出立の夜に……

塚本ハリ

第1話

 すっかり暗くなった道を、数人の男たちが連れ立って歩いていく。いずれも歳の頃は二十代後半から三十代半ばといった感じか。Tシャツにジーンズ、パーカーなどを羽織った、どこにでもいる兄ちゃんたちだ。長髪で、髭を生やしているのもいる。何も知らない人が見れば、どこかのバンドマンと間違えるだろう。

 日付はすでに変わっている。繁華街の灯りも消えていて、残るのは街路灯か、せいぜいコンビニの灯りがある程度だ。そのせいもあってか、彼らの姿も遠目にはよく分からないだろう。もっとも、見る者が見たら大喜びするだろうが。

 彼らは、この襲山市つぎやましで活躍する「襲山つぎやまおもてなし武将隊」のメンバーであった。


 その昔、襲山市には市名の由来になった襲山城という城があった。戦国時代、この地を収めていた武将・難波貞直なんば さだなおと、その息子である難波貞次なんば さだつぐにより築城された城である。もっとも、難波家は後の数々の戦に敗れ、子孫が途絶えてしまい、城も壊されてしまった。今となっては、城址として当時の石垣や土台の一部が残っている程度だ。そのため地元以外で襲山城や難波一族を知る者も少ない。知っているのは相当の歴史オタクか戦国オタクぐらいであろうかという、マイナーな存在だった。

 ところが、ここにきて急に襲山市にちょっとしたブームが起こった。それが「おもてなし武将隊」である。

 発端は平成二十一年に名古屋市で始まった「名古屋おもてなし武将隊」だった。若者の雇用促進と地域の観光活性化を目論んだこの企画、イケメンの青年たちが戦国武将になりきって「おもてなし」をしたことで、若い女性を中心に人気を集めた。その経済効果は二百億円以上にも上るといわれる。以降、全国各地に同様の武将隊が発足するようになった。

 襲山市でも、市内に襲山城址があることを理由に観光協会が企画を立て、武将隊が結成されたのが八年前のこと。戦国三英傑のような知名度もなかったにも関わらず、地道な努力の積み重ねが功を奏し、今では市外や県外から通う熱心なファンもいるほどだ。地元の情報誌には連載コーナーがあるし、地域FM のレギュラー枠もある。彼らは、いまや襲山市の人気者なのである。


「お疲れさまでした、

 先頭を歩く「難波貞直」役の小林博幸こばやし ひろゆきにねぎらいの言葉をかけたのは、息子「難波貞次」役の遠藤俊介えんどう しゅんすけだ。彼らは地元・襲山市の出身で、アルバイトをしながら小さい劇団で活動をしていた役者である。二人とも長身でなかなかの美丈夫。その見た目がイケメン戦国武将のイメージにふさわしいと、観光協会から声をかけられた。二人はそれを機に、武将隊の立ち上げの段階から関わることとなったのだ。身分は観光協会の嘱託職員扱いで、収入もアルバイトより安定している。何より、好きな芝居が仕事になるのはありがたい話だった。

 戦国武将らしい所作、殺陣や言葉遣い、戦国時代の歴史や文化に関する知識はもちろん、地元の歴史や観光情報など覚えることは多岐にわたった。しかしそれもまた楽しかった。髪を伸ばし、髭も生やして武士のような風貌に近づけもした。役者仲間に声をかけ、メンバーを増やし、毎日ああでもないこうでもないと話し合い、稽古を重ね、観光客の前で戦国武将になりきる日々を過ごしてきた。

 

 そしてこのたび、襲山初代城主・貞直の「出立式」と称したイベントを開催したのである。簡単に言うと「中の人」の卒業だ。

 演じているのが生身の人間がゆえ、引退・卒業はやむを得ない。役者に専念するためだったり、別の道を歩むためだったり。ときには怪我や病気で激しい殺陣ができなくなったなど、理由は人それぞれだ。

 各地の武将隊でも「いったん天に還って、身体を替えて戻って来る」という名目で代替わりする武将は多い。結成当初から十年近く続けてきたこの二人は、各地の武将隊からも古株として知られていた。

 出立式は、普段活動の拠点にしている襲山城址公園。敷地内には地元商店街の方々や地域の子どもたち、歴女と言われる武将隊ファンも集まって、笑いと涙に包まれた、心温まるものだった。

