第11話 LINK

 ジンがフロイト兄さんについて話すのは初めてのことだった。

「俺もあの時は妙な飛び方をするなとは思ったんだ。まるで砂嵐に吸い寄せられるみたいな飛び方だった。……いや、あれは自分からその方向へ向かうようだった」

 十二時をとっくに過ぎていた。店内にはあまり人はいないが、僕らだけということもない。人目につくかもしれないが、話には集中できる。

「兄さんが……? まさか」

「自殺行為よ」

「実際俺以外の人間だって見ている。先生も見たろ?」

「確かに、飲まれるというよりは……何かその先に目的でもあるような飛び方だったわ。でも機体も何かのトラブルに見舞われているようにふらついていたし、何かの見間違いかも」

 僕が知る限り、フロイト兄さんが自ら命を絶つような悩みを抱えていたとは思えない。

「ならこれならどうだ」

 ジンは軍服のポケットから何やら小さな紙きれを一枚取り出した。その紙切れはほつれていて、明らかに一枚の紙から無理に破り取った感じだった。

「なによこれ」

「リンクス。この国の地図を見たことはあるか?」

「バカにしてるの? それくらいあるに決まってるじゃない」

 ジンは不敵な笑みを浮かべてその紙切れを開いて見せた。

 その紙切れには何かの走り書きのような雑な地図のようなものが記されていていた。ちょうど兄さんが消息を絶ったアムール砂漠のあたりを書いているようにも見える。

「これってこの国の地図のつもりかしら? それにしても……、広いように見えるのは私の気のせい?」

「あぁ……。これは官邸の中にあったものを丸写ししてきたものだ」

 僕らが知っている地図よりもわずかに西に広いのは明らかだった。国境を境に西に延びるアムール砂漠。その向こうは隣国のサンドランド。

「でもその地図がなんだっていうんだ?」

「ったく。気づけよ……。お前の兄貴はここに何かを探しに行ったかもしれないって話だよ」

 ジンが丸く指を走らせるのは国境寄りのアムール砂漠だった。

「でも何を?」

「俺が知るかよ。ただ、もう一つ噂がある。……昔、ちょっと付き合いがあったジャンク屋から聞いた話なんだが、航空レース当日はもちろん大陸からのお偉方も観戦しに来る。去年俺が優勝した時なんかももう何百人と見に来てた。でもどういうわけかお偉方だけで、貧乏人は一切来ない。変だと思わないか? 政府役人しか見に来れない国際競技なんてありえないだろ」

「裏で何かやってるてことか」

「確信はないがな」

「政府役人しか来ない……。政府役人にしか興味がないこと……。そういえば、庭園立派だったわね。帝都以外の地方は自宅に貯水池でもない限り店で買わないとならないほど水に困ってるっていうのに」

「天候を操る……?」

「フロント、小説ばかり読んでないでもう少し現実のことも勉強しなさい。そんなんじゃ将来私の店に来てる浮浪者みたいになっちゃう。あんたあの人達の身になってごらんなさい? 毎日血肉をむさぼるような生活をしているのよ? あんた勝てる? あの人とたちに腕っぷしで」

 思いついたことをそのまま口にしただけなのに、リンクスに詰問されてしまう。何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。

 すっかり氷が解けてしまったジャスミンティーのストローを咥えて、あるはずもない水分を求めて吸う。

「……実は、人工的に雨が降らせる方法がある。俺も、ここに入ってから初めて見た。大量の塩を乗せた航空機を飛ばして雲の上からばらまく。すると雲の中の水分を集めて雨が降りやすくなるらしい。現に試験的にやった結果、帝都のお庭は今やメルヘンだ」

