3月4日:引退動画
鉢巻春巻:『春香さんに依頼されていたイラストのラフをいくつか書いたのですが、確認をお願いできますか?』
綾が目を覚ますと、Biscordというチャットアプリにそんなメッセージが届いていた。送り主の鉢巻春巻は春香のアバターを描いてくれた
可愛さの中に
……そして今、自分は春香の形を作り出してくれた人に春香が引退するためのイラストを描いてもらっている。3月31日、引退するその日にリスナーへの感謝を伝えようと綾は歌ってみた動画の投稿を計画していた。
綾は歌があまり得意ではない。けれどその歌声がいいと言ってくれるリスナーがいる。上手いか下手かではなく、誰が歌うのかが重要だと言ってくれるリスナーがいる。そんな彼らへの感謝と、そして何より思い入れのある春香の最後を飾るものとして、旅立ちの悲しさと希望を歌う動画が一番ふさわしいと思えたのだ。
「わ、すごい。全部綺麗……」
送られてきたラフは全部で四つ。共通しているのは満開に咲き誇った紅梅の木と春香が映る点で、どれも構図やポーズによって受ける印象が異なる。春香の笑顔をアップで描いたもの、逆に涙する春香を慰めるように梅の花がそよいでいるもの。どれも綾の心に刺さる美しさがある。
「この中から一つ……すごい勿体なく感じる……!」
叶うなら全部描いてください! と言いたいところだった。お金も時間も惜しみませんから! と。
しかし実際のところはどちらも有限で、我儘は向こうにとっても迷惑になる。彼女はよく配信に来てくれたり、配信外で作業通話をすることもある程度に面識はあるが、それでもそんな無茶を言うのはとてもできない話だった。
「……これ、かな」
しばらく――時計の長針が一周するくらい――悩んだ綾は最終的に、
春香はまた別の誰かに匂いを届けるためにこの場所に別れを告げるのだと、そんなメッセージを込めて。
東風春香:『どれも素敵ですごく悩ましいんですけれど……C案でお願いできますか?』
鉢巻春巻:『わかりました。15日頃納品の予定ですが……本当に大丈夫ですか? 編集、間に合いますか?』
歌ってみた動画はイラストだけを描いてもらって終わりではない。歌を録音して、MIXという音を綺麗に加工する作業をしてもらって、それからそれらを動画にまとめて編集して……などと色んな作業がある。
このうち歌のMIXはもう専門の人に依頼してあった。それが納品されて、イラストも揃うのが今月中旬の予定。そこから動画編集を誰かに依頼すると、どうあっても間に合わないだろう。
けれど春香にそのつもりはない。
東風春香:『大丈夫です。自分で編集しますから』
綾はそもそも自分の歌ってみた動画を自分で編集する人間だった。高校の頃映像研究部で磨いた動画編集スキルの応用で、春香としての活動資金は動画編集の依頼を受けることで賄っていた。
それなりに無茶なスケジュールではあるが……何もトラブルがなければ成立すると綾は見込んでいる。
鉢巻春巻:『……あまり無理はしないでくださいね。こちらも出来る限り急ぎますから』
東風春香:『先生こそ、ですよ? 急にこんな依頼をした私が悪いんですから』
鉢巻春巻:『春香さんはわたしにとっても大切な子どもなんです。多少の無理はどうとでもします』
春香は思わず泣きそうになってしまった。自分の大切な春香を、同じように大切に思ってくれる人が居る。それがどうしようもなく嬉しい。
キーボードの上を高速で指が踊る。
東風春香:『大好きです!』
この言葉を送った後、すぐ画面に「鉢巻春巻が入力中です……」と表示された。しかし返信はなかなか来ない。
しばらく表示は変わらないままで、返信がようやく来たのは綾がちょっとストレート過ぎたかも、と後悔し始めた頃だった。
鉢巻春巻:『わたしもですよ』
「……よし!」
絶対に今までで一番の動画を作ろう、そう綾は決心した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます