仔犬
夏融
仔犬
彼が寝床で目を覚ますと、障子紙を透かした朝日が顔を照らすのがわかった。布団から半分這い出るように身を起こし、がらりと障子を開け、縁側の向こうを見てみれば、梅がすっかり咲き盛りだ。麗かな空気の庭、一つ一つの花々を辿ったその枝先に小鳥の鳴くのを認めたその時、彼は散歩へ出ようと決めた。
彼は部屋を出ていって、朝食をねだるついでに妻にその事を話してやった。彼は何のこともないように言ったが、妻のほうではもう大慌てだ。何せ平素から椒図のように自室の障子を閉めきって、起きているんだか寝ているんだか、それとも死んでいるのかさえわからない夫が――珍しく、外出するなんて言うんだから。
その朝、妻は随分気張って膳をこさえた。それから夫の間延びした咀嚼の間に、どの
――どうしましょう。スーツなんて堅苦しくていけないわ。とは言えこんなコール天のセーターなんか着せて放っぽるわけにもいかないし。そうだ、それよりも、先に髪をけずってあげるべきかしら。髭だって剃らなくちゃ。いくら死人みたいに青い色をしてるったって、手入れをすれば少しは男前だのに、もうぼうぼうで目も当てられないんだから。
妻はとにかく彼の身なりを整えることに暫し心血を注ぎ、何とか彼がいっぱしの
彼は駅で電車に乗った。一つしかないホームに来た一両しかない電車だ。彼の知っている駅は彼の家に最も近いそれ只一つで、彼の知っている電車もまた彼の乗ったそれ只一つだった。彼は初めて独りで電車に乗り、初めて終点まで降りない腹積もりでいた。席に座ると暖房と陽光の作用で次第に彼はうとうとし、夢と現の間で浮遊を楽しんだ。窓の外は梅がすっかり咲き盛りで、乗客は他に居なかった。
車掌に揺り起こされた彼が見た終点はとある都会だった。排ガスと資本主義だけがそこにあった。ただし彼は落胆することなく、下車するとそこで散歩した。
彼は都会のごみごみしているのを初めて知った。まだ灯されていないネオンや往来の人々の喧騒は彼を遊園地にいるように(無論彼は遊園地なんて知らないが)興奮させた。彼は見たことのない建物、見たことのない人々に胸を高鳴らせ、実に楽しんだ。彼は白昼、幸せでいた。
ひとつ懸念があったとすれば、それは人々の顔だった。誰も彼の妻のように華やかに笑ったりしない。そういう仮面を貼りつけたように一様として、玉ねぎみたいに剥いてしまえそうだった。
彼はこれらをゆっくり眺めたい気持ちになって、座れる場所を探そうとした。床。これは駄目だ。服を汚せば妻に申し訳ない。ガードレール。これも駄目だ。何やら無礼者のようでばつが悪い。ベンチの一つでもあればそれで良いのに――なんて、彼は首を振り振り猫背で歩いた。可哀想に。異国種の仔犬は、都会では席一つを間借りするにも金の要ることを知らなかった。そんなんだから駅から遠くへ、十間二十間と歩いて行って、そのうち疲れてくずおれた。
彼の終の住処は、繁華街から少し外れたシャッター街だった。誰もいない、空っ風の吹きつける形骸だった。もうどこだっていい気分だったのだが、折よく一人の酔漢が道端に座り込んでいるのを認めた彼は、それに並んで座ってやった。
こんにちは、と彼は酔漢に挨拶をした。珍しいことだった。
その酔漢は歳取ったせむしで、それを差し引いても小さく、頬は燃え盛る炭みたいに真っ赤だった。酔漢は震える手で瓶をぎゅっと握って、雑巾じみてくしゃくしゃした顔を震わせた。
「おめさん、なんだね」
何と訊かれたって彼は彼だから、彼は何と答えてよいかもわからず、ただ名乗った。
「そうかい」
酔漢は一口呷り、しばらく黙っていたが、突然堰を切ったように喋り始めた。
