嘘つき義弟の不埒な純愛
雪野宮みぞれ
第1話
「あ、見て!
取引先から帰る途中、駅前を歩いていると誰かが嬉しそうに叫んでいる声が聞こえた。
女性が指さしていたのは、駅に隣接する十階建てのビルの上。空の隙間を埋めるように設置されている大きな看板だ。
そこには十代から三十代の女性に圧倒的な支持を受けている俳優、水無月梓の顔がドアップで掲示されていた。
きっと、あの看板は二週間後に発売される新しいフォトブックの宣伝用に作られたものだろう。
七月の眩しい太陽の下で、はにかみながら笑っている彼の表情を、寿々も目を細めて眺める。
すると、今度は別のところから黄色い声が上がった。
「私、梓くんのファンなんだ!撮っちゃおうっと!」
修学旅行中なのだろうか。揃いの制服を着た女子中学生の集団は、スマホ片手に看板を撮っていく。
往来の邪魔にならぬよう気を配りながら看板とのセルフィーを狙うものの、画角が悪いのかうまく撮れない模様。
寿々は見かねて彼女達に声をかけ、写真を撮るのを手伝ってやった。
「ありがとうございました!」
会釈して駅の方に歩き出す彼女達に応えるように、手を振り返す。
(相変わらず、大人気ね)
写真ひとつでああも盛り上がれるのは、若さと情熱の表れなのだろう。
寿々は気を取り直し、鎖骨まであるストレートの黒髪を靡かせながら再び歩道を歩き始めた。
寿々が働く広告代理店があるのは、最先端のファッションやカルチャーが集まる街。
ふたつの大通りに挟まれた八階建てのオフィスビルの中の七階だ。
「ただいま戻りました~!」
夕方五時を過ぎ、取引先から帰社した寿々は、フロアに残っていた同僚達に軽く声をかけていき、自分のデスクに着席した。
寿々が営業職としてこの広告代理店に入社したのは五年前。
得意先への挨拶回りと新規開拓が主な仕事だ。
営業先も何年も付き合いがある会社ばかりだし、社員もいい人しかしない。
「お疲れ様」
「お疲れ様です。
寿々は上司である篠原からの労いの言葉を受け、軽く頭を下げた。
篠原は寿々の直属の上司で、年齢は三十代前半。
物腰が柔らかく、パーツの凹凸がはっきりした凛々しい面構えをしていて、女性社員からの人気ぶりは他の追随を許さない。
部下の寿々も篠原が上司で、よく羨ましがられる。
「そのまま直帰してくれても構わなかったが……」
「報告書を今日中に仕上げたくて。それに、このあとは人と会う約束をしているんです」
「なんだ、用事があるのか。飲みに誘おうと思っていたのに」
「すみません。また、今度」
寿々はパソコンに向き直り、宣言した通り手早く報告書を仕上げて篠原に提出した。
オフィスを出た頃にはすっかり日も暮れ、一九時を過ぎていた。
(うーん。ちょっと遅くなったかも)
報告書の作成に手間どった結果、想定よりも時間を食ってしまい早足で駅まで向かう。
寿々がその足で向かったのは会社の最寄り駅から三駅となりにある、駅直結の真新しい複合ビル。
地下二階から七階までは高級ブランドショップや流行の飲食店などのテナントが入っている商業エリア。八階から二十四階までは名の知れた大企業が看板を掲げるオフィスフロア。二十五階から上の階は分譲マンションになっている。
寿々はいくつかの手順を踏んで、住人専用のエントランスのオートロックを潜り抜けた。
エレベーターに乗りこむやいなや、手首を生体認証のリーダーの上にかざした。
ピッという電子音が鳴り、自動的にエレベーターが動き出す。
最新式のセキュリティをすべて突破した先が、本日の目的地だ。
寿々は高級感のあるアイアンドアの手前で立ち止まり、その脇にあるインターフォンを鳴らした。
待つこと数秒。
やがて、玄関扉がゆっくりと開かれる。
「いらっしゃい」
扉が開かれると同時にはにかんだ笑みを見せたのは、数時間前、女性達が黄色い声を上げていた水無月梓その人だ。
パッチリとした二重。スッと高い鼻の稜線。甘く色づく唇。白くこぼれる歯。
看板の写真より随分と目が腫れぼったいのは、たぶん寝起きのせい。