「そういえば……、あなたのお父様もずいぶんと水資源に関して興味をお持ちだったわ。あながちフロント君の話も当たらずとも遠からずだったりして……」

「先生までそんな話に乗っかるんですか?」

「あくまで可能性の話よ。仮にそれが現実に行われているのならもしかしたら深刻な話になっているのかも」

「どうしてです?」

「いい質問ねリンクスさん。ここからは私の仮説になるわ」といいながらなぜかいつもかけているパッションピンクの眼鏡をはずし、テーブルに置いた先生は前のめりになって話し出す。

「単刀直入に言うと、兵器開発の成果を世界に向けて発信しているのよ」

 兵器……。重い言葉だった。人を殺すための、それだけの道具が作られているかもしれない。本格的につくられたそれは、僕らの生活にどれほどの影を下ろすのだろうか。もしかしたらここが紛争に巻き込まれる可能性だってある。そうなれば学校どころではなくなる。家は焼き払われ、大人は戦地に赴き、今日までの和やかな日々が嘘だったかのように空が黒煙で覆われる。

 その可能性があるというだけで目の前が暗くなった。

「航空レース。もちろん多くの人が目にするのは道端の蟻んこじゃなくて、大空を舞う銀翼のはず……、機動性は戦地では十分武器になるわ。それだけじゃない……もし仮にジン君の話にあるように飛行機から何か散布する形で地上の目標物に何かしらの被害を与える方法があるなら……。例えば爆弾。空から圧倒的な火力で被害を与えることができるでしょうね」

「……私、航空レースはただの祭典かと思ってた。だって……、そうでしょ? あんなに賑やかで、みんな熱中してて、この国の男なんて女の子より空に飛ぶ飛行機のことしか頭にないことだって多いのに……、そんな、戦争だなんてそんな」

「リンクス……。大丈夫だよ。ただの可能性の話だから。もし仮に……、そうなるようなら……そうなる前に明らかにすべきだ。兄さんが何を見ようとしていたのかを」

「おいフロント。なんだお前その自分が当たり前に勝つっていう発言は……。当日、あの空をオーバーランするのはこの俺だ。……リンクスのことも、その時決着をつけてやる」

「まぁ、今年は一人の女性をめぐって十代の男二人が空を駆けるのね! 今年はますます面白くなりそうね」

 先生がまた頭上を見上げ、自分の世界に入り込んでしまう。

「ジン、なんでその話を僕に?」素朴な疑問だった。僕の機体を燃やし、僕の存在を否定し、兄さんの存在も否定してきたジンが手のひらを返した。リンクスのご機嫌を取るのももしかしてあるのかもしれないけど、兄さんのことをリンクスがどう思っているのかなんてジンにすらわからないことだろう。なのに、どうして……。

「俺はこの国のパイロットだ。パイロットってのはその国の空を飛ぶだけが能じゃねぇ……。そうだろ?」

 ジンはそう言うと誇らしげに肩に刺繍されたこの国の国旗を撫でていた。

 ジンが嬉しそうに笑っている姿を初めて見たかもしれない。


 家に帰るころにはまたもや日付が変わっていた。また門に閂でもされているんじゃないかと思って門扉に手をかけた瞬間、スッと扉が内側に空いた。どうやら僕がこの時間に帰ることを見透かしていたらしい。