「……なあ、おめさん、良い目をしとるなあ。え?目よ、目。俺あ、たくさん人を見てきたからわかんだけどよ、おめさんのは良い目だ。そうだ。人ってのは目え見りゃ大方何考えてんのかわかるもんよ。ろくでもねえ奴は濁った目えしとるし、狡い奴はぎらぎらした目えしとるんだ。その点おめさんはいい。丸っこくて、人を裏切らん目だよなあ。で、だ。そこを見込んでよ、ちいと頼みがあるでな、まあ聞けって。よ。人ってのは人生で、誰かに話さなきゃやるせねえことの幾つもあるもんだよ。わかるよな。今、まさに俺が抱えているのがそうなんだ。もうこのまんまじゃ、おちおち酒だって呑めねえんだ。うーい。だからおめさん、この哀れな俺の話を聞いちゃくれねえかえ。後生だよ。なあ、あんたを正直者と見込んでの頼みなんだ」
彼のほうでは別段断る理由もないのだから承知してやった。
「まあ、ありがてえ!最近の若人ってのも見捨てたもんじゃねえよ。ナンマイダナンマイダ。ああ、これより先なんか知っちゃいねえや。しかしだな、時におめさん、俺をどう見るね?乞食かね?それともホームレス?あはあ、馬鹿言っちゃいけねえや。俺と来たらあの✕✕の重役だぞ!仔犬みたいな目のあんちゃん、あんただって聞いたことあんだろが。この町の資本を牛耳るお方なんだぞ、控えおろうってんだよ。毎日毎日、皆が俺に頭を下げて!蚤みたいにぺこぺこして、蚤みたいに甘い汁を啜りにきて……太っちょの代表だって俺を認めたんだぞ!俺は頂点になるはずだったんだ!わかるか?うっく、くそ、空じゃねえか。あっちのポケットに、ああ、駄目だ。文無しだよ。全部過去なんだ!あんちゃん、俺の目がどう見える?正直に言えって。濁った、魚の目。そうだ、そうだよ。なんも映りゃしないんだ。畜生。一個の過ちだった。ほんの一個だよ。誰でも犯していたあの一個だ。それが今や俺を締めつけてやがるのさ。あの……太っちょ!俺なんか蜥蜴の尻尾にもなれなかった!おめさん、あの日俺がうちに帰って、どんな目に遭ったかわかるもんか!妻には未来があった。息子には未来があった。当然、俺もだよ!でもな、もうねえんだ。魚の目をした奴は、皆、皆、俺が捨ててやったもんね!もう三日もこうしてやってんだ。今度は俺が蚤になる番だ。そして蚤にひっつく蚤なんか無いんだよ。へへ、二度と帰ってやるもんか、馬鹿野郎ばかりが。だって人間は誰にもせよ、たといどんな所でも、帰るところがなきゃ駄目なんだから、おしまいさね。どうせならもろともよ……」
酔漢は泣き出して、くしゃくしゃの顔がもっとくしゃくしゃになった。彼は何も言わず立ち上がり公衆電話へ行くと、懐から紙きれと小銭を取り出し、そこに書かれた番号をひとつも違えないように注意深く、妻へ電話をかけた。そして酔漢の隣へ戻ると、また腰かけた。
「帰るんか」
彼は頷いた。
「おお、けえれ、けえれ!仔犬のあんちゃん。どこか遠い異国へ帰るがいいや。俺はもう、国なんか失くしちまった本当の異国種なんだからよ!」
彼は妻に連れられて、来た時と同じ電車で同じように帰った。違うのは眠らないで、妻の手を握っていたことだけだった。
彼は夕げの最中、その日のことを嬉しそうに妻に語った。たくさんのことを見聞してきたと、コロンブスよりも大きな旅路を終えたようだった。妻の方でも嬉しそうにそれを聞いていたし、その顔は玉ねぎなんかではなかった。
彼は障子を開けたまま寝ることにした。外は月が輝いて、梅がすっかり咲き盛りだった。星の明かりが天井を透かし、彼の枕元まで照らしてくれているような心地がして、明日もきっと小鳥が鳴いたらいいと彼は眠った。その夜はひどく深くぐっすりと、よく眠ることができた。
仔犬 夏融 @hayung
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