第9話 灰の中からの創造
俺が乗っていた機体は、拿捕されたゼロ式艦上戦闘機をベースにつぎはぎを施した一機だったようだ。小説で読んだ通り軽量化のためか木でできていて、炎のまわりも早かった。
心臓部だけでも残ったのが不幸中の幸いか、飛ぶことは無理でも運ぶことならなんとか……。
ここがさほど田舎じゃなくてよかった。家までどうにか押して帰ることにする。
雨はまだ止む気配がない。
祭りも終わり、リンクスとも終わりを迎えた俺に残されたはずの相棒はもう飛ぶこと汎ない。
悲しいなんて言葉も、今の俺を慰めるには足りない。
いや、高ぶって一人称を間違えていた。
結局、俺じゃなくて僕だ。
ジンの言う通り。僕には縁のないイベントだったのかもしれない。
空なんて飛ばなければ、ここにさえ来なければ、もしかしたらリンクスとも別の形でまだ続いていたのかもしれないと思うと……。もう、よそう。
疲れた。
雨の一粒一粒が、僕の全身を濡らしていく。
リンクスが言っていた。僕とジンとの勝負で、ジンが勝ったらジンと付き合うのかもしれない……。
……力が欲しい。
……もっと力が。
僕は一縷の望みをかけて自宅を目指していた。
腕時計は深夜二時を回っていた。
祭りの会場を出たのは八時くらいだったはずだ。
飛行機なら三十分くらいの道のりを五時間かけて戻ってきたわけだ。
もう、考える余裕もないほど疲れている。雨はもう止んでいるけど、全身ずぶぬれだ。
家を囲む薄い塀にもたれかかり、閂(かんぬき)を外してもらうよう頼んでみる。
こんな時間に帰るのなんて初めてだ。何か文句を言われるかもしれない。
「父さん……。帰ってきたよ。開けてよ」
こんな時間だ。寝ているのだろう。中からは物音ひとつしなかった。
「父さん! 雨で全身がずぶぬれなんだ。このままじゃ風邪ひいちゃうよ」
実際、風が吹くたびに全身の細胞が震えるような寒さを覚えた。
「父さ……」
「こんな時間に何の用だ?」突然門が開いたのでひどく驚いた。
父さんはひどく酔っているのか、顔が紅かった。
父さんは僕が押してきた機体だったものを一瞥して、すぐ僕に視線を戻した。
「誰だ?」
それが父さんがはっきりと僕に対して言った第一声だった。
「誰って……。フロントだよ。悪い冗談はよしてよ」
「うちにそんな奴はいない。帰れ」
「え……?」
「聞こえないのか? うちには危険な飛行機乗りの息子はいないと言っている。わかったら帰れ。何時だと思ってるんだ?」
父さんはそういうと門を閉めてしまう。
「待って! ……なんで? どうしてなの父さん!?」
「もし仮にうちのバカ息子に会ったら伝えておけ。うちが貧しいからって新聞の一つも読めないとでも思ったか? バカにするな。空から帰ってこない息子は一人だけでいい。親の言うことも守れないようなバカ息子はうちにはいない。イーギス・フロントは死んだ。いいか? ちゃんと伝えるんだぞ?」
父さんの気配は門から遠ざかって行く。まるで本当に僕のことがわからないとでも言うように。
「お願いだ! 待って! そのことについては謝るから……」
「……しつこいぞ。大体そのガラクタは何だ? うちは設計と整備はやってもごみの処理まではやってない」
ギィっと古びたドアの開く音がした。これがだめならもうあきらめるしかない。
僕は深呼吸をした。
「リンクスが、……危ないんだ」
門の向こうから音がしなくなった。
「ジンとのレースで僕が勝たないと、リンクスがジンと結婚するかもしれない」
「……それがどうした?」
「リンクスは……! 兄さんと仲が良かった。いつも二人で空も飛んでた……。もし仮に、ジンと結ばれるようなことがあったら、きっと兄さんのことも忘れられてしまう。兄さんは死んじゃいない! 死んだって証拠がないじゃないか! 僕ら二人だけになってしまう。……兄さんのことを信じられるのが」
