ひなまつりの日のこと
白里りこ
ひなまつりの日のこと
私が生まれてからの三十二年間、母は毎年欠かさず、雛飾りを家に飾る。
まだ寒さの残る中、たまたま実家に帰り、今年も緋毛氈の上に整然と並べられた内裏雛を見て、私はマッチングアプリへの登録を思い立った。
娘の幸せな結婚を祈願する意味合いも持つこの雛飾りを見て、私は誰かに好かれる人生を夢想したのだ。
一度でいいから、誰かに心から愛されてみたかったし、一度でいいから、誰かの愛を心から信じてみたかった。
私は、他人からの好意を信じることができない。
信じてはならないと刷り込まれて育った。
物心ついた時から今に至るまで、私は様々な人間から様々な迫害を受けてきた。
友達がいないわけではなかったが、その関係はいつも長続きしなかった。
例えば、仲良く遊んでいた友達が、ある日突然私を徹底的に仲間はずれにし始めた。例えば、いじめられていた子を助けても、その子はたちまち私をいじめる側に回った。そして、そんな私を助けてくれる人間は、ただの一人もいなかった。
繰り返しそういう経験をした。だから、どんな人もいつか私を裏切るに決まっているとか、私を本心から好きな人などいるわけがないとか、そういう思考が私の基盤になっていた。
今、付き合いのある旧友とて、一度は私をいじめたことのある者ばかりだから、私は彼らの好意を信用していない。今の職場でも、上司や同僚は何かにつけて私につらく当たる。
これまでもこれからも、私を大切にしてくれる他人は現れない。これは運命だ。一生解けることのない呪いだ。
だって、何度環境が変わっても事態が変わらないのは、きっと私に問題があるからなのに、私には何を正すべきかがさっぱり分からないのだ。
でも、雛飾りを見て、ふと、夢を見たいと思った。
親にこんなに幸せを願ってもらっているのだから、私だって幸せになれるかもしれないと。
知人はどうしても信用できないから、いっそ私のことを何も知らない人が良い。
「……そう、思ったから、アプリに登録したんだよね。三月三日に」
私は目出度くマッチングして仲を深めた
気怠げなジャズが流れるカフェで、コーヒーからゆらゆらと立ち上る湯気を見つめながら。
「そっか。話してくれてありがとね」
眞弦は言った。
正直なところ、この人もいずれ私を傷つけるのだろうと、私は思っていた。この人もいつか私を嫌いになる。それでもいい。今この瞬間、お互いが世界で一番好きであるということ、それだけが分かっていればいい。
「それで、今の職場もつらいって? どんな風に?」
「あ……」
私は言葉に詰まった。
「えと……」
「ゆっくりでいいよ」
「……」
私は深呼吸を三回した。
つっかえながら打ち明ける。
誰も口をきいてくれない。挨拶どころか、業務上必要な会話すらしてくれない。伝達事項も私にだけ教えてくれない。それで仕事が回らないのを私のせいにして、私に聞こえるように陰口を言う。
「は? ふざけんじゃねえよ」
眞弦がボソッと暴言を吐いたので、私はびくっとした。一瞬、自分が責められているのかと思ったが、そうではなかった。
「
「眞弦くん、それは、言い過ぎ」
「言い過ぎなもんか。陽奈枝ちゃん、上司に報告した?」
「した、けど、取り合ってくれなくて」
「上司も死刑だな」
「あの……」
私は何と言うべきか迷ったが、おずおずと口を開いた。
「……ありがとね。少し、気が楽になった。これで、頑張れるかも……」
「もう頑張らなくていい」
眞弦が低い声で口を挟んだ。
「え」
「陽奈枝ちゃんは傷つきすぎた。辞めちゃいなよ、そんなとこ。逃げようよ。転職しなよ」
「……」
私は黒々としたコーヒーに目線を落とした。
「……意味ないよ」
「なんで」
「転職先でも、同じことが起きるから」
「じゃあ、俺の会社を受けたらいい。いつでも俺が助けられるように」
「えっ」
私は目を瞬いた。
「でも、落ちるかもしれないし」
……それに、入社できてしまったら、眞弦が私を嫌いになった時に気まずくなるし。
「陽奈枝が別んとこ受かったら、俺がそこに転職する」
「えっ」
私はすっかり狼狽した。
「そんな、そんなことしたら、私のせいで、眞弦くんのキャリアが」
「どうでもいいよ、そんなもん」
「どうでもよくは、ないでしょ」
「いーや、どうでもいい。陽奈枝ちゃんは、俺が人生を懸けて幸せにしたい人だからね」
そして眞弦は宣言通り、私の転職先の面接を受けた。
結局受からなかったので、眞弦は今まで通りの会社で働くことになったが、私は充分救われた。
「ありがとう。ここまでしてくれる人が、この世にいてくれるのが、嬉しい」
眞弦に手を伸ばす。河津桜が満開を迎えた公園で、人目も憚らず抱きしめる。
眞弦が私を助けようとしてくれた。この思い出だけで、生きていける気がした。もしこの先、眞弦が私を嫌いになったとしても、私は生涯、眞弦が好きだ。
「もう一つ、陽奈枝ちゃんに報告があるんだけど」
「ん、何」
腕を解いて見返した私に、眞弦は跪いて指輪を差し出した。
「俺と結婚してほしい」
風が、濃い桃色の花びらを運んで、くるくると渦巻く。
私は目が乾き切るまで指輪と眞弦を見比べた。
「……いいの? 私で」
「陽奈枝ちゃんがいいんだよ」
「じゃ、じゃあ、私を」
視界が滲む。
「私を、裏切ったりしない?」
「絶対しない。ずっと味方」
「私を嫌いにならない?」
「絶対ならない。ずっと大好き」
「……ああ……」
ぽろんと涙がこぼれた。
ああ、よかった。本当によかった。
ごめん。疑ってごめん。信じることができなくて、本当にごめん。
でも、でも、私はついに見つけたのだ。
もう、怯えるのはよそう。
永遠に大切にしよう。この尊い人のことを。
決意と共に、私は指輪を受け取った。
「私も、大好き」
暖かな、ひなまつりの日のことだった。
おわり
ひなまつりの日のこと 白里りこ @Tomaten
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます