子どもながらに”かっこいいパパ”が自慢だった。
父親への愛情が軽蔑に変わったのは、離婚の契起となった喧嘩を立ち聞きしてからだ。
『お前なんかよりよっぽど顔もいいし、金も持っている』
そう言って父は母を突き放した。母をなじる父の顔は醜く変わり果てていた。
父はその面差しを生かし、母よりも条件のいい金持ちの女性へ乗り換えたのだ。
離婚が成立するやいなや、流れるように再婚したと、あとから親戚に聞かされた。
泣き崩れる母を、顧みない父がひたすら憎かった。
それ以来、寿々には恋愛に対する苦手意識が芽生えた。
そして、男性から関心を持たれることに嫌悪感を抱くようになった。
彼らが口にしているのは本心なのか、嘘なのか。はたまた別の思惑があるのではないか。いつも頭をよぎって、信用できなくなる。
ただし、それが”弟”なら話は別だ。
弟というある種の繋がりは寿々を安心させた。
梓は男ではなく、弟だと。
頭の中で肩書を塗り替えてしまえば、梓を避けずに済んだ。
けれど、もう。
寿々には梓が男性にしか見えない。
いや、もっと前から寿々にとって梓はただの男だった。
(なんでキスなんか……)
頻繁に女性との交友関係が取り沙汰される梓は、寿々にとって最も嫌悪すべき類の男性だった。
それなのに、キスをされて嫌がるどころか、あまつさえ喜びを感じた自分が憎らしい。
中途半端な自分が一番嫌だった。
◇
結婚二十周年の食事会当日。
寿々はお気に入りのネイビーのセットアップを着て、都内某所にあるハイクラスホテルのロビーで両親の到着を待っていた。二十年前、三階にあるイタリアンレストランで四人は初めて顔を合わせた。
寿々はお姫様みたいなふわふわのチュールワンピース身につけ、梓はベストに半ズボン、ワイシャツというなんとも窮屈そうな服装をしていた。
父親の後ろに隠れていた梓を見て、寿々は年上の自分がリードしなきゃと勝手に思い込んだ。
今思えばあの時から、寿々は梓の前では精いっぱいの虚勢を張っていた。
「寿々〜!」
「お母さん、お父さん、こっちだよ!」
待ち合わせの時間ぴったりに両親が揃ってやってくる。
「あれ?梓は?まだ来てないの?」
梓の所在を尋ねられた寿々は返答に困った。
結局、あれ以降梓からの連絡はなかった。
もしかしたら、食事会はキャンセルするつもりなのかもしれない。
しかし、寿々は両親にその理由を話す術を持ち合わせていない。
寿々が言葉に詰まったその時、ホテルのエントランスから見慣れたシルエットの男性が現れる。
トクンと心臓が跳ね上がる。
「ごめん。撮影が押して、少し遅れた」
「忙しいのに来てもらって悪いな」
「大事な記念日だろう?来て当然だよ」
申し訳なさそうにする父に、梓はさらりと言って返した。背中に隠れていた昔の面影はどこにもない。
「父さん、母さん。あらためて、結婚二十周年おめでとう」
「ああもう!本当にイイ男に育ったわね!」
「母さんのおかげだよ」
「ふふっ。うちの職場もいつも梓の話題でもちきりなのよ」
四人はロビーから三階にあるイタリアンレストランに場所を移した。
梓がいると目立つので、お店に頼んであらかじめ個室を用意してもらった。
家族で囲った丸テーブル。寿々の左隣には梓が座る。
「まあ!美味しそう」
「すごいなあ!」
食前酒に続いて運ばれてきたアンティパストは、カツオのマリネ。オレンジを使ったソースがかけられている。
両親は美味しそうに口に運んでいたけれど、寿々には味が感じられなかった。
それでもなんとか完食して、次の皿を待つ。
食事中の話題は最近各所でご活躍中の梓のことばかりだ。
「あらあ!そんなに朝早くから撮影してたの?」
「朝しか貸してもらえなくて、撮影が終わるまで毎朝四時起き」
「それは大変だったなあ」
普通の人とかけ離れた生活を送る梓に、両親共に興味津々だ。
寿々も二人に合わせて相槌を打っていたら、膝の上に置いていた左手に突如異変を感じた。
(ん?)
さりげなく視線を下に落とし、何が起こっているのか確認する。なんと、梓の右手が寿々の左手をすっぽりと覆っていた。
(梓?)
梓は寿々の手を握っているなんておくびにも出さず、涼しい顔で両親の話に応じていた。
「うん、そう。最近はクランクインに備えてジムに通ってる。父さんこそ少しは鍛えた方がいいよ。腹に肉がつき始めてる」
「そうか?うーん実は最近コレステロールの数値がなあ……」
「そうなの。油っぽい食事は控えてっていつも言ってるのに、完全に食べ過ぎなのよ」
「でもなあ……」
おしゃべりに花が咲いているわけだが、寿々は今それどころじゃない。
梓は手を握るだけでは飽き足らず、まるで恋人同士みたいに五指をそれぞれの隙間に絡ませる。
小指で手の甲をすりすりと撫でられて、ぞわっと鳥肌がたった。
「寿々は?最近、仕事は忙しいの?」
「え!?」
母から急に水を向けられた寿々は、素っ頓狂な声を上げた。
「え、あ、うん!まあまあ忙しいよ」
不審に思われないように、苦心して言葉を捻りだす。
どういうつもりなのかと、横目でチラリと梓の様子をうかがえば、彼は満足げに口の端を上げ、不敵に微笑んだ。
(……わざとだ)
よりにもよって両親の目の前で。
今まで模範的な弟を演じてきたのだから、これぐらいは許されるだろうと言わんばかりだ。
寿々は気もそぞろになりながら、食事を続けた。
幸いなことに、両親はテーブルの下で繰り広げられる攻防に最後まで気づかなかった。
無駄にハラハラさせられた食事が終わり、ほっと息をついたのも束の間。
「上の階にバーラウンジがあるんだ。せっかくだし四人で飲み直さないか?昔このホテルに来た時はまだ、ふたりとも小さかっただろう?」
「あらいいわね!四人でお酒が飲めるなんて嬉しいわあ!」
父の提案に母は嬉々として賛同した。カウンター席しかなさそうなバーラウンジだったら、こっそりテーブルの下で手を握られることもないだろう。
梓は意気揚々とバーラウンジに繰り出そうとする両親に、にっこりと笑いかけた。
「実はふたりに俺達からもうひとつプレゼントがあるんだ」
まったく心当たりがない『プレゼント』の存在に寿々は、首を傾げた。
梓はジャケットの内ポケットからあるものを取り出した。
「このホテルのスイートルーム。結婚二十周年の記念にふたりで泊まっていきな」
梓が両親の前に差し出したのは、ホテルのロゴが刻印されたルームキーだ。
一体いつの間にこんな代物を準備していたのか。
豪勢なプレゼントに驚いた両親は互いに顔を見合わせた。
「いいのか?」
「もちろん。そのために用意したんだ。なあ、寿々」
「あ、うん……」
完全に梓のスタンドプレーで寿々は何も聞かされていなかったが、正直に言うわけにもいかず無理やり話を合わせる。
「じゃあ、せっかくだし……ねえ?」
「そうだな」
両親は顔を綻ばせ、梓からルームキーを受け取った。
「ふたりとも、いい夜を」
梓は恥ずかしそうに肩を寄せ合ってレストランをあとにするふたりに手を振った。
「さて、これからどうする?バーでも行く?俺はどっちでもいいけど」
「……行かない」
梓への返答は思いの外、冷ややかなものになった。
この数週間、こちらからの連絡は無視した上に、プレゼントの件についてもなんの相談もなかった。
寿々なんて、何日も寝不足が続いたというのに、なんで平然としていられるの?
やっぱりあのキスは気まぐれで、弄ばれているとしか考えられない。
「私、帰る」
「逃げるなよ」
行く手を阻むように腕を掴まれ、ついカッとなる。
「離してよっ……!」
「もしかして、怒ってる?」
「当たり前でしょ!」
あんなキスをしておいて、寿々が怒らないと思っていたのか。
さっきだってテーブルの下でコソコソと手を握ってきた。
本当に信じられない。
「私をからかって楽しい?」
「は?」
「なんでキスなんかしたの!可愛い弟でいてくれたら、それで――」
姉弟のままなら、ずっと一緒にいられたのに。
姉弟として仲良く人生を歩んで行けたら、どれほどよかっただろう。
梓は前髪をグシャリとかきあげ、鋭い瞳で寿々を見下ろした。
「じゃあ、選べよ」
「選ぶって?」
「姉弟ごっこをやめて、俺のものになるか。このまま見ず知らずの赤の他人になるか」
「姉弟ごっこ……」
「そうだよ。お互いに面倒見のいい姉と手間のかかる弟を演じていた。不毛な芝居はもう終わりにしよう」
先ほどまでのよき息子の顔はどこにいったのか。
目の前には、寿々を籠絡するひとりの男が立っていた。
「その気があるなら今日中に俺の部屋まできて。ただし……覚悟はしておけよ」
梓は吐息をたっぷり含ませながら寿々の耳元で甘く囁いた。
「寿々が誰の女か朝まで徹底的に教えてやる」
梓はどこか楽しげだった。
鼓膜を震わせる享楽的な誘惑に抗えず、頭の芯が痺れるのがわかった。
梓は寿々を残し、先にひとりで帰ってしまった。
(どうしたらいいの?)
寿々はしばらくその場から動けないでいた。
十分ほどしてからようやく個室を出て、店員にお会計を尋ねたら、支払いはすべて梓が済ませていた。
寿々はおぼつかない足取りでレストランをあとにした。
ホテルのエントランスを抜け、ふらふらと街を彷徨い歩く。
(ずっと変わらないと思っていた……)
恋人よりも姉弟のほうが近しい関係だと思っていた。
けれど、梓はすべてを断ち切ろうとしている。
もし寿々が誘いを断れば、梓は容赦なく家族の縁を切るに違いない。
(私……)
いつから梓が好きだったのだろう?
梓から見捨てられそうになって、初めて自分の気持ちに気がつくなんて。
苦しくて、苦しくて、今にも胸が押しつぶされそうだ。
義理の弟にこんな感情を抱くなんて、きっと許されない。
梓を好きだと自覚した寿々は、決断を迫られていた。
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