「儂は湿っぽいのは性に合わぬ! 今日は皆、笑って過ごそうぞ!」

「お館様」の声に、大きな拍手が沸き起こった。集まった人たちの前で見せた演武にも気合が入り、記念撮影では感極まってスマホ片手に泣き笑いのファンもいた。

 式典では襲山市長からの祝電が届き、さらに観光協会会長からの花束贈呈まで。

「武将隊の皆さんは、いつも元気いっぱいに、そして『どうしたらお客さんが喜んでくれるか』を真剣に考えてくれました。本当にありがたいことです。そして、今日の今日まで、誰一人、一度も病気やケガなく過ごせたこと。これが本当に良かったと思います。お館様、八年間、本当にお疲れさまでした!」

 

 彼らは道すがら今日一日を、いや、この八年間の思い出を噛みしめているようだった。 

「楽しかったよなぁ……」

「うん……あと、頼むな」

「大丈夫だって。それより、来月のオーディションには立ち会うんだろう?」

 しんみりした空気を打ち消すように声をかけてきたのは、難波貞直の家臣・篠原喜三郎しのはら きさぶろう役の井上康太いのうえ こうたである。こちらはひょろっとした優男だが、空手の経験がものを言って、華麗な殺陣が似合う。女性ファンも多いイケメン武将だ。

「ああ。そういえば、次は『長姫おさひめ』役も募集するんだろう? 可愛い子だといいんだけど」

「書類審査は済んでいるって聞いたよ。結構応募数が多かったみたいだって」

 嬉しそうな口調で言ったのは、同じく家臣・賀好武治かこう たけはる役の渡辺海人わたなべ かいとだ。団子鼻で、ハンサムとは言い難い顔立ちだが、愛嬌があってお年寄りや子どものファンが多い。

 渡辺が言う通り、半年後には新たな「お館様」、それに新キャラクターも登場する予定だ。彼が言う「長姫」は、難波貞直の愛娘で、貞次の姉に当たる。詳細な記録は残っていないのだが、美人で貞直が溺愛していたという話も残っているらしい。半年後には新たな「お館様」、それに新キャラクターも登場する予定というわけだ。

「そうか、姫君も加わると楽しくなるなぁ。変な虫がつかないといいけど」

「あはは、としては心配かね」

「左様じゃのう」

 小林の口調が如何にもそれっぽくなり、一同はくすくすと笑った。


 四人が向かった先は、古い寺院だった。難波一族とゆかりの深い「麓杏寺ろくあんじ」という古刹である。深夜だというのに、門は開いており、その先には作務衣姿の老人がひとり、提灯を手に静かに立っていた。

 「やあ、これはこれは。お疲れさんでした」

 「夜分遅くに失礼いたします」

 「なんのなんの。ささ、どうぞ」

 老人は麓杏寺の住職だ。こんな夜更けに嫌な顔一つせず、小林たちを招き入れた。彼らは勧められるまま、寺の本堂に向かう。がらんとした本堂は、薄暗い中に蝋燭を何本も灯していた。真ん中には座布団が四枚ずつ、向かい合うように並べられている。

 彼らは黙って下座側に座る。古希はとうに超えているであろう老僧が、孫のような若い男たちに丁寧に頭を下げる。

 「積もる話もございましょう。どうぞごゆるりとお過ごしくだされ」

 住職がそう促した。小林たちは居住まいを正し、誰も座っていない上座の座布団に向かい、深々と頭を下げた。正面にある本尊の前に灯していた蠟燭の炎が、一瞬大きく揺らめく。

 小林が、ふうっと大きく息をついた。次の瞬間、彼の身体を霧のようなものが覆った。もやっとしたそれは、みるみるうちに大きくなり、先ほど空いていた座布団に、ふわりふわりと揺蕩たゆたいながら移動していく。やがてそれは人の形になり、そのまま座布団の上にどっかと胡坐をかいた。

 茶筅髷ちゃせんまげを結った、肩衣袴かたぎぬばかま姿の中年男がそこにいた。背は低く、小柄ではあるが、着物の上からも分かるようながっしりとした体つきをしている。太い眉、ぎょろりとした目。立派な口髭を蓄え、左の頬には一寸ほどの傷がある。小柄ながら只者ではない風格を漂わせており、大河ドラマなら相当の猛者役が似合いそうだ。

 と、その男の真一文字に結んだ口がフッとほころぶ。太い眉の下で爛々と光る眼にも柔らかみが差したように見えた。

 ――小林博幸よ。八年間、誠に大儀であった。

 しゃがれ声が、正面に座す小林を優しく労った。決して大声を張り上げているわけではないが、良く通る声だ。小林は、再び頭を下げた。

 「こちらこそ、八年もの長き間、誠にありがとうございました」

 ――お主の身体に宿った八年間、誠に楽しかったぞ。この難波治三郎貞直なんばじさぶろうさだなお、心より礼を申す。

 「はっ」

 他の仲間も、小林に倣って恭しく礼をする。

 ――ほれ、お主らも。ちと出てこぬか。

 男は、苦笑しながら頭を垂れたままの遠藤たちにそう促した。ほどなく、先ほど同様に彼らの身体からも霧状のものが現れ、人の姿に変化し、同じように空いている座布団に胡坐をかいて座った。みな、先ほどの男同様に髷を結い、肩衣袴に身を包んでいる武士たちだ。

 先ほどまでのぼんやりした形は既になく、まさにその場に当時の武将が実在している。それは、小林たちがこれまで扮していた戦国武将たちの、本物の魂魄だった。


 「皆様、些少ながら酒肴をご用意いたしました。どうぞどうぞ」

 住職が盆に酒器をのせて、武将たちの前に差し出す。

 ――やれ、とんだ生臭坊主じゃ。『不許葷酒入山門くんしゅさんもんにはいるをゆるさず』という言葉を知らぬのか。

 ――そうじゃそうじゃ、入り口の門にも刻んでおるであろう。

 「いえいえ、あれは読み方が異なります。『許さざれども、葷酒山門に入る』と読みましてな」

 ――まったく、お主にはかなわんのう。 

 しれっと言ってのけた住職に、貞直と名乗った魂魄は愉快そうに笑った。酒器に手を出すと、盃から酒精がふわっと浮き上がる。貞直はそれを手のひらに受け止め、うまそうに啜った。他の武将たちの魂魄も、同様に酒を喫している。


 ――それにしても小林よ、長らく世話になり申した。

 「いいえ、こちらこそありがとうございました」

 ――お主、存外頑丈だったな。最初の頃はひょろひょろした、うらなり瓢箪のようで果たして保つのかと気を揉んだがの。

 「そりゃ、だいぶ鍛えましたから」

 ――おお、そうじゃな。やたらと『じむ』とやらに通っていたのう。

 「トレーニングの最中も、背後からお館様に突っ込み食らっておりましたからね」

 「そうそう、俺もですよ。後ろから『もっと丹田に気を込めぬか!』なんて言われましたもん」

 ――なぁに、儂らの親心じゃよ。お主が一日でも長く、儂と共に無事に過ごせるようにとのぅ。

 本物の貞直がからからと笑う。それを見て他の武将たちも相好を崩す。

 ――ほんにのう、お館様のようなお方をその身に宿すのは難儀じゃっただろうに。

 ――いつお主の心の臓が破裂するかと気を揉んだぞ。


 それは実に不可思議な光景だった。今どきの若者たちと、戦国武将が深夜の寺で酒を酌み交わし、和気あいあいとした雰囲気になっている。

 これこそが「襲山おもてなし武将隊」の秘密であった。彼らの体には「本物」が宿っていたのである。

 難波貞直はじめ、彼の一族郎党は決して有名な武将たちではない。だが、彼を演じる武将隊の演武には迫力とリアリティがあった。所作や言葉遣いも、結成当初から堂に入ったもので、ぽっと出の素人芝居ではない。殺陣ひとつ取っても、本当に切ったり切られたりするのではないかと思わせるような迫力に満ちていたのだ。

 「中に本物の武将が入っているんだ。気迫が違うのは当然だよな」

 小林はそう苦笑する。とはいえ、一つの体に二つの魂が宿るのは、たやすいことではない。借りている「器」、すなわち生身の人間の負担が大きくなる。それを長年続ければ体にガタが来るのだ。だからこそ、受け入れる器は、若く頑健な青年なのも納得がいく話だ。

 

 ――もとはといえば、このクソ坊主のせいじゃがの。

 貞直がじろりと住職をねめつけ、住職は涼しい顔をして 微笑んでいる。この老僧はいつも口元に穏やかな笑みを浮かべていることが多いが、今夜はその笑みに、少しばかり茶目っ気が見て取れる。