「こんな時間まで寝てたの?」
「昨日、夜中まで撮影で……」
梓は欠伸をかみ殺しながら答えた。
たしかに髪には寝癖がついていたし、梓が着ているのはパジャマ代わりのスウェットの上下だ。
本当に今し方起きたばかりみたい。
ただし、ひとつだけ嘘が含まれている。
「正直に言いなさい」
寿々は圧をかけるために、あえて機嫌よくニコリと微笑んだ。
寿々は梓の表情を見ただけで彼が噓をついているのか、いないのかわかるのだ。
今を時めく人気俳優にして、数々の映画賞を総なめにしてきた経歴を持つ梓でも、寿々の前では演技が通じない。
それはふたりが過ごしてきた、日々の賜物だ。
梓は観念したのか、首の後ろを掻きながら白状した。
「……ゲームしてた」
「またやってたの?ほどほどにしとかないと、クマだらけになるよ?梓はすぐ顔に出るんだから」
寿々はむぎゅっと梓のスベスベの頬をつまんだ。梓は昔から顔がすぐにむくみ、クマができやすい体質なのだ。
「ファンの女性を失望させちゃダメでしょ?」
「気をつける」
寿々から叱られた梓は拗ね気味にサッと目を逸らした。
子供の時みたいにゲームは一日三時間までと、大人になっても口を酸っぱくして言わなければならないのも変な話だ。
「あーもう!またこんなに汚して……!」
寿々は部屋の中に入るなり、早速ゴミ袋を広げ、テーブルの上の使用済みの割り箸や弁当殻を次々と放り投げていった。
窓の外には綺麗な夜景が広がっているのに、部屋の中には脱ぎっぱなしの洗濯物やら、空のペットボトルが転がっている有様。
せっかくの素敵な雰囲気が台無しだ。
「なんか、母さんみたいみたいだな」
「お母さんなら、この光景を見た瞬間に叫び出すわよ。”梓っ!いい加減にしなさい!”ってね」
「それもそうか」
梓はゲラゲラとさもおかしそうに笑った。
「この間も心配してたよ。ちゃんと連絡してるの?」
「そういうのは寿々に任せる」
梓はそう言うと、掃除に勤しむ寿々を尻目にゲームのコントローラーを握り始めた。
(もう。都合のいいときだけ弟面するんだから)
しかし、不満はあれど憎めはしない。
前回来た時よりはマシだと言い聞かせ、再び空のペットボトルを手にとる。
ふたりは同じ家で育った姉弟だ。
ただし、そこに【義理の】という接頭詞がつく。
寿々の母と梓の父が結婚したのは今から二十年前。寿々が八歳。梓が六歳のときだ。
幼い頃の梓はそれはそれは可愛かった。
声変わり前の明るく朗らか声色、透き通るような白い肌。
隆々とした筋肉のついていないほっそりした身体つきは、あどけない少年のイメージそのものだった。
十歳で芸能界にスカウトされたのは、偶然ではなく必然だった。
芸能事務所に所属してから数週間、ある映画監督に気に入られ、早々と映画デビューが決定。
数分しか出演シーンのない端役にも関わらず、その後オファーが殺到した。
そして、人気コミックが原作の青春映画の主演に抜擢されたのをきっかけに、人気俳優の地位を確固たるものにした。
弟の梓が華々しく活躍する一方で、姉の寿々はごくごく平凡な人生を送ってきた。
中学、高校をまあまあの成績で卒業し、学校推薦で大学に入学。
ほどほどの成績で卒業した後は、最初に内定をもらえた今の会社に就職した。
我ながら特筆すべきところのない人生だ。
「ねえ。再来週の結婚二十周年のお祝いの日はスケジュールを空けてあるんだよね?」
「ああ、大丈夫。マネージャーにも確認した」
再来週の日曜は両親の二十回目の結婚記念日にあたる。
お祝いとして、四人が初めて顔合わせを行ったレストランでディナーをご馳走する計画だ。
久しぶりの家族団欒とあって、両親は今からとても楽しみにしている。
梓の予定を確認した寿々は、再び掃除に向き直り、荒れ果てた部屋の片付けを手早くこなしていく。
「すーずーちゃん」
「きゃっ!」
シンクの汚れをウエスで拭いていた寿々は梓に背後から抱きつかれ、思わず悲鳴を上げた。
背中に梓の逞しい胸板が押し付けられ、ドキンと心臓が跳ね上がる。
