第8話 月の女神の
空には満月が浮かんでいる。
今日の主役だ。名前は……なんだっけ?
僕は寝不足のまま月齢祭を迎えることになった。
リンクスとはその間一切連絡を取っていない。
僕からまた電話をかけようとしても、出てくれなかった。
ラウじいさんからは顧客が一人減ってしまったと嫌味を言われた。
もしかしたら寝不足で正常な判断ができていないのかもしれない。
家に帰ってもリンクスのことが頭から離れず、一度だけ父さんをリンクスと呼んでしまった。
でも、もう当日だ。
僕は会場のある砂丘まで機体で飛んでいく。そこから見えるのが兄さんが消息をたったアムール砂漠。通称入口のない砂漠だ。
家を出るとき、青天の霹靂ともいえるような表情で父さんは僕を止めた。
月齢祭にこの歳で一人で出かけるということは、ガールフレンドでも出来ない限りない。
「どうしたフロント? もう店なんてやってないぞ」
「ちょっと……、月齢祭」
三十分のフライト。暗いので景色を楽しむこともなかった。
会場ではいくつものかがり火があたりを照らし、その周辺では出店が子供相手に商売をしていた。
昔はフロイト兄さんとリンクスとではしゃいでたっけ。
綿菓子をもって走り回る子供をみて、そんな懐かしい記憶にすがる。
「よぉフロント」
見るとジンが焼き菓子を頬張りながら僕に近づいていた。
「お前も隅に置けない奴だな。相手は誰だ? リンクスか」
なんでそんなことをジンが……。
「……残念だ。今年もお前には無縁の行事だったな」
「それって……」
「リンクスは失意のどん底にいたんだよ。お前は念願だったフライトを成功させて、この俺にまで勝った。調子に乗っていて気付くのが遅かったみたいだな。リンクスは祭りの踊り子を外された」
ジンがいやらしく口角を上げていた。
「それ、お前には話したのか?」
「お前? ずいぶん舐めた口を利くようになったじゃないか伝説の弟君は……。そう。俺だけには話した。それだけじゃない」
いやな予感がした。
「癒しの口づけも……。その味は何よりも甘かった」
僕の中で何かが切れる音がした。今まで切れないように何とか耐えていた何か重要なものが。
「お前! 何をしているのかわかっているのか!?」
掴みかかり、殴る。小説で学んだ武道の型なんて使えないほど頭に血が上っていた。
「わかっているさ。わかっていないのはフロント。お前の方だ」
殴り飛ばしたジンが立ち上がり、僕に拳をふるう。血が砂に数滴落ちる。
周囲は騒然としていた。何かの娯楽のように酔った老人がはやし立て、僕らの喧嘩の巻き添えを食らう店の女店主が悲痛な声を上げていた。
「フロント。お前には関係のない行事なんだよこの祭りも。レースも。もっと華のあるやつが、認められた人間だけが出られるんだよ」
蹴り飛ばされた僕は、焼き菓子屋の屋台に叩きつけられる。木で出来た手押し車は、耐久性がないのか荷台部分が折れてしまった。
「誰に選ばれるって? 結局それはお前が主軸の考えだろ! そんな基準は存在しない。わかっていないのはお前だ御曹司」
ジンがまだ立ち上がれていない僕に突進してくる。
「もう一度言ってみろ」
両手で首を締めあげられて息もできない。
「お前は……、世間知らずで、能もないくせに金だけが取り柄のボンボンだ!」
右足を大きく振り上げると、それがジンの顔面に入った。
その場に倒れこむジン。どうやら出血しているらしいけど、揺れる炎であまりよく見えない。
「そのくせ喧嘩まで弱かったのか!?」
「……この野郎!」
立ち上がるジンに冷静な判断は下せない。考えなしにまた突っ込んでくる。
さっきの一撃が効いているのか、足元がおぼつかない様子だった。
突き出された腕をそのままつかみ、体をひねって背後へ。あとは綱でも引っ張る要領で投げ飛ばす。
想像の二倍は派手に飛んだ。居酒屋の屋台が砂煙を上げて崩れた。
店主が慌てて出てくるが、僕らの様子を見てすっかりへこたれてしまっている。
ジンが立ち上がる様子はない。
「二度とリンクスに近づくな」
土煙の向こうは何も見えない。ただ崩れ落ちる屋台の木片が音を立てるだけだ。
露店のある区画を抜け、砂丘の真ん中へと向かう。
そこには石が円柱形に積まれた祭壇がある。毎年そこで踊り子が月の女神に踊りを捧げる。もうすでに始まっているらしく、伝統衣装に身を包んだ踊り子が、それを取り囲む演奏者の音楽とともに踊っている。子供のころから見慣れているから何とも思うことはないけど、よそから来た人が言うには異国情緒があって情熱的らしい。もしかしたらかがり火がそういうイメージを与えているのかもしれない。
リンクスはどこだろう? 人ごみをかき分けて最前列に移動する。
月明りに照らされた踊り子たちは、軽やかに踊る。規則正しい動きで、右往左往と行き来する。リンクスもこのために何年もの間稽古をつけてきた。
目を皿のようにして探してみたけど、結局見つけることができなかった。
もしかしたら、時間が少し違うのかもしれない。
祭りは一時間以上は続く。だから前半と後半みたいな分け方を今年から始めたのかもしれない。
僕は、祭壇のある砂丘を後にしてアムール砂漠へと歩を進める。
月明りに映し出されるのは青白い砂の山。すべての「動」が静止した世界がそこにはあった。
それにしてもリンクスはどこに……。
「フロント……」
聞き覚えのある声に振り向くと、白いヴェールに包まれた見慣れない女性が立っていた。