 「ここはお館様の菩提を弔う寺ではございませぬか。お館様を演じようとする者たちが、参上することに何の不満がございましょうぞ」

 そう、武将隊を結成することとなった時、この住職が観光協会に声をかけた。確かにここは難波一族の菩提寺であるし、当時の記録や歴史的な資料も残されている。

 「難波一族の武将に扮するなら、ここでいろいろ学べばよいでしょう」

 そう言って小林らを呼んでくれたのがきっかけだった。それどころか、ここを殺陣や芝居の稽古場にしてはどうかとまで申し出てくれたのだ。

 マイナーな武将だけに、さしたる資料もないだろうと高をくくっていた観光協会の面々や小林たちは、住職が次々と見せる資料に仰天した。住職いわく、家臣・賀好武治が記したものだという。武治は武将としての才のみならず、書の才も持ち合わせており、右筆ゆうひつとして貞直をはじめ難波家の記録を事細かに書き綴っていたのである。もともと彼はずいぶんと筆まめな性質で、そこを見込まれてこの役職に就いたらしい。彼が残した文書は非常に多かった。公文書のみならず、彼自身の日記も含めると膨大な数の文献が残されていたのである。

 それを住職は長年にわたってこまめに整理していたのだ。彼は古文書の扱いにも長けており、読みにくいそれらを分かりやすく説明してくれた。残された文書には、襲山城下の領地の様子や合戦の記録をはじめ、誰がどの武将と和睦を結んだか、その交渉はどの家臣が担当して、どのような結果になったかなどが細かく記されていた。

 それだけではない。貞直が家臣への労いの意を込めて酒宴を開いた記録や、幼い娘の節句祝いのために菓子を用意しろと命じた話、やんちゃが過ぎた子どもたちを叱責した話、そしてこの麓杏寺への寄進や当時の住職・月斎がっさい上人との遣り取りなども綴られていた。 

 「何だかね、それで俺らも少しずつ分かってきたんですよ。歴史の人物だって、血の通った一人の人間なんだなぁって……」

 遠藤がしみじみとつぶやく。演者として、演じる人物を深く知ることは大事だ。ましてや、歴史上の人物であればなおのことである。なぜ彼らは戦えたのか、何を守ろうとしたのか。何年に何の合戦が起きた、何年に誰が没したなどの記録だけでは到底分かることのない、確かにその時代を生き抜いた人々の物語があったのだ。

 ――お主らが書物を読みつつ儂らのことをあれこれ話しているのを、背後から見るのは楽しかったぞ。

 ――ま、父上のことを親馬鹿だの何だのと言いたい放題でござったがの。

 「……貞次様、すんません」

 貞次の突っ込みに、小林がぽりぽりと頭を掻き、また皆でどっと笑い声が起きた。

 「けどねぇ、まさか俺らの背後で見張っていたなんて誰が想像つきましたか?」

 井上も苦笑しながら武将たちに訴えた。

 「俺、昔からちょっとだけ霊感あったんで、何かいるな~と気になってはいたんですけどね。それにしたって、ありゃ腰抜かしますよ~」

 武将隊結成に向けて、小林たちがこの寺で打ち合わせや殺陣の稽古をしていた頃のことだった。自分たちしかいないはずなのに、何故か人の気配を感じる。住職は「ここにはお館様がいらっしゃいますから」と、涼しい顔をして答えるのみ。

 そんなある日、殺陣の稽古をしていて、ふと脇に目をやると、数人の武将たちが笑いながらこちらを見ていたのだ。常々感じていた視線の正体に気づき、一同が仰天したのは言うまでもない。

 ――まぁそうむくれるな。儂らとて、それだけではないぞ。お主らに害をなす輩は儂らが遠ざけたからのぅ。

 篠原喜三郎がニヤッと笑いつつ井上を見やった。

 「……喜三郎様、何かしたんですよね?」

 女性ファンの多い井上には、ストーカー的なファンもいて少なからず往生したことがあったのだ。だが、いつの間にか彼女は現れなくなった。

 ――なに、あのおなごがここに来ようとする度に足止めさせただけじゃ。それに安心せい、今は別の「推し」とやらができたようじゃて。そちらにご執心の様子じゃ。

 「そういえば、前に彼女がSNSで『具合が悪くなって行けなくなった』とぼやいていたけど……?」

 ――はて、なんぞ腹でも壊したかのぅ?