 沈みかけの月が泉に反射して煌めいている。その中を魚影が動き、水面に波紋が広がる。

 忍び足で例の地下施設に行こうとしたけど、父さんがカギを持っていることに今更気付いた。月明りの薄暗がりに父さんの姿を探すも、どうやら外にはいないらしい。

仕方なく自室に戻ろうと一歩足を踏み出して思い出す。そういえば、家を出るときに鍵なんてしてなかったような……。

 例の扉の前に立ち、手をかける。

 シャッターは重いけど、どうにか動く。ということは、あの施設に行ける。

 細工はしたけど、そのことについて少し罪悪感を感じるようになっていた。

 そんなことをして父さんの研究を軽んじるのは違う。

 そんな真似をして手に入れた機体で、兄さんが飛んだ空を汚すのか。

 そんな方法で勝って嬉しいのか。

 いや……。僕は違う。そんなことをするために戻ってきたわけじゃない。

 そんなことを逡巡している間に、階段を下りきってあの施設についた。

 誰もいない一人だけの真っ白い世界。キンと冷たい空気が張り詰めているのは気のせいじゃないはずだ。

 やるぞ。

 僕は一人制御室に行き、僕がいじくり返した部分を元に戻し、階下のあの椅子に腰を下ろす。部屋の真ん中の軸から鉄の太い棒が伸び、僕の座る椅子につながっている。一瞥した後に、一息ついて安全装置のバーを下げる。

 設定したタイミングで少しずつ加速していく景色に、血の気が引いていく。そして覚悟する。自分が今、超えようとしている壁に再びよじ登ることを。そしてそれをこえようとしていることを自覚する。

 超える。

 超えてやる。

 超えなきゃ。

 絶対に。

 気づくとバーを握っていた。加速していく景色の中、絶対に流されないようにと、今度こそつなげて見せる!

 初めて空を飛んだ時、兄さんも見たかもしれない景色を見たとき、思ったんだ。

 僕が兄さんの代わりになって、父さんの時間を進められるかもしれないって。

 父さんはまだ一日が終わる時間になるとアムール砂漠を見ている。疲れ果てた目で、もう何を見ているのかわからないような目で。

 父さんは兄さんがいなくなってしまった時間から出られずに、悲しみの奔流にその身を飲まれてしまっている。

 だから僕が……、いや、俺が繋げるんだ。兄さんがいなくなった過去と、兄さんを信じている今を……!!

 少しずつ、スピードが落ちていく。設定した時間が過ぎたようだ。ぐるぐると回る視界の中に、白以外の色を見た。

 ……父さんか。

「合格だ。フロント、機体の修繕と再構築をしてやろう」

 止まったばかりの装置。止まったばかりの加速。

 意識のタイムラグはまだ収まらないけど、その声だけははっきりと聞こえた。

「……ったく。無茶しやがって……。物音に気付いて俺が来なかったらどうなっていたか。これはもしもの時に備えて二人以上でやる特殊な訓練だ。それを一人でやるとか……あきれてものも言えん」

「……急いでてね。ちょっと、訳ありでさ」

「そうか……。寝る前に一つ聞いていいか? 名前どうする? 登録しないとレースには出れない。大体の奴は妻子の名前だとか、ガールフレンドの名前だとか付けるんだがな」

 もう意識の限界だった。

「……繋げるんだ。……俺が」 

 そんなことをかすかに言った気がする。

「お、おいフロント!?」

 いつの間にか立ち上がっていた俺は、膝から崩れ落ちるように倒れこんだ。


 燃えてしまった僕の機体の損傷は激しく、ペースとなりうる機材以外はすべて焼かれてしまっていた。遠く離れたアジアの島国で生産されていたとされるその機体は木製だった。そしてその主要部さえも、この先の高速飛行には向いていないと、一新されてしまった。

 残ったのは意匠部分のみ。兄さんが残していった陽炎の意匠。

「この機体は前回の張りぼてなんかとは違う。本格的な格闘戦を意識して設計されたものだ。大型空対空ミサイルを四基搭載、GSh-6-23 23mmガトリングガンを一門……」

「ちょっと! 何も戦争に行くわけじゃないんだから」

 テストをパスした二日後、僕は父さんに新しい機体に関する説明をされていた。

 急ピッチで仕上げたらしく、もう日が傾くころに開かずの扉だった倉庫に呼び出されていた。地下施設で組み上げられた機体は、ターンテーブルに乗せられてそのまま倉庫にせり上げられる。そしてその倉庫の正面には滑走路が続いていた。

「もちろん戦争に行かせるわけにはいかない。だから別の装備をつけておいた。一度の飛行に二度まで、十秒間だけ音速の壁を超えることができる。俺の研究のすべてを費やしたジェットエンジンだ。燃料がもったいないから当日まで乗るな」

