【KAC2025】急いで仕舞って

千石綾子

急いで仕舞って

 急がなくちゃ。

 急がなくちゃ。

 早く仕舞わないと、お嫁に行けなくなっちゃうわ。



 空港から高速バスに乗り、電車で最寄り駅まで着いた後は、ひたすら家に向かって走るだけ。タクシー乗り場は凄い行列で、待っているより走った方が早いと踏んだのよ。

 でも、ああ、もう。こんな日にハイヒールなんて履いてくるんじゃなかった。走りにくいったらありゃしないわ。


 それに、今日はなんて暑いのかしら。数日前まで異常気象で大雪、そして大寒波だったっていうのに。今は夜だって言うのにやけに暖かくて、走ると汗が流れてくる。

 私は汗だくで走って、転びかけて、軽く足をひねってしまった。


「痛い……なんなのよ、もう」


 コートを脱ぎ、靴を手に持って再び走り出す。



 大体この大事な時に急に出張だなんて。しかも当日会社に着いた後に言うなんて。

 何が「3日ほど台湾に飛んでくれないか。まあ、あったかい国で熱々の小籠包でも楽しんで来てくれ」よ。 

 本当なら3日前のひなまつりの日に、ちらし寿司とはまぐりのお吸い物を作ってお祝いしているはずだったのに!


 このスケジュール組んだ奴、続けて自転車のサドルを盗まれる呪いにかかればいいんだわ。


 出張が多い職場だから、お泊りセットが一式詰まったトランクは会社に常備してるわよ。でも、だからといって心の準備は全然できてなかったんだから。

 正直、台湾は悪くなかったわ。商談も上手くいったし、何より小籠包がとっても美味しかった。しっかり定番スイーツのハシゴもしちゃったしね。


 だからと言ってクリスマスよりお正月より、ひなまつりが大好きな私が3月3日に単身異国へ旅立つなんて、本当に酷い話じゃないの。

 折角とっておきのお雛様を飾っておいたのに。段飾りじゃなくて親王飾りだけど、昔からのお気に入り。特製のケースの中に大事に仕舞っておいて、年に一度だけ飾るのよ。

 

 だけど今日は3月6日。今日中にお雛様を仕舞わないと、お嫁に行きそびれちゃうのよ。

 昔からそう言うでしょう? だから私は靴も履かずにひたすら家に向かって走り続けている。

 

 すると突然スマホからメッセージの通知音がした。


『今どこ? もう家にいる? 僕はそろそろそっちに着きそうだよ』


 その文字を見て、今までかいていた汗が一気に冷や汗に変わる。そうだ、今日は彼氏のマコトが泊まりにくる日だった……。

 やだ。この年でまだお雛様を飾ってるなんて、知られたくない。それに私のとっておきの雛人形は私だけのもの。誰にも見せたくない。慌てて私はメッセージを返す。


『私ももうすぐ家に着くけど、ごめん、1時間でいいから近所のスタバで時間潰して待ってて』

『やだよ、1時間も待てない。30分ならいいよ』


 即答で返ってきたのはもっともな主張。


『わかった。じゃあ、私がいいって言うまで入らないでね』

『30分だよ。それ以上は無理』


 マコトってこういうところは強引なのに、全然プロポーズとかしてくれないのよね。


『わかった』


 それだけ返して、私はマンションに駆け込んだ。

 出張に出た日に飾った桃の花はしおれている。感傷的になる余裕もなく、赤い毛氈もうせんを敷いたソファに座らせた「お雛様」をそっと持ち上げて、紙に包んでケースに仕舞う。


 急がなくちゃ。

 焦って手元が狂って、ケースの枠に「お雛様」をぶつけてしまう。

 ママの左手にひびが入って、そのまま折れて床に落ちる。


 急がなくちゃ。

 走ってきた汗、焦る気持ちからの汗、いろんな汗で手が滑り、「お雛様」を落としてしまう。

 殿パパは腰から二つに折れてぐらぐらと揺れる。


 ああ、私の大事なお雛様。仲睦まじい姿のお雛様。毎日醜い喧嘩なんかしないで、私を殴ったりしないで、ただ仲良く並んで座っているお雛様パパとママ

 



 早く仕舞わなくちゃ。マコトが来ちゃう。


『時間だから入るよ、今エレベーターの前』


 無情にスマホのメッセージが光る。


 急がなくちゃ。

 早く仕舞わないと、お嫁に行けなくなっちゃうわ。

 焦る私の耳に、ガチャリとドアノブを回す音が響いた。



              了


お題:ひなまつり

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