 とぼけた顔で髭をいじる喜三郎に、他の武将たちも意味ありげな笑みを浮かべていた。

 「ひでえ! あ、でも他にもあったよな、遠藤」

 「ああ、確か広告代理店の営業だっけか? 何だか知らんけどいろんな企画書持って来ていたけど、あれもいつの間にか……って、まさか?」

 賀好武治が笑いながら答えた。

 ――ははは、そのまさかじゃ。ありゃお主らをカモにしようとしているのが見え見えじゃったからのぅ。とんだ食わせ者じゃったから、儂らが夢枕に立って脅してやったんじゃ。そうしたらあやつ、小便漏らして逃げおったわい。

 武将たちが愉快そうに笑う。貞直が小林らに向かって優しく諭した。

 ――時が違えど、お主らは儂の家臣じゃ。家臣を守るのは上の者の務めぞ。それこそ、次の「おーでぃしょん」なるもので、悪しき心を持つ輩がおれば、儂らが黙っておらぬから、安心せい。

 「この老いぼれも、陰ながらお支えいたしますから」

 そう答えたのは住職だった。貞直は住職を見やるとうんうんとうなずく。

 ――こやつはな、儂らが生きておった頃からの付き合いじゃ。こやつだけは、何故か何度も転生をくり返しておる。

 「え、それって……?」

 ――こやつは、月斎じゃ。お主らも書物で読んだであろう。儂と長い付き合いのあった坊主じゃ。

 「生き続けることが……この私に課された務めです」

 麓杏寺の開山の経緯については、筆まめな武治の記録にも残されていない。それ以前からあった古い寺だったらしい。ただ、貞直が若い頃、当時の住職だった光斎こうさい上人に師事し、交友関係があったこと、その後を継いだ月斎とも親密な関係だったことが文献にも残っている。

 ――儂が物心ついたころには、既にこの寺はあった。まぁ、結構なボロ寺だったがの。父に連れられ、よう参拝したものよ。そしてこやつは、儂が知る限りその頃からおったんじゃがな。まだ幼い小坊主だったのを覚えておるわ。

 「……あの頃の私は、そもそも親の顔すら覚えていない孤児でした。そんな私を、先代の光斎こうさい上人が拾って下さった。私は幼いながら、その恩義に報いんと懸命でした。それに貞直様を始め、難波一族の皆々様にも返しきれぬほどの御恩を受けました」

 ――お主も何だかんだで、今とは違ってクソ真面目じゃったからの。氏素性も分からぬ身分とはいえ、その献身ぶりに光斎殿が後任を命じたとて、何の不満があろうぞ。とはえ、儂ら亡き後のお主がこうも永らえておるのも不可思議なことじゃが……

 「貞直様の曾孫にあたる、貞親さだちか様の代でございました。貞親様が十に満たない幼いのを良いことに、傀儡かいらいにしようと目論んだ新参者の家臣がおったのです。既に年老いた我が身では何もできず、難波家の皆様がたは反目と分裂でずたずたに……」

 そんな分裂した一族が、他の国から付け込まれて滅されたとしても不思議ではない。下剋上が当たり前の戦国の世ではなおさらだ。

 「私は何もできなかった。灰燼と化した城を目の前に、何もできなかった。そこで誓ったんですよ、何度この身が滅しようと必ずや生まれ変わり、私の魂が消滅するその日まで皆様方の供養を続けようと……」

――だからと言って四百年以上繰り返すのはやり過ぎじゃろうが。お主もつくづく融通の利かぬ……挙句の果てに儂らを呼び戻すとは、とんでもないことをやってのけよったわ。

 貞次が苦笑交じりに呟く。住職は、いや月斎上人は目尻をそっと拭った。

 「私はねぇ、嬉しかったんですよ。お館様のことを知る人が増える良い機会がやっと訪れたと。私が待ち望んでいたのは、お館様がこの地に確かにいらした、そのことを世に知らしめることだったのでしょうよ」

 ろうそくの明かりに照らされる月斎の顔は、それまでの仏像のようなアルカイックスマイルではなくなっていた。感慨深げで、嬉しさをしみじみと噛みしめているような表情だった。

 「……それに」

 ――うむ、儂の娘もやっと来たようじゃ。おさよ、お主も今生で活躍できるぞ。

 ――姉上、共に今生で楽しく過ごしましょう。

  その声に反応するかのように、新たな人影が浮かび上がってきた。あれが長姫だろう。

 さて、彼女を受け入れられる技量の女性がオーディションで見つかるだろうか。小林は、酒を含みながら微笑んでいた。

 

 

 




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出立の夜に…… 塚本ハリ @hari-tsukamoto

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