第10話 赤い嵐と潜入と

 僕の覚えている限り、兄さんの出るレースに父さんが顔を見せたことはない。そんな父さんが兄さんに唯一プレセントとして送ったのが「陽炎」だった。自分が得意とする分野に息子が興味を持ったことが嬉しかったんだと思う。

 それから兄さんは飛行機にのめりこんでいった。リンクスもそんな兄さんに追いすがるように後を追い、僕はそれに嫉妬した。

 兄さんが初めて空を飛んだ日も、僕は悔しくて兄さんを追ってアムール砂漠を駆けた。どうしても追いつきたくて、どうしても追い抜けなくて……。

「陽炎」が再起不能になると、兄さんはジャンク屋をめぐって同じ同一モデルを探した。兄さんは嬉しかったんだろう。父さんに認められた気がして。

「よし」

 エンジニアだなんて大層な名前を付けても、父さんはすでに引退をしている。制御室を探せば何かヒントがあるのではないかと探した結果、僕は回転率をわずかに下げる方法を覚えた。これならきっと十秒耐えられる。あとはこれを見よう見まねでコンピューターに入力をすれば、酔った父さんくらいなら誤魔化せるだろう。

 テストのことはもう少しだけ待つことにしよう。ほかにも大事なことがある。体力の回復を待って、機会を狙うことにした僕は、地下の部屋を後にした。


 まだ雨季が止まない朝。霧雨が街を覆う。

 僕は鬱々とした街を一人、ある方向へ向かって歩いていた。

 リンクスの働くあの居酒屋、あの日はリンクスに追い返されるようにしてしまって店の名前すら見ないまま帰ってしまった。

 あの時はリンクスがなぜ怒っているのかもわからなかった。

 謝ろう。許してもらおう。それだけだった。

 情けない。今の自分ならそう思える。どうして自分から証明しようとは思わなかったのか。僕の気持ちをリンクスに。

 僕の家から歩いて数時間。居酒屋「シャナ」についた。太陽が真上にあるから多分そろそろお昼の時間だろう。店から例の店主が現れて、店前に本日のお品書きの看板を置く。手製らしく、色褪せた文字で書かれている。

「誰かと思えば、お前は確か……」

「フロントです。イーギス・フロント。リンクスいます?」

「あいにく今日は休みを出しててな、なんだか知らんがジンとかいうやつのとこに行くとかなんとか」

「場所は?」

「確か官邸に行くとかどうとか……」

「そう。ありがと」

「行くのか? 止はしないが、一般人は立ち入りできないところだぞ?」

「一言言えればそれでいいから」

 まだ靄が街を覆っている。足元でさえドライアイスをまき散らしたかのような薄い霧が漂っている。早朝というわけでもないはずなんだけど、あたりの店はまだ閉まっていた。だから余計に後ろからの声に驚いてしまったのかもしれない。

「あー、もう! どこいったのよあの子は! こんなに探し回っていないだなんてどういう生活しているのよ」

 普段人の怒気をはらんだ言葉というのを聞き慣れないせいか、知らない人の声でも盛大に慄いてしまう。

 そう、知らないはずだった。だってここは学校を含む僕の生活圏内から遠く離れている。僕を知る人間はおろか、僕が知っている人間も少ないはず。

「おぉ、久しぶりだのじゃないかマチルダ。まだ店はやってないが、茶でもどうだ?」

「いいねぇお茶……、人探ししててもうくたくた。少し休ませて」

 マチルダ? マチルダってもしかして……。

「今ちょうどフロイトの弟さんが来ていてな」

 僕が振り向くや否や、マチルダ先生が僕を店内に引きずりこんだ。

「雨季が終わったらすぐに航空レースじゃない! こんなところで何かあったらどうするの? 責任とれるの? 私の楽しみを取ろうとしてるの? 何なの? お茶でも飲む?」

 雨季なのでそこまで外は暑くはない。普段は五十度くらいはあるから、こまめな水分補給をしないと命に係わる。だからお茶というのもわかる。でも、こうして開店もしていない店に入り、強引にミントティーをもらっているのは僕の健康を気にしてではない。マチルダ先生が待ち望んでいるレースに僕が出れなくなるかもしれない可能性がゼロではないからだ。マチルダ先生にとってはおそらく、生命活動に直結しているといってもいい。

 お茶を飲みながら互いにどうしてここにいるのかを話し合うと、お互いの利害の一致に気付く。

 先生はジンを探しているらしい。僕はジンの下へ向かったとされるリンクスを探している。

「なんだ。だったら話が早いじゃない。送って行ってあげる。っていうかどうしてあのジン君が官邸になんているのかしら」

「それはジンから聞いてください」

 説明がめんどくさかったのでそう答えておく。

 ジンがどういう経緯かパイロットになろうとしている。もしかしたらそれと何か関係があるのかもしれない。ただその程度の話だ。何も話さなくても現地にいけばきっとわかるだろう。

「お茶なんて飲んでないで早く立って! 追うわよ!」

 先生が豪快にミントティーを飲み干す。まるでカバのように。そして、自分からお茶を勧めておきながらそれに対してなぜか怒る。

 仕方なく僕も残りのお茶を飲み干して立ち上がる。もしかしたらリンクスとすれ違う可能性だってある。もっとリンクスとの間に暗雲が立ち込めてしまう前に、僕の気持ちを伝えないとならない。だったら早い方がいい。そうだろう?

 店裏手の専用滑走路に行くと、ところどころ手入れが行き届いていない路の真ん中に目に悪い色の機体が止まっていた。

 マゼンタの蛍光色。機体の名前は知らないけど、僕をわざわざここに連れてくるくらいだ。持ち主はわかる。

「さぁ、乗って。フロント君のお兄さんとまではいかないけど、私だってそれなりに飛ばせるわ!」

 二人乗りの機体。もちろん操縦は先生で、僕は後ろに乗ることになる。こんなところあまり人に見られたくない。素直にそう思った。

「……じゃ、失礼します」

「さぁ……飛ばすわよ! 見てなさい。不良生徒といえど、私から逃れるなんて百年早いってところ見せてあげる」

 借りたヘルメットも派手な色をしていた。僕は誰にも見られないように深く腰をうずめる。

「フロント君! ちゃんと座る! 人の機体に乗るのなんてそうそうないのはわかるけど、その姿勢は腰に悪いわ! レースのことを考えて」

「……すいません」

 仕方なくシートに適性の姿勢でうずまると、機体はどんどん加速していった。

 機体が陸から離れて、宙に浮いた瞬間、さらに機体は加速を増す。ふわっと体が浮いたかと思えば、居酒屋が手のひらほどのサイズにまで小さくなっていた。

「しかし、リンクスさんがアルバイトとはね。理由は大体わかるわ。心配しないで、先生が話をつけてあげるから。そのためにこうして愛機をコレクションの中から引っ張り出してきたの」

……話をつける?

「あとで私の家にいらっしゃい。最高の装備をフロント君に選ばせてあげる。もちろん、あなたが前に使っていた機体のパーツをつけて改造するのもいいわ」

「もしかして知ってるんですか? もう……」

「みなまで言わないで。相棒ですもの、あんなことされたら立ち直れないのも当然の話。無理に思い出させるような真似はしない。メンタルに響いていいレースが台無しにしたくないの」

「実は、直るかもしれなくて……。父さんが極秘開発していたシステムを僕の機体に導入して、蘇らせてくれるみたいで」

 待ち合わせ場所の目印にされそうな機体の内装は、落ち着いたクリーム色で統一されていた。でもどうやら先生のお気に入りの色らしく、握る操縦桿も派手なピンク色をしている。まるでアニメか何かだ。

 ギラつく色に目が疲れてくるので、クリーム色の内装に目をやって今僕が置かれている現状を少しだけ口にした瞬間、先生は急に黙り込んでしまった。

「あの、……マチルダ先生? 聞いてま」

「あ、新しいしシステムを装備するのね!? 確かフロント君のお父様は……」

「昔、設計士として働いてて……。それを自警隊に流していたみたいです」

「素晴らしい! なんという奇跡の連続! また新しい航空の歴史に人類は到達できるのね! ……もちろんテストは受けたのよね? 乗るんでしょ? それに」

「え、えぇ……まぁ」

「なによその歯切れの悪い答え方! もしかして、お父様と何か諍いが?」

 興奮しているマチルダ先生は、操縦がおろそかになっているようで後部に座る僕に振り向こうとする。ヘルメットも蛍光色のピンクだ。

「先生、危ないんで」

「あ、あぁ……ごめんなさい」

 機体は安定した高度を保ちだした。先生は興奮すると手元が狂う。

「……テストは何とかします」

「何とかなるんでしょうね?」

「何とかしますから大丈夫です。それより、見えてきたんじゃないですか? 官邸」

 僕らの住む町はいま、一年に一度の雨季だ。飛んできた雨雲の上は快晴そのもので、天国のような景色だった。官邸のある都もそう。金のある人間にとっては何不自由しない天国のような土地だろう。太陽を背景に権力の象徴ともいえる高層ビル群が立ち並んでいる。まばゆい光で直視はできないけど、きっとあのどこかにリンクスがいるはずだ。


 当然だけど、僕ら一般人が自前の機体を着陸させるような場所が官邸にあるはずもない。

 なので適当にマチルダ先生が近くの観光スポットに着陸する。

 この国で唯一の遊園地。この辺はもう雨季が終わったらしく、何人かの家族連れがアイスクリームを片手にはしゃいでいた。

「仮に行ったところで会える可能性ってどうなんでしょう?」

 率直な意見だった。

 先頭を歩く先生の背中に問いかけてみた。今まで威風堂々とした歩みだったのが、次第に弱弱しい足取りになっていくのが見てわかる。きっと想定外だったに違いない。

「あ、当たって砕けろって言うじゃない……。とにかく、急ぎましょう。いかないことにはどうにもならないわ」

 先生の巨体が歩くたびに揺れる。

 先生の愛機は、ド派手な色をしている。そのせいか、僕たちが機体を後にすると複数人が取り囲んで写真なんかを取り始めた。

 当初先生は、ちやほやされるのが慣れていないのか僕の後ろに隠れるようにして周囲の反応をうかがっていた。でも、体が大きいので結局僕の後ろに隠れることができないで、観衆の面前に出ることになった。

 塗装にいくらかかったのか。

 機体のベースは何なのか。

 使っているパーツのメーカーは。

 矢継ぎ早に質問されるマチルダ先生は、次第に得意になったのかまるでタレントみたいにサインに応じるようになり、ついには次のレースに参加すると言い出したものだから僕はそれを引き留めて官邸に向かうことを提案した。

 アディオス皆様。ご機嫌麗しゅう。

 マチルダ先生は調子に乗ると口調が変わるらしい。

 観光案内の掲示板に記された通り進むと、厳粛な建物が姿を見せた。

 石造りの外装。まるで神殿のようだった。

「ど、どうしよ。ジン君いないわ……」

 そりゃそうでしょとも言えなかった僕は、一応それなりに周囲を観察してみる。

 砂漠の国とは思えないほどあたりには水が溢れていた。官邸の向かいには花屋があり、色鮮やかな花が店頭に並んでいると思えば、隣には噴水の公園があった。

 ここには砂がなかった。

「どうしてわからないんだよ!?」

 突然聞こえてきた大声で僕は思わず官邸の方を振り向く。

 見ると官邸の門の向こう側で誰かに何かを言い寄っている。鉄格子にその人物がちょうどかぶってしまい、僕の立っている位置からだと誰かわからない。

「私は別にあなたに興味があってきたわけじゃない! 私が知りたいのはフロイトについて。何か知ってるんでしょ?」

 聞き覚えのある声。リンクスだった。そして、詰め寄っているのはジンだった。

 ジンは軍服に身を包んでいて、普段見慣れている粗野な恰好とは違い、まじめを通り越して厳格だった。

「見つけたわ……。ジン君」

「先生、どうするんですか?」

「とりあえず様子を見るわよ。もしかしたらリンクスさんがこっちに来るかもしれない」

 堂々とすればいいのに、なぜか僕と先生は塀に植えてある茂みに身を隠す。

「俺は、今の俺には力がある。お前を守ってやれる。幸せにできるんだ! 俺のところに来い!」

「何から守るの? それも知ってるくせに何も教えてくれないじゃない。……悪いけど、私はそういうつもりはないの。何度も言わせないで」

「何かしら? 二人とも揉めてるみたいだけど」

「先生、ちょっとそっちに移動できません? あんまりよられると茂みに隠れている意味が……」

 茂みに隠れたのはいいけど、マチルダ先生の体格の都合上どうしても僕は茂みから出そうになっていた。

 リンクスがこちらの鉄格子に向かって歩いてくる。ジンにあきれているのか、足取りが荒い。

「……そんなにあいつがいいのかよ」

「私とフロントの間に名前はないけど、そんなことあなたに関係はないわ。これも何度も話したことよ。そんなに私がいいなら航空レースで結果を残すことね」

「何その熱い展開は!? 私、聞いてないわ! 一人の女の子をめぐって争う二人のパイロット……! 二人は空で彼女をめぐり接戦を繰り広げる……」

「先生、静かに……。リンクスに聞こえます」

「……聞こえてるけど?」

 声のする方へ視線を上げると、リンクスが仁王立ちしていた。腰に手を当てているのはたぶん僕らの隠れ方があまりにもずさんだからだろう。

 マチルダ先生は、機体に置いてくれればいいものをまだあの派手なヘルメットをしていた。茂みの緑の中に派手なピンクがあるのだから、少しでも視界に入ればバレるに決まっている。

「や、やぁリンクス。奇遇だねこんなところで会うなんて」

「世間て狭いものねぇ……、私たち今社会見学をしていたところなの」

「先生今日学校休みですよ?」

「休みだとしても生徒の頼み事なら官邸でもどこでも行くわ。だって私はこの子たちの社会科の担当ですもの」

 先生は噓がつけないらしい。

「……フロント、私に何か用?」

「あ、いや……。その、……ここじゃなんだし後で二人で話できないかな?」

 別に何も悪いことをしているわけでもないのに、いまだにリンクスと目を合わせられずにいた。

「ところでフロイトに関する話って何なのかしら? 私それが引っかかって」

「なんだよ……フロントだけかと思ったら……。先公もいるのかよ」

「先公!? 聞き捨てならないわ……。ジン君、あなたに話があってきたの。私としては二人きりで話をしたい気持ちなんだけど、別にここでも構わないわ……! 私が何を言いたいか、感の良いあなたならわかるわよね?」

 不遜な態度のジン。それを見た先生は茂みからいきり立った。

 先生が何を言わんとしているのか、僕にさえわかる。当の本人のジンがわからないはずがない。

 でもさすがに場所が悪い。騒ぎを聞きつけた近衛兵が官邸中から集まりだす。

「なんとまぁギャラリーが増えたこと」

「先生、なんかこのままだと捕まるような気がするのは僕だけですか?」

 気づけば門の外側にいるはずの僕らの背後にも赤い軍服に身をまとった近衛兵が銃剣をもって構えている。

 投獄されてしまうのではないかと心の底から恐怖に駆られた瞬間だった。

「外が騒がしいかと思えば、女性と子供に何を向けているんだね?」

 ちょうどジンの立っている石造りの塔の真上、小窓から見たこともないひげを生やしたおじさんが顔を出していた。

「ガーディス大統領……!?」先生は硬直していた。

「ジン、あの二人は知り合いか?」

「……担任だよ。なんでここまで来たのか知らないけど」

「なんと……。担任の先生でしたか。これは失礼。今そちらに向かいますので、少し待っててもらえますか?」


 ガーディス大統領。本名、ガーディス・アイアンはジンの父親らしい。

 官邸の中庭で、先生と僕とリンクス、そしてそっぽを向いたままのジンの四人で少しだけ談笑をした。

 顔を見せることもなく、ただただジンを学校に任せっきりにしていること、普段の素行の悪さを平謝りしていた。この瞬間、ガーディス大統領は肩書を父親に変えていたんだと思う。

 先生は恐れ多いと慌てふためいて、大統領の倍以上頭を下げていた。

「ジン。お前も頭を下げんか。普段ご迷惑をかけているんだろう?」

「知らねぇよ。んなもん」

 ジンは大統領に無理やり頭を押さえつけられ、

「うちのバカ息子が大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と二人同時に再び深々と謝罪した。

 官邸というものはもっと堅苦しい場所で、大統領というのももっと厳格な人だと思っていたのは僕だけではないだろう。その証拠に先生も目を丸くして大統領の対応に困っている様子だった。

「……あ、あの」

「なんでしょう?」

 先生がおずおずと大統領の顔色をうかがいながらではあるけど、何か意を決して口にしようとしていた。

「そこまでおっしゃるということは、もしかして知ってらっしゃるんでしょうか……? ジン君がここにいるフロント君の機体に無断で火を点けたということを……。フロント君、次の航空レースに出る予定だったんです」

「なんと……!? ジン、それは本当のことなのか?」

 大統領の隣で少し距離を置くジンは、さっきから話を半分しか聞いていないのかずっと空ばかりを眺めていた。

「……勝手に燃えたんだろ?」

「貴様というやつは……恥を知れ! ……航空レースに間に合わないかもしれないのですが、どうか私にその機体を弁償させてください」

 大統領はジンの頭を無理に下げる。謝られても本当の意味では機体はもう戻りはしないのに……。

 ジンはこの大統領の行為がどうしても我慢できなかったらしい。

「放せよ……! 親父ィッ……!」と頭にいまだに乗ったままの年季の入った大きな手を強引にどけると、官邸の中に走り去ってしまった。

「まったく、いつまであんな子供のような真似を……。見苦しいところをすいません。出来ればでいいのですが、少しばかり官邸の中を案内させてもらえませんか? 未来ある子供たちに少しでもいい影響になればと思いまして……。もちろんそれでうちのせがれの行為が許されるとは思いませんが」

 官邸の中はハイテクだった。鍵を開けるのには指紋認証が必要で、通路は石像のように真っ白いロボットが右往左往と掃除をしている。

「ロボットは実にいい。人間と違って弱音を吐くことも愚痴を言うこともない。指示に従ってそれを完ぺきにこなす。まさに完全無欠の存在」

 先頭を大統領が、続いて先生と僕。その後ろをリンクスが続く。普段あまり見かける機会がないガラスがいたるところに仕切りとして使われていて、ここが僕らが住んでいるところとは一線を画すところだということを改めて思い知らされる。近衛兵も要所要所に見られるけど、その手には外の兵とは違って銃剣を携えていない。きっとロボットの影響も少なからずあるのだろう。

 通された応接室は広々としていて、明るい。窓からは官邸の庭が見えて、砂漠の国なのに緑豊かだった。きっとずいぶんとお金をかけているに違いない。おそらく専属の庭師でも雇ってそれなりに凝った庭にしているはずだ。

 勧められたソファの感触は、たとえて言うなら大きな猫の腹に座っているような感覚だった。どこまでも沈んでいくように柔らかく、油断したら寝てしまうんじゃないかと思った。「この三人に紅茶を」

 僕の真正面には木製の大きなテーブルをはさんで大統領が。どうやらテーブルには機械が内蔵されているようで、大統領はテーブルをなでながらそういうと「かしこまりました」と音声が流れた。

「お詫びといってはなんだが、少しだけこの国の未来についてお見せしよう。ここでのことは極力他言厳禁で」

 大統領はそう前置きするとソファから立ち上がり、後方の壁へと歩を進めた。

「単なる壁にしか見えないものも、私の意思一つで……」

 壁の色素が抜け落ちていくように、透明になっていき、次第にそれは壁から窓に変わっていった。

大統領は手を腰に回して組んでいる。何かボタンを押すような仕草はなかったと思う。僕を含め、両隣の二人も声をなくして唖然としているように思えた。先生は口を開けて魚のようにぽかんとしていたし、リンクスは目を丸くして目の前の出来事が信じられないといった顔をしていた。

ここは明らかに文明が違う。僕らの住んでいた砂の町と比べて。

「我が国が進むべき道は、人に頼らずとも自活できる未来。自衛も間もなく人の力ではなく、ロボットを多用することになる。その時、この国は初めて自由を得る」

「人は労働から解放されると?」先生が言った。

「左様。労働から解放されればすべての価値観は消え去り、真の意味での平等が待っている。そのために必要なのは富だ。そして、その富は長らく我々の悩みの種であった水問題も解決していく」

 大統領の視線の先には、官邸の中庭に続く小川があった。この砂の国でどこから水源を引いているのか……。噂に聞くこの国で一番大きな泉というのもここからでは遠いだろう。

「ずいぶん立派なお庭ですね……。これはいったいどこから水を汲んできているのですか?」

「リンクスさん。ここは官邸ですよ? きっとインフラ整備も整っていて、各家庭にも上下水道が整っているのよ」

「それではどのみち水問題に直面してしまう。私は天候などという不確定事項に水源をゆだねたくない。先生も実体験としてこの国の住民なら一度はあるはず。明日使う水の心配、今この瞬間の喉の渇きを癒す一滴がないときさえある。渇きは人を絶望に落とす。先の大戦、この砂漠の大陸の中でも水の国と称えられる隣国のサンドランドでさえ悲惨な状態だったと聞きます。だから私も水を求める人の声を聴き、私物の機体であの日飛び立ったのです」

「……大統領が水を運んだ一人だったんですか」

「何、大したことではない。同盟国が渇きに苦しんでいるのならば、癒しに行くのが盟友というもの。それより、もう紅茶ができているみたいじゃないか。遠慮せず飲んでください」

 こちらを振り返る大統領に言われて、いつの間にかテーブルの上にティーカップが三つ並んでいるのに気づく。

「本当はそういう小さなことでさえも見逃してほしくなかったのだが、少しばかり話が長くなってしまったみたいだ」

 数舜遅れて、大統領のいたテーブルの上がわずかに割れ、ティーカップがそこから上がってくる。そしてあたかも元からそこにあった言わんばかりの自然さで波もたてずに落ち着いてしまった。

「この官邸自慢の茶葉で入れてある。私はこの紅茶が何より好きでね」

「この紅茶もすべて機械が行っているんですか?」リンクスは紅茶を一口すするとものおじもせずに聞いていた。

「さすがに今はそういった機微な感覚はロボットには真似ができない。しかしいずれ人間が独自の好みで調整をしていける日が来るだろう」

 僕を除く三人が紅茶に舌鼓を打っている。

 波を打ったように静まり返る応接室。観葉植物が外の光を反射して、すこし部屋が明るく感じる。でも僕の気持ちは少し違っていた。

 目の前に直談判してでも聞きたいことがある人がいる。

 でも、ほかの人からすればもう過去の話。

 だからってこのチャンスをみすみす捨てるのも違う。

 僕の心はこの二つの気持ちで揺れていた。

 両脇の二人に同時に肘鉄を入れられて、少しうなってしまったとき、大統領が感づいたようでティーカップを置いて僕に視線を送る。

「どうかしたかね? もしかしてコーヒーのほうが好みだったかな? あいにく庭ではコーヒー豆は栽培していないのだよ」

 そうじゃない。

「トイレならそこの扉を出て右に曲がったところだが?」

 そうじゃないだろ?

「少し熱いか……。おい、もう少し気温を下げてくれ。客人が息苦しいそうだ」

 そうじゃないだろ……!

「……どうして、兄を……。フロイトの捜索をしてくれなかったんですか」

 驚いたような表情を見せた大統領は、すべてを察したように薄く笑った。

「そうか……どおりで顔に面影があると思ったが、君があのフロント君か。君のお兄さんにはずいぶんと世話になったものだよ」

「兄が、ここに……」

「あぁ。少しばかり仕事を手伝ってもらっていた時期があってね、君に似て聡明なところがあった。私としても彼の損失は相当なものだった。……君も少しはわかるとは思うが、砂漠での捜索はこちらも命を賭けねばならない。あの時の砂嵐でどれだけの災害が周辺地域で起きたかわからないわけでもないだろう? ……君の兄を思う気持ちもわかるが、私はこの国を守らねばならんのだ。……もう、この話はやめにしよう。私も執務に戻らねばならない時間だ。ジンが消失させたという機体に関しては後日こちらかまた改めて連絡を差し上げよう。まだ時間に余裕があるのなら官邸を見物していただいても構わないが、閉館時間を守ってもらいたい」

 人の命がかかっているのはこちらも同じはずだろ? どうしてそれをわかってくれない? あの日の失望が怒りとなって、僕は拳を震わせていた。

 また、何もできないのか──

 隣のリンクスが、しびれを切らして何かを言おうと立ち上がった瞬間、

「機体の方は結構です。大統領、お言葉ですが機体というのはお金を駆ければいいというものじゃないんです。フロント君のお父様は元設計士です。お父様が必ずやフロント君のために技術を結集したものを組んでくれるはずです。では、失礼します。私たちも忙しいので」

 いつもどこか間の抜けたマチルダ先生が毅然とした態度で怒りを表していた。


 官邸の庭から入口にある柵に向かう道すがら、僕は何度も大統領から感じた違和感について話そうとしたけど、それを察したマチルダ先生から猛烈に睨まれて口をつぐんでしまう。

 ようやくそのことについて話せたのは、口直しに喫茶店にでも行きましょうとマチルダ先生が選んだセンスのいい古い店に入ってからだ。

「なんというか、兄さんのことを話したとたんに急に機嫌が悪くなったというか……」

 このことに関しては二人とも同じことを思ってくれていたらしく、終始僕の方を見てくれていた。結局僕はあの官邸でさしだれた紅茶を飲むことはなかったので、この店で一番売れているというジャスミンティーで失った水分を補う。初めて飲むものだけど、清涼感が嫌いじゃなかった。