「練習はできないの?」

「テストはパスしたろ」

 あとは機体を磨き上げるだけだと外まで機体を運び出す。倉庫の中は薄暗くてよくわからなかったけど、メタリックブルーが太陽光に映えていた。

「大会規定だと確か機体は銀に統一だったはずだけど……」

「気にするな。色が違うくらいで退場にはならないさ」

 燦燦と降り注ぐ太陽の光。頬を焦がす風、砂の匂い。それらが一気に体中を駆け巡り、なんだか久しぶりに地上に出てきたかのような気分にさえなってくる。

「さぁ、思いっきり暴れてこい」

「うん。行ってくる」

 数日の雨季も過ぎ去った砂の街。外はいつものように乾燥しているけど、新しい相棒を目の当たりにして気持ちだけは波打つ水面のように満ち溢れている。

 やれるという気持ちが、出来るという言葉になり、その言葉が勝てるという動機になって、勝つという強い文字が眼前に現れてそれに向かって一歩踏み出す。その言葉を体にまとうように祈りを込めて。


 結局のところまだリンクスに気持ちを伝えられないまま会場についてしまった。

 機体は大会運営が一括で会場まで運んでくれることになっていて、今頃父さんが集積所になっている僕らの学校の校庭に移送してくれている頃だ。

 僕はというと、空調の利いた薄暗い会議室で本大会のルールの説明を聞いている。

 そしてそれが終われば、指定されたホテルで体調を整えて本選というわけだ。

 集まったのは各地から集められた予選を通過した腕のある将来のパイロット達。

 予選はここについてすぐ始まり、あっさりと終った。

 パイロットの質だけを見抜くことを名目に貸し出された機体で、会場内に作られた疑似コースを三周。あっという間だった。ジンは同じ学区には住んでいるけど、生まれが違うということで予選は別のグループだった。だから余計に向こうはやる気がみなぎっているように見える。意識してかどうかは知らないけど、こうして説明を受けるときでさえ僕の隣でスクリーンに映し出される文字の羅列を熱心に眺めている。

 聞いている限り、ルールは去年と変わらないようだ。

 帝都官邸を中心に半径十五キロ。等間隔に設置された障害物(きっと色とりどりの巨大なバルーンだろう)に機体を接触させないように飛行する。近くにはセンサーが備え付けてあって、接触する機体を見つけると登録番号を照らし合わせて即退場となる。

 少し変更点があるとすれば去年より周回の数が増えたことぐらい。

 今年は去年の五周を上回る十周。国交のある友好国の国王がお見えになるらしく、盛大に盛り上げてほしいとの御達しだった。友好国の国王、もしかしたらカパラから武器を買っているかもしれない国。

 戦争という物騒な二文字が頭を埋め尽くした。

「おい」

 夜明けのような静けさの会議室。その中で隣からジンの声が聞こえた。

「おかしいと思わねぇか?」

「増えたね」

「あぁ。要はカパラの航空機の技術力を見せつけるのが目的だろう」

「……ジンはなんとも思わないの?」

「なんだ今さら」

「この首謀者はもしかしたら大統領なのかもしれない……。裏で兵器のデモンストレーションだなんて大事、大統領が知らないわけがない」

「かもな」

「かもなって……」

「かもなは、かもなだ。そうじゃないかもしれない。そうだろ」

 前方に映し出されるスクリーンが帝都に設置されるアドバルーンを映し出した瞬間、裏の扉が静かに開いて、真っ白い光が差し込んだ。

「……フロントさん、ちょっといいですか?」

 目立たないように姿勢を低くして僕に近づいてきたのは知らない大会委員の男だった。

「……今忙しいんだよ。悪いけど後に」言いかけた瞬間、思いもよらない言葉を耳にした。

「リンクスさんが病院に運ばれまして、お二人に連絡をと付き添いの教員の方が」

「おい! それは本当か? 場所は? 急ぐぞ」

 周囲の視線なんて気にしないジンが、パイプ椅子を倒しながら立ち上がる。

「……リンクスが?」

「容体は安定したそうなんですが、うわごとで二人の名前を」


 幸運にも搬送された病院はこの会場からほど近い場所にあった。帝都らしく緑に囲まれたところで、ジンによると帝都でも大きな病院だそうだ。

 リンクスはそこの屋上に近い病室の窓際にいた。

 小灯台には僕らの住む街じゃあまり見かけない花が花瓶に生けてあって、リンクスはそれを眺めていた。

「リンクス」

 声をかけると振り向いたリンクスが少しだけ笑うので、体から力が抜けた。

「ごめんね、忙しいのに……。ちょっと立ち眩みしただけなのに、気づいたらこんなところに連れてこられちゃって」

「ただの立ち眩みかよ……ったく心配して損したわ」

 もしかしたら倒れた拍子に軽く頭でも打ったのかもしれない、リンクスの頭には包帯が巻かれていた。

「おじさんのところに情報収集に立ち寄ったらリンクスさんが倒れたって! おじさんは大丈夫だっていうけど頭打ってたし……もう私パニックになっちゃって……。ところで二人とも新ルールの説明会は大丈夫なの?」リンクスがいるベッド脇に備え付けてある丸椅にマチルダ先生は座っていた。申し訳程度の大きさの丸椅子からマチルダ先生のわがままボディがはみ出していた。

「呼んどいてそれかよ」

「周回が増えてました」

「……性能を誇示するためね」マチルダ先生が二重あごをさする。

「いよいよ始まるのね……本選が……」リンクスの口調に緊張感が混じる。

 航空レース。この国の誰かが仕組んだ兵器の密売のためのショー。とても個人じゃできない芸当で、おそらく国のトップが絡んでいるに違いない。それを兄さんが嗅ぎつけて、暴こうとした可能性。そして、そのために消された可能性。僕らは、そんな危ない橋を渡ろうとしている。

 もしかしたらこの四人が集まるのも今日で最後かもしれないと思うと、恐怖で体が石にでもなってしまったみたいに血の気が引いていくのがわかる。

 死。それが眼前にある。

「なんだ辛気くせぇ。そんなもんいちいち考えてもしょうがねえことくらいわかるだろ? 俺とフロントが大会に出る。んで、どっちかが勝つ。ついでに機体が制御効かなくなったとかっつって国境を超える。そんで、フロントの兄貴が見ようとしてたものを見る。出来れば証拠をつかむ。で、いいんだろ?」