「なっ!なに!?」
「俺には寿々だけだよ」
耳元でささやかれたのは、世の女性がこぞって欲する甘いセリフ。寿々とて例外ではない。
ドキドキと高鳴る心臓を必死になって落ち着ける。
梓の発言を間に受けてはいけない。
「つまり、お腹が空いたから何か食べたいってこと?」
「あたり。さすが寿々」
梓はヒヒッと屈託なく笑った。
そこは、演技でも「そんなことないよ」と言ってくれればいいのに。
「片づけが終わったら適当に作るから、座って待ってて」
寿々はイタリア製だという本革の立派なソファを顎で指し、梓をシッシッと手で追い払った。
「はいはい」
邪魔者扱いされた梓は、大人しくソファに戻っていった。
姉の寿々には心を許し、甘えてわがままを言う梓だけれど、本当の彼は用心深い。
一度ハウスキーパーを雇ったらどうかと尋ねてみたが、私物を盗まれたら困ると難色を示された。
日本中に顔と名前知られている梓には、いつもこういった余計な心配事がつきまとう。
結果として、寿々が定期的にハウスキーパー代わりとして梓のマンションに通うようになった。
(まあ、いいけどさ)
片づけがひと段落した寿々はキッチンに立ち、スパゲッティを茹で始めた。美容を意識した糖質オフのロカボ仕様だ。
茹で上がったら買い置きしてあるパスタソースと和えるだけ。
あと簡単にサラダとスープもつけた。
夕食が出来上がったらふたりで食卓を囲う。
「いただきます」
「いただきます」
食事の挨拶をキチンと行うのが、水無月家の決まりだ。
「うまい」
梓はパスタを口に運ぶなり極上の笑顔を浮かべた。
パスタに和えたのは梓が好きなミートソースだ。
一流の料理人が作ったわけでもない、どこにでもある普通のスパゲッティを、心から美味しいと思ってくれている。
(こういうところが憎めないんだよな……)
サラダにドレッシングをかけながら、寿々はしみじみ思ったのだった。
使い終わった食器を食洗機に放り込み、運転開始のボタンを押すと、寿々はそそくさとトートバッグを肩にかけた。
「泊まってけば?」
「ううん。帰る」
家主である梓にとっては居心地がよくても、寿々にはなんだか落ち着かない場所だ。
時刻は十時を過ぎたところ。まだ電車も走っている。
「なら、車で送る」
「いいって。電車で帰れるから」
寿々は愛車である無骨な4WDのキーを手にする梓を慌てて制した。
普段はゲームする暇もないくらい忙しいのを寿々だって本当はわかっている。
たまにしかない休日をこんなことに費やしてほしくない。
「寿々をひとりで帰らせる方が心配だ。着替えるから待ってろ」
梓はそう言うと、おもむろにスウェットを脱ぎ出した。
寿々はギョッとし、ほとんど反射的に梓に背中を向けた。
結局、寿々は自分が暮らすワンルームマンションまで梓に車で送り届けてもらった。
人気俳優を運転手に使うなんて、ファンに知られたら怒られそうだ。
「送ってくれてありがと。仕事も頑張ってね」
「またな」
五月になったばかりの生温い風が、辺りを包みこむ。
寿々は車が角を曲がり見えなくなるまで、その場で手を振った。
「あ、時計……」
異変に気づいたのはトートバッグから部屋の鍵を取り出そうとした時だ。
左腕に嵌めていた時計がない。
掃除を始める前にキッチンカウンターの上に置いたまま、忘れてきてしまったようだ。
女性らしいピンクゴールドの腕時計は、当時二十歳にして芸能界をブイブイ言わせていた梓が就職祝いに買ってくれたものだ。
時計をくれた当時のことを思い出すと、微笑ましい気持ちになる。
照れ臭そうに女性物の時計を差し出した梓は、それは見応えがあった。
(まあ、いっか。また行くだろうし)
寿々はスースーする左腕の違和感を気に留めないよう努めた。
可愛いとは真逆の寿々には少し眩しいキラキラの文字盤は、まるで芸能界に燦然と輝く梓みたいだった。
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