「……。悪いが」
「……親父!」
そういえば、兄さんもオヤジって呼んでたっけ。口にしてからそれを思い出す、同時に門が開け放たれて父さんがまだ酔った表情のまま僕を迎えてくれた。
「……覚悟があるならついてこい」
門を入ってすぐ向かって左側に、僕も入ったこともない開かずの倉庫がある。鍵は父さんが管理していて、僕もその場所がわからないでいた。
父さんは常にそのカギを持っていた。いつも持ち歩くお酒の瓶に張り付けたまま。
「これは俺にとっちゃ夢のカギだ」
言いながら瓶から鍵を取り外す。
「そしてここからが俺の夢の国。俺はいつも夢を見ていた。この鍵を使う夢を……、あいつが消えた砂漠を眺めながらいつか帰ってくるんじゃないかってな……」
ガラガラとシャッターが上がっていく。振動で数年間ほったらかしにしていた砂ぼこりがパラパラと落ちてくる。
「言っとくがお前には無理だ。才能がない。フロイトさえ逃げ出した新装だ、そんなものお前に使いこなせるとは思えない。それでもやるというのなら、止はしない。だが覚悟しておけ。今からお前が超えるのは音の壁だ」
──音の、壁。
夜が明けて、朝日が僕の真後ろから倉庫に差す。見えるのは、薄汚れた壁と機材。
「ここはまだカモフラージュだ。俺の研究は旧国軍の機密事項だった。下に降りるぞ」
父さんがおもむろに敷かれていた鉄板をどかすと、階段が現れる。
「ようこそ俺の国へ」
椅子から伸びる二本の太い鉄の棒が、部屋の中心にある円柱に向かって伸びている。
「遠心分離機だ。今からお前にテストを受けてもらう。もし仮にそれに合格するようなことがあれば……、まぁ、万が一にもないだろうが、その時はお前の望みを叶えてやろう」
父さんが二階にある操縦室に向かう。二階とは言うものの、ここは地下一階に当たる部屋なので、厳密にはその中間のスペース。
「座れ」マイク越しに話す父さんの声が部屋中に響き渡る。
開かずの倉庫は埃まみれなのに、ここは異常なまでにきれいだった。病院を思わせる白壁に、真新しいコンピューター、地上の住居スペースの百倍文化的だった。
「何を見ている? さっさと始めろ。さもなくばテストもしてやらんぞ」
「なんかここだけきれいだなって」
「……言ったろ? ここは夢の国なんだ。きれいにすんのも主の務めだろ?」
父さんがきっと僕がいない間に掃除でもしていたんだろう。僕は椅子に乗り、備え付けのベルトを体に巻いて、椅子と体を固定する。
「最初はゆっくりと回す。慣れてきたら手で教えろ。無理はするな」
ガコンと留め具が外れる音がして、椅子はゆっくりと動き出す。遊園地なんて行ったことはないけど、きっとこういうものがあるんだろう。
椅子はやっぱり円柱を中心に回転するようで、動くたびに鉄パイプがきしむ。
何のテストかわからないけど、これくらいなら余裕だ。手を挙げて慣れてきたことを父さんに教える。
こんなテストならすぐに機体を直してもらえる。そう軽く考えていた。
「安心しろ。点検だけは月一でやってる。それよりどうだ? そろそろわかってきたろ? Gが」
父さんの声が室内に響いた瞬間、メリーゴーランドのような緩慢なスピードが殺人的なスピードに変わっていく……。
重心がずれ、体が後方に置いて行かれるような異様な感覚。まるでシートに締め付けられるようだ……!!
「堪えているようだな……。だがまだまだこれからだ。今はまだシートに押し付けられるくらいの感覚だろうが、次第に息ができなくなる。今から倍のスピードにする。お前がそれに十秒耐えられたらお前の望みを叶えてやろう」
ガッっと鉄パイプが鳴ったかと思えば、一気に胸が押しつぶされそうな感覚に襲われる。
……息が、できない!?
大きく息をしようものなら、容赦なく重力が胸を押しつぶす。血液が後方へ持っていかれる感覚も相まって、意識が飛びそうになるのを必死に耐える……!