「私が思うにきっと何かフロント君のお兄さんについて裏があるわ……。しかも国家ぐるみの」先生が頼んでいたケバブにかぶりつく。官邸で大統領が話したのだから国家が絡んでいるのは当然なんだけど……とリンクスも思ったのだろう。あきれたという表情で車通りのある道路を眺めていた。この帝都では飛行機よりも車のほうが圧倒的に多い。僕はいつもの先生に戻ってくれたことにたいして安堵した気分にもなったのだけど、どうにもリンクスは機嫌が悪いみたいだ。

「それにしても、ジン君ったら! フロント君に謝るどころか、お父様に叱られて逃げるだなんて……。担任としてあきれてしまってものも言えないわ」

「よほど僕には航空レースに出てほしくないみたいですね」

「……当然でしょ? 不戦勝ってことで勝つつもりなんだから」

「え!? そんなのってあり……?」

「さぁ……? でも機体がないんじゃ出場できないじゃない」

 リンクスの目の前に注文していたサンドイッチセットが届いて一口頬張る。

「それについてなんだけど、実は言わないとならないことがあって……」

 喉が渇いていたのも確かなんだけど、官邸を出てから一気に緊張がほぐれてしまい、どうにもおなかが空いていた。ここは先生が面倒を見てくれるらしいので甘えることにする。

 店員さんを呼んで、この店で一番肉の量がありそうなものを頼む。そうでもしないと肉なんて食べる機会がない。

「父さんが、機体をくれるかもしれないんだ」

「かもしれない?」

「いや、あの……。父さんが新しい機体をくれるんだ。だから、その辺は心配しないで」

「おじさんに航空レースについては話したの? それなのによく許可が下りたわね」

「まぁ、その辺は……なんとか、さ」

 マチルダ先生が口をはさむんじゃないかとひやひやした。でもそこは先生も空気を読んでくれていたみたいで、リンクスにばれないようにサムズアップしてくれていた。大丈夫、話さないよって意味だろう。

「なんか歯切れの悪い話し方。なんか本当は隠してるんじゃないの? 私に隠れてまたあの娘とつながってたりして」

「そんなことないって。全然。そもそも元からそんなことはなかったんだし」

 苦笑い、ごまかし。真実を語っているはずなのにそんな態度しか取れないのは、実際はまだ機体を父さんからもらうためのテストに受かっていないという事実が後ろめたいからだ。

 日当たりのいい窓際に僕ら三人は座っていた。通行人も見えるくらい窓は磨かれていて、あまりこういう場所に慣れていない僕はいるだけで戸惑う。都はすごい。店に空調もあって同じ国とは思えないほど涼しい。

 視界の隅の方で何か違和感を感じた。窓の向こうで見慣れた人物が通り過ぎたような、そんな気がした。そして、その勘は当たったらしく店内に誰か入ってきたようだった。

 人の出入りのあるレジカウンターの前、軍服を着たジンが人を探すようにあたりを見渡していた。慌てた店員がそこに駆け寄り、何か少し会話をして、僕らのいるテーブル席の方を指さす。

 ジンは軽くため息を吐いた様子で、こちらに小走りでやってくる。

「よう。ここで昼飯でも食べているのか?」

 僕らと会話をすることに少し抵抗があるようで、話し方もぎこちない。腕を下ろした状態で、肘から先だけを百八十度まげて挨拶をする様もまたぎこちない。

「よくここがわかったわね」

「なんだ先生もいたのか」

「なんだはないでしょ……。一応聞くけど、フロント君にいうことはないの?」

「ないね」

 ジンが僕に対して三文字の言葉を放つと同時に、コップの水が飛んで行った。ジンの髪から服まで濡れてしまった。

「……礼儀も知らないくせによくそんな服を着れたものね。それとも何かしら? お父様の鶴の一声があなたにその服を着せているのかしら? だとしたらこの国のトップもそこが知れているわね。私には民意を汲んでくれるような方に思えないもの」

 感情的になるほど先生は怒っていた。

「ジン……、私たちに何か伝えたいことがあってきたんじゃないの? 正直、あなたのやったことは人としてありえないと思う。でも、それでもここに来てくれたなら私はそれを聞きたい」

 リンクスはジンの手を握ってそういった。

「何しに来たんだか知らないけど、そこに突っ立ってると店員さんの邪魔になるだろ? 座るなり出てくなり勝手にしろよ」

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