月明りもあるせいか、どこか陰のあるはかなげな印象だった。
僕の名前を知っているということは、僕の知り合いの誰か。そして女性というのであれば二択しかなく、そのうち片方に僕は呼ばれている。
「リンクス?」
淡い色の口紅、薄い化粧、凛とした姿勢。同じなのは声とシルエットだけで、見た目ははるかに大人に見えた。女の子ではなく、女性だった。
「アムール砂漠見てたの?」
「あぁ、こういう時じゃないと来ないから。あんまり来ると僕が兄さんの消息を否定してしまっているように思えて……」
「そう……」
リンクスが来ている白いドレスは、先代の踊り子の衣装でこれを着て踊るということは先祖の意思を受け継ぐにふさわしい巫女として村長から認められた証。祭りの終盤では歌声を砂漠に響かせて、月の女神の復活を祝う。
「……すごく、似合ってるよ。ほんとに」
心からの言葉だった。暗闇にいるはずなのに、淡い光を放っているようにさえ見えた。もしかしたら先人たちは、夜更けの巫女に月の女神を投影させたのかもしれない。
「ありがと」
僕らの間に名前はない。友情とか思慕の情とか、ましてや愛情だなんて……。
うつむく僕らの間に、冷たい風が吹く。そのたびに、足元の砂がサラサラと音を立てて流れていく。
「話って何……? 新しい練習のメニューの話?」
「違うの……。もう、会えないかもしれないの……、私たち」
「なんだよ急に」
「ジンにキスされたの」
「え……!?」
一瞬、心臓が止まったことさえ思った。
時間が止まるとか、気が動転するとか、この状況を説明するのにいろいろ言葉はあるけど、こんなにも残酷で聞こえの悪い言葉を耳にした瞬間、頭をよぎったのは「死」だった。
僕は、数舜の間死んでいた。
すべての感情が欠落し、体の機能が停止した。
耳も、目も、手も足も、脳でさえ、リンクスが今放った言葉を拒絶した。
「なんで……そんな……、だって僕たち」
「もう分からないのよ……! あなたは前年度のチャンピオンに勝って満足かもしれない。でも私は違う。あなたは周りにちやほやされて満足かもしれない。でも私は違う。あなたは私がいなくても寂しいとも思わない。でも私は……」
「ずっとそばにいるから」
リンクスの頬に手を伸ばす、けど。
「……あなたにはわからない。月の巫女も外された私の気持ちなんて」
リンクスが僕の手を払う。
「ジンがね、自警隊のパイロットの養成学校に行くんだって。だから、フロントとの勝負に勝ったら結婚してくれって……。フロントに勝ったらなんでもするって約束だろって」
……リンクスが、月の巫女を外された? ジンと結婚する!?
「……フロントじゃ無理だよ。私なしじゃ勝てっこない。でも、もうあなたを見ているのがつらいの」
「そんな……、あの時のキスの意味は? 今日教えてくれるって約束だろ?」
「好きだったの……、でももう分からないの。自分の感情も、理想も、将来のことも」
──雨が、降りだした。
──ぽつりぽつりと、砂を濡らし、小さな丸をいくつも作っていく。
「やっぱり国営放送は当たらないね……。もう行かなくちゃ……。記念だからって借りてきたけど、私が着る衣装じゃないし」
呆然と立ち尽くす僕が見えないかのように、リンクスは去っていく。
「元気でね……。大きな病院はサンドランドにしかないから、病気になんてなったら大変よ?」
祭りは月の巫女の復活を祝う前に、終焉を迎えた。
強まる雨脚にかがり火が耐えられないからだ。
喪失感、なんてものを味わうなんて思いもしなかった。
あって当然だと思ってたんだ。リンクスが僕の隣にいることが当然のことなんだと。
兄さんのことも本当は僕の感度が鈍いために気づけないだけなのかもしれない。
リンクスが埋めてくれていたんだ。僕の鈍かった心の感度を。
今、その埋まっていた穴が大きく裂ける。
つらい、寒い、怖い、暗い、痛い、悲しい。無意味。
それらの言葉では足りないほどの絶望。
僕は一人歩き出した。ほかに行く当てもないけど、僕にはまだパイロットとしての才能だけがある。あの機体に戻れれば、僕は僕でいられる気がした。
砂丘を過ぎたあたりで、夜の闇の中に小さなオレンジ色の光を目にする。
感情がすべて死んでいるせいか、頭の働きが悪い。その光が一体何なのか、想像もできなかった。
「見ろフロント! お前から航空レースの出場権を奪ってやったぞ! お前にはやはり無縁のイベントなんだよ!」
オレンジ色の光の正体は、真っ赤に燃える炎だった。
燃えているのは、僕の機体だった。
ジンの片手には、ガソリンのような液体が入った容器が。
突如、何かが内から這い出ようとしているのを感じた。
それはゆっくりと、でも着実に僕の体を蝕み、気づいた時にはジンに詰め寄っていた。
「どういうことだこれは! おい! お前に聞いてんだよ」
胸ぐらをつかんで問いただすも、ジンは薄ら笑いを浮かべるだけで会話にならない。
ジンは頭から血を流していた。だから判断がつかないのかもしれない、が、それとこれとは関係ない。俺は左手をそのままの状態で、大きく右腕を後方へそらす。渾身の一撃をこいつに見舞ってやる……。
「もうやめておけ、ジンが死んでしまうぞ……」
俺を止めたのは、さっきの露店のオヤジだった。
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