「ほう、なかなかやるな」
そう聞こえたかどうかくらいで、僕の意識は暗転した。
気が付いた時には父さんはいなかった。僕はぐったりとしただるさからシートから降りられないでいた。
テストは不合格……か。
あれから何度も一人で試した。そのどれもがこのざまで、今では立つ体力もない。
天井を仰ぎ見ると、真っ白な照明が人工的な輝きをもって部屋中を照らしていた。普段見ている太陽とは違う、冷たい光だった。
結局僕には何の関係もないイベントだったんだろう。
この国の誰もが憧れる航空レースに、僕ぐらいの年頃の男なら誰しも意識をする月齢祭。僕みたいな気弱で、非力で、気が付けば本ばかり読んでいるような男には関係のないイベントなんだ。
リンクスはきっと忘れる。環境の変化もあるだろうけど、それに伴った情報の偏りで。
兄さんのことも、僕との日々も。
すべては、大それた夢だった。僕なんかが航空レースだなんて……。
人工的な光がまぶしくて、天井を仰ぎ見たまま、その光を片腕で遮断していた。だから人の接近に気付かなかった。ましてこんなところ、住人である僕ですら知らない。
「よう。久しぶりだなフロント。お前がまさかこの部屋に来るとはな」
僕はその言葉の主に唖然とした。それこそもう何もする気力もないのに、体からすべての力がそぎ落とされるかのような状態だった。
「兄さん……」
まぎれもないフロイト兄さんが悠然とした態度で機材を眺めては懐かしそうに眼を細めていた。
「どうしてここに……?」
「出来の悪い弟が、親父にいじめられているのを見てらんなくてな。少しばかり気合でも入れてやろうかと思って来てみたんだが……、予想以上に派手にやらかしてるな」
どこか不思議な感じだった。
兄さんの声は部屋に響くことはなく、まるで僕の耳に直接話しかけているかのような感覚。そして、どういうわけか兄さんの色がすべて薄く体の向こうにある扉でさえ透けて見える。
「……まぁ。今に見ててよ。必ずこなして見せる。これからいいところなんだから邪魔しないでよ」
「なんだ、減らず口をたたく余力はあるのか。しばらく見ないうちに強くなったな、フロント」
「見直した?」
兄さんが差し出した手を掴んで、起き上がる。手の感覚はしっかりしている。
「懐かしいな……。お前はまだ小さかったから覚えてないかもしれないけど、俺もここに来たことがある」
「兄さんが?」
「あぁ。親父が進めてた新しい技術の試作品のテストでな……。本当はそれを使ってレースに出る予定だった。……予定、って言ってもそんなもんは親父が勝手に決めていたこと。俺はいつも通り自分で調整した機体で飛ぶつもりだった。お前もわかるだろ? 愛機ってやつはそうそう変えられない。女と同じさ。少々癖がある方が付き合ってて楽しいのさ」
「父さんは兄さんが新装から逃げたって……」
「……あいつはそういうだろうな。なんせレース当日に俺が言い出したことだ。主催側は相当お冠だったみたいで三連覇した俺でさえこっぴどく注意を受けたもんだ。……でもな、これはあいつの夢かもしれないが、俺には俺の目的があった」
兄さんは部屋の中央にある鉄の円柱に手を乗せると、どこか遠い目をした。
「フロント、気をつけろ。連中はお前を妨害してくる。大切なのは、踏み込みと、間合いと」
兄さんの姿は蜃気楼のように揺らぎ、消えていく。
「……気合」消えてしまった兄さんの言葉を継ぐように口にする。
踏み込みと、間合いと、気合。兄さんの口癖だった。
待ってといえなかったのは待たなくても会える気がしたから。それがいつかはわからないけど、きっと近い将来、僕は兄さんに会える気がする。だから聞かなかった。たとえそれが幻でも、僕にはその確信があった。
ぼんやりとした意識の中、一人で立っていた僕。さっきの兄さんはやっぱり幻だったのかと一人物思いに耽る。最近色々ありすぎた。疲れが溜まっていたのかもしれない、と視界の隅に何かが落ちていたことに気付く。さっきまで兄さんの幻影が立っていたところ。それは見覚えのある意匠だった。
兄さんの初代愛機「陽炎」の炎を模した鷹の意匠。この部屋には持ち運んだ覚えのない、僕の機体のボディの一部だったのだろう、周りがひどく焦げている。父さんが僕に機体をくれるとき、丁寧に塗装をしていた。ピカピカに磨かれたボディの下には、兄さんがいたんだ……!
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