サファイア
柚木呂高
サファイア
あの夢を見たのは、これで9回目だった。祖父と祖母がいて、その家から帰る途中に夢だと気付いて、彼らがもういないことを思い出すのだ。それでも祖父と祖母は私に別れを告げて、笑顔で私の帰路の安全を願う。そして迷宮のようになった自分の家で、こんな部屋は知らないと思いながら歩き回り、彼らの朗らかな顔を反芻して今はもう亡くなってしまったことを悼むのだ。
朝起きるといつもこの夢のあと現実の部屋の小さな寝室がひどく色褪せて見える。祖父と祖母は初孫であった私を溺愛してくれた。私が成長して、二十代も半ばになると結婚相手の心配をしたものだ。「優しい旦那であればどんな人を選んだって良いよ」。柔らかい言葉の奥には私への期待が籠もっていて、それが一本の針のように、大きくはない胸にぷすりと刺さって小さな血玉を浮かばせた。祖父母のことは好きだったが、彼らの期待と彼らの衰えを見るのが嫌になって、田舎へ足を運ぶ頻度は随分少なくなっていった。
しばらくして、二人共老衰で亡くなった。祖母はボケて私を私と認識できなくなっていた。そしていろんなことを忘れて、でも自分の子と旦那のことは忘れずに静かに眠るように他界した。それまでボケもせず自転車で遠出をしたり釣りをして
私は二人が弱ったりボケたりしたときに、何か別のものになってしまったように怖くなり、まともに声をかけることができなくなった。滅多に会いに行かない上に、会っても冗談を言うことも、優しい言葉をかけることも、甘えることもできずに、まるで避けるように他人行儀に「こんにちは、来ました」「さようなら、元気で」という言葉を発するだけであとは母や父が会話を繋いだ。なんであのとき私は彼らを抱きしめてやれなかったのだろうと自問する。彼らの顔や体の皺に浮かび上がった死の気配が怖かったのだろうか、それが私に伝染するとでも思ったのだろうか、私は自分の薄情さに嫌な気分になり、二人の窶れた姿が心臓の中で凝固して残るようになった。
それからだ、あの夢を何度も見るようになったのは。眠るのに睡眠薬が必要な私は、その副作用でまるで現実と見分けがつかない、少なくとも最初の間は夢現の区別がつかない夢を惹起させた。夢の性質は私の心を揺さぶるもので、どちらかと言うと悪夢と言うべきものであったが、それでも元気だった頃の祖父母に会えることを少なからず喜んでいた、夢から覚めるのが嫌だった。
我が家に同居している黒羊の鳳仙が私に言った。「それなら会いに行って伝えられなかったことを伝えれば良い」。私は疑問を投げかける。「どうやって?」。鳳仙はにやりと笑って、多量のサイレースをすり鉢で砕き始めた。それをコップの底に入れ、鳳仙のコレクションである当時違法だった頃に作られたアブサンを取り出し、アブサンスプーンの上にペルーシュの角砂糖。酒を砂糖の上に垂らしていき、砂糖に火を点ける。そしてその上から水を少し入れると、アブサンは透き通った色から白濁していく。さらに一匙の得体のしれない液体を入れると鳳仙はそれをスプーンでステアして私に差し出した。「酔と睡の向こう側に見える花の上で人は汎ゆる者と再会できるのだ」と言い、私に飲み干すよう促した。私はアブサンを受け取り、香りを楽しんだ後に一息に飲み干した。すると酒に弱い私には覿面で、程なくして酔い、程なくして睡眠導入薬の強く頭を引っ張るようで電源の落ちる寸前のような感覚が脳に走り、立っていられなくなり、膝をつき、そしてそのまま後ろに倒れた。そこには鳳仙が置いてくれた枕があり、ふわりと頭を包み、私は気を失った。
しばらく後、私は目覚めたと思った。そこは祖父母の家で、とても頼りないような薄い壁の一軒家だ。いつも薄暗い部屋のテーブルで祖父はコーヒーを飲みながら映画を見ている。彼の大好きなナンド・チチェロ監督の黄金無頼。祖母は不動明王の掛け軸に向かって大明呪を呟いている。私は「こんにちは」と言うと、祖父は「よう来たな」と言い、祖母は「お腹空いてっか? 寿司頼もうか?」と言う。
お寿司が食卓に並ぶ。私はマグロ握りを取って食べると急にここが現実ではないことに気付いた。寿司は美味しくて、醤油は香り高かった。そうではなくて、突然これが酔と睡の向こう側であることに気付いたのだ、テーブルだと思ったものは蓮の花托で、座っている場所は花びらの上だった。そう気付いてしまった私を悲しい目で祖父母は見た。私はただ必死に言葉を探して、手にとっては捨てて、ためつすがめつして、やっと出たのは「おじいちゃん、おばあちゃん、大好きだよ」という小学生のような言葉だった。すると二人は微笑んで、私の心臓から石がころりと転げ出た。それは蒼玉だった。それを拾い上げると同時に頭が強く引っ張られて、中空に放り出された。そして弧を描きながら遠く離れていく蓮の花と二人を見て、どこかスッとした気持になった。あとはどこかに落ちて頭が割れて中から思い出が飛び出るのだ。思い出たちは踊って、語り合い、お互いのつながりが連綿としているのを確認し、輪になるだろう。私はこれが夢だと知っている。でも、思い出は保管する前に最期の一筆を加えても良いのだと気付く。やがて私は地面に叩きつけられたが、それは巨大なクッションのように柔らかく、深く深く潜っていく。そして、天の光が目に見えなくなるほどに細くなると、そのかすかな光がわっと広がった。
「大丈夫ですか? 聞こえますか? 先生、患者さんが目を覚ましました!」
「ここはどこですか? 家じゃない?」
「病院ですよ、意識不明で運ばれてきたのです」
連絡したのはきっと鳳仙だろう。最初から危ないことをわかってやっていたのだな、あのいたずら坊主は。
私は一晩病院に泊まって家に帰った。鳳仙は対して使わなくなったPCプリンターの上に乗って、こちらを見ている。
「死ぬかと思ったんですけど?」
しかし返事はなかった、鳳仙は普段は無口だ。まるで本物のぬいぐるみのように。
「でもまあ、良かったよ。」
ふとポケットに異物感があったので探ってみると蒼玉が瞬いた。夢だったのか夢じゃなかったのかわからなくなった。ここがまた夢の延長のようにも思われた。だがしかし思い出の延長であることには変わりなかった。鳳仙は黙っていた。その日以降、10回目の夢を見ることはなかった。死ぬ間際の祖父母はさながら太陽のようであったと思った。しかしそれは「死と太陽は直視できない」というラ・ロシュフーコーの箴言とは別の意味を持っているように思えた。故に握った蒼玉は仄かに暖かかった。
サファイア 柚木呂高 @yuzukiroko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます