春霞の向こう側、ひな祭りの小さな宝物
彩世ひより
友人といる時間は何に付けても特別になる
ひな祭り。それは桃の節句とも呼ばれ、古来より女の子の健やかな成長を願う祝祭である。
カレンダーに記されたただの三月三日。私にとって、ひな祭りはその程度の認識だった。
我が家には雛人形を飾るという風習、いや、決まり事のようなものさえ存在しなかった。
だからひな祭りという言葉を聞いても、特別な感情が湧き上がることはない。
桃色の可愛らしいイメージはあるけれどそれは遠い世界のお伽噺のようだった。
だから友人から「ひな祭りだから一緒に遊ぼう」と誘われた時、少し戸惑った。
まるで、私だけが知らない秘密の合言葉を告げられたような、そんな感覚。
ひな祭りが彼女にとっては特別な一日なのだと、その時初めて気づいた。
彼女の家には七段飾りの立派な雛人形が飾られているのだろうか。
桃の花が飾られ、菱餅や白酒が並べられているのだろうか。想像を巡らせるけれど、どれも現実味を帯びてはこない。
「ごめんごめん。ひな祭りだからといって、何か特別なことをしようというわけではなかったんだけど、なんとなく誘いを断られるのが不安で」
友人が遊びたいと言うのなら、付き合うのは自然なことだ。自分が暇を持て余しているなら、なおさら。
よほどのわがままを言われるのでもない限り、断る理由はない。
肩のラインが強調された薄手のコート。色はアイスグレーで、光の加減によって、かすかに青みがかって見える。
インナーにはシンプルな黒のタートルネック。細身のシルエットが彼女のスタイルの良さを際立たせている。 ボトムスは、ダークネイビーのワイドパンツ。雪姫の足元を飾る白いスニーカーは、彼女の今日の装いを、単なる「お出かけ着」から「活動的なスタイル」へと印象づけている。
ウィンドウショッピングで街をぶらつくのも、少し足を伸ばして公園を散策するのも、あるいは、思いがけず遠出することになったとしても……まあ、友人だから付き合うつもりだ。
一方私のトップスは、オーバーサイズのライトグレーのスウェットシャツ。あえてメンズライクなアイテムを選ぶことで、こなれ感を演出する。
ただし素材は上質なコットンを使用し、肌触りの良さとカジュアルすぎない上品さをキープしている。
ボトムスは、黒のスリムフィットジョガーパンツ。足首にかけて細くなるシルエットが、脚のラインを美しく見せる。ストレッチ素材なので、動きやすさは抜群だ。髪は無造作にまとめて、ハイポニーテールに。私のスタイルは、雪姫よりもストリート感がある。
春の陽光が差し込む巨大な商業施設。様々な店舗がひしめき合い活気に満ちた空間を、雪姫と二人並んで歩く。
ウィンドウを彩る華やかなディスプレイは、春の訪れを告げているが、ひな祭りを前面に押し出したものは意外なほど少ない。
バレンタインデーやハロウィンのように、街全体がイベント一色に染まる祝祭もある。それらに比べると、ひな祭りの存在感はあまりにも控えめだ。
「春だねぇ。ひな祭りって、奥ゆかしい行事なのかな?」
「考えてみると、ひな祭りを全面に出したファッションって想像つかないよね? 十二単とかか?」
「だね……」
エントランスには高さ数メートルはあろうかという、桜のオブジェがそびえ立つ。精巧に作られた花びらは、本物と見紛うほどだ――まあ、外に咲く桜の花はつぼみが膨らむ気配すら無い。
各店舗のウィンドウディスプレイも春一色だ。パステルピンク、イエロー、ミントグリーン。軽やかな素材の洋服が、買え買えと手招きしているかのようだ、高校生のお財布にはちょっと厳しいので見るだけだけど。
フードコートでは、春限定のメニューが目白押しだ。桜風味のスイーツ、苺をふんだんに使ったパフェ、春野菜をたっぷり使ったパスタ――本当にひな祭りを前面に出したメニューないな、ちょっと端っこにひなあられを置くとか工夫もないな……。
「でもさ現実的に考えて、春って数ヶ月もあるのに、ひな祭りって1日だけじゃん? バレンタインとかハロウィンとかも一日だけど、本当に地味だよね。日本の伝統行事なのに、もっと大切にされてもいいと思うんだけど……」
「うちが今までひな祭りをやってこなかった理由が、なんとなく分かった気がする……いや、ひな祭りが地味とかそんな感じじゃなくてね?」
ふと、バレンタインデーのことを思い出す。チョコレート売り場が特設され、街中が甘い香りに包まれる、あの特別な日。
友チョコ、義理チョコ、そして本命チョコ。様々な想いが込められたチョコレートが飛び交い、人々はどこか浮足立っている――あ、絶望的に荒んでいる男子の皆様は除く。
えと、本命の相手がいる人はそれはもう健気だ。数日前からどんなチョコレートを渡そうか、どんな言葉を添えようか、頭を悩ませ当日には緊張の面持ちでその瞬間を待つ。
それに比べて、ひな祭りはどうだろう?
確かにちらし寿司やひなあられ、白酒など、ひな祭りならではの食べ物はある。
しかしバレンタインデーのように特定の誰かに向けて、特別な何かを贈るという習慣は一般的ではない。
ひな祭りに向けて何か月も前から準備をしたり、当日、ドキドキしながら過ごしたり、そんな人は少なくとも私の周りにはいない。
記憶を辿ってみても、ひな祭りに特別な熱意を持って行動している人を見たことがない。せいぜいテレビで、何段もある豪華な雛人形を見に行く、というイベントを紹介していたのを見た記憶があるかないか、その程度だ。
私たちの足は春色のパステルカラーに染められた商業施設の中を自然と進んでいく。
先ほど立ち寄ったカフェでは、桜風味のラテと、苺をふんだんに使ったパンケーキを味わった。
淡いピンク色のクリームに「あんまり甘くないな……」と感想を抱いた、あ、もちろん絶品だったよ?
次に訪れたアパレルショップでは、春をイメージした新作のコレクションが、ずらりと並んでいた。
リネン素材の軽やかなワンピース、パステルカラーのカーディガン、花柄のブラウス。華やかなラインナップが並んでいた。
通路の脇には、チューリップやラナンキュラス、スイートピーなど、色とりどりの春の花々が生けられた、巨大なフラワーアレンジメントが点在している。
これほどまでに春の演出が徹底されているにも関わらず、ひな祭りを前面に押し出した店舗は、見当たらない。探し方が足りないのか、それとも、本当に存在しないのか。
「せっかくの機会だから、ひな祭りをすごく盛り上げるようなもの、何か見つけたいかな!」
「私もそう思う! ひな祭りに誘ったからには、少しはひな祭りっぽいもの見つけたい!」
この広大な商業施設の中を、春の陽気に誘われて行き交う人々。
その誰もが笑顔を浮かべ思い思いにショッピングや食事を楽しんでいる。
しかしこの中でひな祭りに関連する何かを、これほどまでに熱心に探し求めているのは、おそらく私たち二人だけだろう。
他の人々にとってはこの商業施設は、春の訪れを感じ、新しい季節のファッションやグルメを楽しむ場所。 ひな祭りは、彼らの意識の中にはほとんど存在しないのかもしれない。
私たちはまるで宝探しゲームに参加しているようだ。しかしこのゲームには、明確なゴールも、豪華な賞品もない。見つけたところで何かが劇的に変わるわけでもない。
それでも、私たちは探し続ける。周囲にありふれている春色のディスプレイや、甘い香りのスイーツではなくどこかに隠されているはずの、ひな祭りの痕跡を。
「これくらいしかないね」
「これなら近所のスーパーで間に合ったよ」
長い探索の末に私たちがようやく見つけたひな祭りの痕跡は、商業施設の片隅にあるスーパーマーケットの一角だった。
そこに並べられていたのは、桜でんぶや錦糸卵で彩られたちらし寿司、小袋に入ったひなあられ、そして、淡い三色のひし形のお餅。
それは、どこにでもある、見慣れた光景だった。きっと、私の家の近所のスーパーにも、同じものが並んでいるだろう。
わざわざこの商業施設まで探しに来る必要など、なかったのかもしれない。
大抵の人々はひな祭りの食材を、このような身近な場所で手軽に購入するのだろう。そして家族と共にささやかにひな祭りを祝うのだ。
「なんか、こうして雪姫と宝物探しみたいなことをするっていうのは、ちょっと楽しかった」
口に出してみると、それは、紛れもない本心だった。結果はありふれたスーパーのひな祭りコーナーだったけれど、その過程が私にとってはかけがえのないものだった。
雪姫と二人で広大な商業施設の中を歩き回り、ひな祭りの痕跡を探し求める。
それは、まるで、子供の頃に夢中になった冒険のようだった。普段は意識することのない、ひな祭りという存在にこれほどまでに真剣に向き合ったのは、初めてのことだ。
「なんか、ひな祭りにしかできないようなイベントって感じもした」
そう。これはバレンタインデーでもハロウィンでもない、ひな祭りだからこそできた体験なのだ。
静かで控えめで、どこか奥ゆかしいひな祭りという祝祭の特性がこの宝探しゲームを生み出したのだ。
ひな祭りっていうものを完全に理解できたわけではない。
しかし雪姫と過ごしたこの時間は、私にとって忘れられない思い出となるだろう。
それは春の霞の中で確かに見つけた小さな宝物だった。
春霞の向こう側、ひな祭りの小さな宝物 彩世ひより @HiyoriAyase2121
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