第2話
「もうっ!信じられない!」
少し早めに出勤した寿々が、今日のタスクを整理していたその時、オフィスの入口から怒声が聞こえた。
いつもはのほほんとしている後輩が、憤慨しながらこちらに歩いてくる。
寿々は不穏な気配を感じ、思わず尋ねた。
「どうしたの?」
「見てくださいよ、この下世話なニュース!」
彼女がそう言って見せてくれたスマホには、とある週刊誌のニュースサイトが表示されていた。
【水無月梓、またしても共演者とドラマの打ち上げで】という下世話な文字が踊っている。
「梓くんがこんな三流女を相手にするわけないじゃないですか!まーたヤラセ!でたらめです!」
彼女はムキになりながら、ドスンと寿々の隣に座った。
デスクが隣の彼女は自他ともに認めるかなり強火の梓ファンである。梓の情報を毎日かかさずチェックしては、SNSの投稿にこまめにコメントを入れている。
梓と義理の姉弟であることは、会社では内緒にしている。
サインや私物を求められても困るからだ。
(うーん。またか……)
まだ怒りがおさまらない後輩の様子を眺めながら、寿々は心の中で苦笑いした。
(それにしても、これで何回目?)
梓はこれまで共演した女性と数々の浮名を流してきた。
しかし、だいたい熱を上げているのは女性だけで、梓にその気はないみたいだ。
その証拠に梓の部屋の中には、女性を連れ込んだ形跡がない。
単なる友人以上の関係を匂わせるものは一切出てこない。
お酒の力が手伝ったその場のノリだけという線もありえそうだ。
(まあ、しかたないか。梓だし)
姉の寿々に対してもスキンシップが過剰な時があるくらいだ。
たとえ本人にその気がなくても距離感が近い分、女性から誤解されることも多そうだ。
先ほどチラとみた写真。
モノクロな上に、ところどころボカしてあったが、ふたりは今にも唇が重なりそうな距離で見つめ合っていた。
お相手の女性は、若手でも百年に一度現れるかどうかの逸材と言われているらしい。
人懐っこい明るい性格と、梓と並んでも見劣りしない美しい顔立ち。
なんて絵になるのだろう。
そう思った瞬間、ざらりと胸の奥をなにかが横切っていく。
「水無月、今いいか?」
篠原から声をかけられた寿々は、ハッと我に返った。
パソコンの時刻を見れば、いつの間にか就業時間が始まっていた。
寿々は慌てて居住まいを正した。
「はい、なんでしょう」
篠原は手元の資料を寿々に見せた。
「このクライアントなんだが、前任者からの引継ぎの件で、午後時間があれば同行してくれないか?」
「はい。構いません」
資料を確認し寿々は小さく頷いた。
家庭の事情で二週間前に退職した同僚の担当先のいくつかは、寿々が受け持つことになっている。
篠原が見せた資料もそのうちの一社だ。
「そうか、ありがとう。よろしく頼む」
篠原が去っていくと、寿々はふうっと息を吐き出した。
◇
「すーずーさん!ここいいですか?」
お昼休みになり、休憩スペースで弁当を食べていた寿々のもとに、例の後輩がやってくる。
「どうぞ」
彼女は寿々の隣の席に腰かけ、コンビニで買ってきたと思しきカップスープとサンドイッチをテーブルに置いた。
ハムサンドにかぶりつき、スープを啜るとまずひと言。
「ねえねえ、寿々さん。篠原係長とはどこまで進んでるんですか?」
「進んでる?引継ぎの話?」
「違いますよ!もう篠原係長から告白されたんですかー?」
「え!?」
思いもよらぬ質問をされて、寿々は椅子から飛び上がりそうになった。
休憩室にふたりきりで本当によかった。
「みーんな言ってますよ。篠原係長は寿々さんに気があるって」
「誤解だよ。仕事だから!」
「えー!でも、寿々さん美人だし、篠原係長とお似合いですよ?」
「美人だなんて、そんな……」
急に容姿を褒められて、照れながら髪を耳にかける。
目は切れ長で、顔も骨ばっているせいか、寿々はひとから怖いと言われることもしばしばだった。
「知ってます?篠原係長ってあの
「え!?本当?」
博映堂とは業界最大手の広告代理店である。
その御曹司がこんな小さな会社にいるとは考えにくいけれど。
「ほら、うちの社長って元博映堂の営業部長だったじゃないですか?今の博映堂の副社長とも大学時代、同期だったらしいんです。この間、こっそり立ち聞きしちゃったんですけど、実は篠原係長、今は後継者になるべくいろんな会社で武者修行してる最中なんですって」
「そう、なんだ……」
もし彼女の言う通りなら、納得できる部分もある。
篠原は物腰も柔らかく、性格も穏やかだ。
どこか落ち着きのある雰囲気は、育ちの良さからくるものだったのだ。
「ね?俄然、篠原係長に興味が湧いてきません?」
「私は――」
後輩ちゃんの追及から逃れようと視線をそらしたそのとき、テーブルの上に置いたスマホが新着メッセージの到着を通知した。
寿々はこれ幸いとばかりにスマホを手に取った。
【カウンターの上の時計って寿々の?】
メッセージの送り主は梓だった。
梓も一日経ってようやくカウンターの上の腕時計の存在に気がついたらしい。
【うん。そう】
しばらく預かっておいてと、続けて返信しようと思っていたら、今度は電話がかかってくる。
寿々はスマホを持ち、休憩室から出て、廊下の突き当たりまで歩いた。周りに人がいないのを確認して、ようやく電話に応じる。
「どうしたの?」
『時計、届けようか?』
「いいよ。今度で」
時計ひとつで大げさすぎる。
たしかにあの時計は梓からもらった物だけど、時刻はスマホで確認すればいいし、手元になくても差し当たって困らない。
『今日は早く帰れるし、届けてやるよ。ついでに外で食事する?この間、ドラマの打ち上げで連れていかれた沖縄料理の店がやたら美味くて――』
打ち上げと聞いて真っ先に思い浮かべたのは、始業前に見せられたあの写真だった。
「いいってば!」
気がつけば、寿々は声を荒らげていた。
すぐさまハッと我に返り、慌てて会話を取り繕う。
「ほ、ほら!いくら姉弟だからって、そんなに頻繁に会ってたら梓の彼女だってよく思わないでしょ?」
焦れば焦るほど墓穴を掘っていくのが、自分でもわかった。
いくらなんでもこれでは感じが悪すぎる。
まるで梓が週刊誌に撮られたのを、遠まわしに皮肉っているみたいな言い方だ。
『そうかもな』
梓は怒るでもなく、慌てるでもなく、淡々と告げた。
寿々とは真逆の感情を抑えた大人の振る舞いに、恥ずかしさが一気に込み上げてくる。
「とにかく、時計は次に会った時でいいから!」
そう言って寿々は無理やり通話を終わらせたのだった。
◇
「無事に終わってよかったな」
「はい。そうですね」
無事に顔合わせを済ませ、取引先から篠原と肩を並べて帰る。
前任者同様、寿々とも良好な関係を築いてもらえそうで一安心だ。
「水無月が次の担当で安心だな。水無月の担当先はおしなべて、うちの会社への評価が高い。堅実な営業の成果だな」
「そんなことないです」
「謙遜するなよ」
篠原はハハッと朗らかな笑い声を聞いて、寿々はふと昼休みの後輩の言葉を思い出した。
『みーんな言ってますよ。係長は寿々さんに気があるって』
ボンッと顔が熱くなっていく。
(変なこと言うから意識しちゃうじゃない……!)
篠原の人心掌握のための社交辞令だと必死で言い聞かせる。
「そうだ、食事でもして帰らないか?この辺りにいい店があるんだ」
「え?」
「嫌か?」
寿々はしばしの間、逡巡した。
ここで断ったら彼女の言葉を間に受けたみたいにならないか?