「そんな簡単にいくかな」

「お前も……。いい加減腹くくれって。兄貴のことがかかってるんだろ?」

「ホテルのチェックインは何時なの?」

「んなもん俺のこのバッジがあれば何とでもなる。リンクスも、面会時間もうぎりぎりなんだろ? 寝てろ。おい、フロント。お前、逃げるなよ」

 ジンは勝手なことを言う。

「僕みたいな日陰者が出るようなイベントじゃなかったの?」

「気が変わった。それだけだ。お前は観衆の面前で潰す。そして俺が勝つ。リンクスのことは任せてお前は帰ってろ」

「フロント君の機体を焼いといてどういう発言なの? まったくあなたって子は……。……ちょっと来なさい。私がそのねじれた根性を直してあげるから」

「は? ちょっ……なにすんだよ!?」

 抵抗するジンがマチルダ先生によって病室から出て行ってしまった。

 ……いつもなら会話も出来るのに、僕とリンクスの間に静寂が下りてしまう。

 迷いがあった。僕はまだリンクスに自分の気持ちを伝えることができないままでいた。その話をここでしてしまわないと、明日が本選だ。もう時間がない。

 すぅっと深呼吸をして、たぎる気持ちを落ち着かせる。手のひらは湿ってしまっていた。

 リンクスは窓辺の花瓶を眺めていた。

「リンクス」はっきりと、明瞭に声にする。

「ん?」振り向くリンクスに、僕は再び深呼吸をした。でも、

「その、……。あの……」名前まで言ったものの、そこから先が出てこない。伝えたい言葉は熱で赤く染まっているのに……。

「ほんと、相変わらずフロントははっきりしないなぁ」

「……ごめん」

 ふふっとリンクスが笑みをこぼした。

「ねぇ、覚えてる? フロントがアムール砂漠のアッサムの丘まで走って行った日のこと」

 それは僕がまだ本当に子供のころの話で、兄さんが初めてフライトに成功した日のことだ。遠い昔の記憶。リンクスもまだ子供で、兄さんの後ろにいつもくっついて歩いていたころのことだ。

「覚えてるよ。どんだけ走っても、どんだけもがいても、兄さんには追い付かなかった。僕が兄さんを追いかけるのをあきらめるころには、すっかり汗だくで、帰り道もわからなくなってた。死ぬんじゃないかって初めて思ったよ」

「捜索隊も、この暑さじゃ持たないだろって早々に帰って行って……。私とラウ爺さんが夜まで探したんだけど、見つからなくて」

「「そしたらけろったした表情で帰ってきた」」

 僕ら二人はこの話になると、必ずここで噴き出した。

「死ぬかもしれないって思ったのは確かだけど、死ねないって思った。まぁ、帰ったら死ぬほど怒られたんだけど」

「バカ。本気で心配したんだから」

「何も泣くことないのに」

「……本気で心配したんだから」

「うん……。ありがと」

「だから勝てるよ。きっと」

「え?」

「フロント。あの時と同じ目をしてる。フロイトに負けたくなかったあの時と同じ目。フロイトがいなくなってからそんな目、してなかったよ?」

「負けるわけにはいかないだろ」

「私のために?」

「兄さんが見たかったものを見るためにも、僕は……」

 兄さん……。もう少しで真相にたどり着けるかもしれない。兄さんがいなくなったあの日とはもう違う。ただ茫然とブラウン管を眺めることしかできなかった無力なころとはもう違うんだ。

 飛ぼう。そして探すんだ。兄さんが探していたものを。

「はい。お守り」

「……え?」

「本当はフロイトにもらった私の宝物なんだけど、特別に貸してあげる。……私だってフロイトのそばに行きたいよ。だから私も空に連れて行って?」

「気持ちは受け取ったよ」


 見上げる空に雲一つない快晴に見舞われたレース当日。相変わらず渇いた風に肌が焼かれそうになる朝、僕は一人機体の整備をしていた。

 国中のみんなが熱を上げる年に一度の航空レース、国中から観客たちが集まっているに違いない。本当なら僕も開会式に出て、主催であるこの国の大統領のありがたい説法でも聞かないとならないんだろうけど、そうはしなかった。田舎育ちの性で、どうもあの圧迫するほどのすし詰め状態の観客を見るのが耐えられない。ただでさえ緊張のあまり昨日から一睡もしていないのに、そんな状態ではとてもうまく飛べないだろう。

 ドックには僕一人しかない。静寂が包むはずのこの場所でさえも、外の暑苦しい熱気でむせかえるような気分になる。

 さっき父さんがやってきて差し入れにミントティーと黒パンを置いて行ってくれた。一応ホテルでも朝食が出たんだけど、どうも都会的な食事が口に合わなくて一口食べたらなんだか食べられなくなってしまった。

 工具が置かれた車輪がついた小さなテーブル。その上に父さんの差し入れがある。一口食べると、日常が戻ってきたようで心が落ち着いた。

 傍らに置いておいた小さなラジオから一瞬だけ雑音が入り、途切れながら大統領の開会の挨拶が始まる。

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