篠原が寿々に好意を寄せているなんて、自意識過剰もいいところ。
「いいえ。お供させていただきます!」
寿々は自惚れた考えを振り切るように勢いよくそう答えた。
(嘘でしょ……)
激しい後悔に襲われたのは数分後のこと。
寿々は呆然としながらバロック調の絢爛豪華な店構えのフレンチレストランを見上げていた。
まさか、どこをどう見ても一流のレストランに連れてこられるなんて。
「あ、の。こういったお店にはよく……?」
「ときどきな」
篠原は慣れた足取りで店の中に入って行った。
祝前日の金曜日とあって、店内は混雑していたが、支配人の計らいで奥の個室に通される。
それだけで、篠原がやんごとない身分だとわかった。
「何か飲むか?」
席に着きメニューを開いた篠原にすすめられるままに、ワインを注文する。
お酒で誤魔化さないと場違いの店の雰囲気に呑まれてしまいそうだった。
「うわあ!美味しい……!」
「よかった」
運ばれてきた料理とワインの感想を正直に述べれば、篠原は柔らかく目尻を下げて微笑んだ。
個室に通されたおかげで、むしろ人目を気にせずコース料理を堪能できたのかもしれない。
「実は水無月に話があるんだ」
「なんでしょうか?」
デザートプレートに舌鼓を打っていた寿々に、篠原は改まった態度で告げた。
こんな立派なお店に連れてきてもらったわけだし、仕事の話だろうか。
「俺と結婚を前提に付き合って欲しい」
寿々は思わず目を瞬かせた。
(今、なんて……?)
寿々の心の声が聞こえたのか、篠原はもう一度同じ台詞を口にした。
「俺と結婚を前提に付き合って欲しい」
今度は聞き間違えようがなかった。
酔いが一気に醒め、頭の一部が冷静になっていく。
「嫌なら断ってくれて構わない。仕事に支障はきたさないつもりだ」
「な、んで……私を……?」
「水無月が好きだからに決まっている」
根回し一切なしの直球ストレートに寿々はたじろいだ。
「クールなようでペットボトルについているマケをちまちま集めているところとか。困ってる後輩を放っておけないお人好しなところとか。全部好きだ」
篠原は本当に寿々を細かいところまでよく見ている。
寿々の顔が燃えるように熱くなった。
たまらなくなって篠原から目を逸らす。
「少し、考えさせてください……」
「そうだな。返事は急がないから、ゆっくり考えてくれ」
篠原は紳士だった。帰り際、財布を出せば、笑いながら「もう済んでる」と言われた。
お会計までもがスマートだった。
「家まで送る」
律儀に寿々を送り届けようとする篠原とマンションまでの道のりを歩きながら、物思いにふける。
(どうして私なんだろう)
篠原は仕事もできて、身なりもきちんとしており、部下からの信頼も篤い。清潔感が漂い、さりげない気遣いもできる。
その上、大手広告代理店の御曹司ときたもんだ。
非の打ち所のない完璧な人。
結婚するならこういう彼のような人が理想的だろう。
それなのに、寿々は浮かない表情を浮かべている。
交際を躊躇う理由が一切見つからないのに、なぜかあのとき言葉に詰まった。
(結婚?私が?)
まるで、遠い国の出来事みたいに現実感がない。
二十代も後半に差し掛かっているというのに、寿々はこれまで自分が結婚するとは夢にも思っていなかった。
「寿々」
思案に暮れる寿々を現実に呼び戻したのは、篠原ではなかった。
「梓?」
寿々の暮らすマンションの前。待ち伏せをしていたのは、黒色のマスクをしてキャップを目深にかぶった梓だった。
「どうしたの!?」
寿々は梓の姿を認めるとすぐさま彼のもとへ駆け寄った。
「時計、俺があげたやつだったから」
梓がポケットから取り出したのは、たしかに寿々が先日忘れていった腕時計だった。
「知り合いか?」
「弟です」
寿々が後ろを振り返り首を傾げる篠原にそう告げると、梓から腰に手を回される。
独占欲すら感じられる行動には、篠原に対して敵意があるとしか思えない。
「あんたもこの顔に見覚えがあるだろう?」
梓はマスクを引き下ろし、頭からキャップをとった。
「水無月梓?」
篠原がキョトンと目を丸くしている。
芸能人に疎そうな篠原でさえ、すっと名前が出てくる程度には梓の顔と名前は広く知られている。
「驚いたよ。水無月という苗字は確かに珍しいけれど、まさか姉弟だとは……」
「姉さんに話があるから帰ってくれる?」
梓は取ってつけたような笑みを浮かべながら、冷淡に言い放った。
『姉さん』の部分に含みがあるように聞こえたのは気のせいだろうか?
今まで梓から姉さんと呼ばれた記憶はない。
「そうだな。今日は帰ろう。水無月、また来週会社で」
「はい」
篠原の姿が路地の角から見えなくなるやいなや、寿々はキッと梓を睨んだ。
「なんでわざわざ顔を見せたの?」
梓が顔を見せなければ、姉弟だと知られずに済んだのに。
篠原が他人に言いふらすような人でなくて、本当によかった。
「俺がいなかったら、今からあの男を部屋に連れ込むつもりだったのか?」
梓は寿々の質問には答えず、逆に尋ね返した。
率直な物言いに、かあっと顔が熱くなる。
なぜか後ろめたい気持ちになり、目を伏せる。
「やめて。係長とはそういう関係じゃ……」
「あの男に下心がないと思ってた?」
「変な言い方しないで。係長とは食事しただけ。夜遅いからってわざわざ家まで送ってくれたのよ」
誰に対する何の言い訳だろう?
梓は寿々の頬に指を滑らせ、上を向かせた。
「顔が赤い。酒も飲んだ?」
「一杯だけ……」
「他の男につけいる隙を与えるなよ」
口籠りつつ答えると、梓の纏う雰囲気がヒリヒリしたものに変わった。
空気が二、三度下がったような気すらした。
「寿々が好きなのは俺だろう?」
「……え?」
呆けた顔で聞き返せば、梓は明らかに苛立った。
「本当に鈍すぎ。俺、もう二十六歳だぞ。一人暮らしだってそれなりに長いんだ。掃除も洗濯だって自分でできる。寿々が通いやすいようにわざと口実を作ってやっただけ」
梓は勘の鈍い寿々に呆れ果て、大きく息を吐き出した。かと思えば鷹のような鋭い瞳で寿々を射抜いた。
「いい加減、素直に認めろよ」
「ん!?」
寿々は突然顎を掬い取られ、唇を梓のもので塞がれた。
後頭部を支えるようにホールドされ、強引に生温かい舌をねじ込まれる。
口腔の奥まで蹂躙されて息が苦しい。
「や、やめっ……」
「うるさい」
息継ぎの合間に訴えても、梓はまったく聞く耳を持たなかった。
それどころか、やめろといくら胸を叩いても、口づけをやめる気配は一向に感じられない。
(だ、め……)
こんなの間違ってる。姉弟なのにおかしい。頭の中で激しく警鐘が鳴る。
梓は芸能人で、スクープを狙った記者が張りついている可能性だってあるのに、いくらなんでも無頓着すぎる。
寿々は激しいキスで朦朧とする意識の中、梓のスキャンダルのことを思い出した。
あの女性ともこうしてキスしたのかもしれない。
「やっ……!」
寿々は渾身の力で梓を突き飛ばした。
酸欠ではあはあと肩で息をする。
二、三歩よろけた梓は傷ついたような濡れた瞳で寿々を見つめていた。
――梓も所詮『あの人』と同じ男なのだ。
怒りと恐怖で頭がぐちゃぐちゃだった。
まるで、一緒に過ごした二十年間が、なかったことにされたみたいで。
寿々は後ろを振り返らずに、マンションの建屋の中に入り、自室に駆け込んだ。
後ろ手に扉を閉めた途端、涙が溢れて止まらなくなる。
(なんで?)
いつから梓は寿々をひとりの女として見ていたのだろう。
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